2012年11月22日木曜日

プログラム科学(自己組織性の設計科学)の科学哲学的課題

政治社会学会(ASPOS)第3回研究大会、研究報告要旨

三石博行(千里金蘭大学)


2012年11月23日(金)から25日(日)にかけて、国際基督教大学で政治社会学会(ASPOS)の第3回総会及び研究大会が開催される。研究大会のテーマは「文理融合と人文・社会科学の再生(3)」である。

今回の研究大会からセッション「プログラム科学とは何か」を開設し、吉田民人先生が提案したプログラム科学が政治社会学の研究方法や理論として有効な科学的手段となるかを議論することになった。

私は、11月24日(土)16:30-19:00 セッション3「プログラム科学とは何か」の報告者として「プログラム科学(自己組織性の設計科学)の科学哲学的課題」について発表する予定である。この文章はそのために書いた要旨である。


プログラム科学とは何か

吉田民人(以後吉田と呼ぶ)は物理化学的物質・エネルギーの世界を構成している法則と生物人間社会の世界を構築している秩序の概念を峻別した。その峻別の方法として援用された理論が「自己組織性の情報科学」であった。つまり、宇宙上の物理現象が自ら進化することはないように、物理化学的世界ではその世界を自ら再編する法則は存在しない。しかし、生物の世界には進化という現象が起こる。この現象は生物の基本構造である遺伝子が、自らその構造を変更する性質を持つことで起こる。

自己組織性は生命現象の属性である。物質・エネルギーの世界を解明する物理学と生命の世界を解明する生物学では、科学性が異なると吉田は考えた。そして、前者を法則科学と呼び、後者をプログラム科学と呼んだ。

つまり、生命から社会までの世界を理解する科学を総じてプログラム科学と考え、遺伝子プログラムによって現象する生物の世界に関する科学を「シグナル性プログラム」科学、言語性プログラムによって現象する社会文化(精神)の世界に関する科学を「シンボル性プログラム」科学と吉田は呼んでいる。



プログラム科学理論は存在するか

シグナル性プログラム科学の基礎理論は遺伝子学であると考えられる。生物学は「シグナル性プログラム」科学であると現場の生物分野の研究者に説明したとしても、その新語法による生物学の解釈は、彼らには目新しい重要な意味をなんら与えることはないだろう。また、「シグナル性プログラム」科学理論の体系的構築は生命生物分野では全く展開されていない。

まったく同様のことが、「シンボル性プログラム」科学にも当てはまる。例えば、シンボル性プログラム科学の基礎理論は、言語活動を支配する脳神経生理学(感覚や知覚の神経生理学)、メタ心理学(無意識の心理学)や心理学(意識に関する心理学)だと人間社会科学分野の研究者に説明しても、彼らが今まで活用してきた伝統的な理論を捨てて、まだ確立していないシンボル性プログラム科学の理論を援用して人間社会経済文化現象を分析し解釈できるとは思われない。

つまり、プログラム科学は、その具体的な対象である生命・生物科学や人間社会科学の理論に於いても実践的研究に於いでも(研究の現場で)、論理的及び実践的な意味を持っていない。つまり、実際の科学理論として、プログラム科学は存在していないのである。



「自己組織性」の概念、人間社会科学における主体性に関する理論

自己組織性は生命作用である。自己組織性を前提にしない人間社会科学の理論は成立しない。この命題から、人間社会学の課題として「主体性」を語る科学理論が問題となっている。この問い掛けは若き吉田がパーソンズの社会システム論と格闘している時代から存在した。そして、「生活空間の構造-機能分析」で一つの方向を得た。

つまり、吉田は主体性を「自己と外界」という視点、言い換えると主体はあくまでも外界に対峙した存在として理解するのでなく、主体を共同主観的自己(パーソナリティ)として共同主観的世界(レファレンシャル)との関係に於いて分析的に、つまり構造‐機能的に解釈していた。当時の吉田は理論社会学における主体概念の哲学的命題を、廣松渉が現象世界と呼んだ対象的二要因と主体的二重性の相補的関係によって成立している認識の四肢的構造聯関の構図に求めようとしていた。

人間社会学における主体(パーソナリティ)とはその人間社会学の研究対象である社会現象(レファレンシャル)に含まれている。つまり、人間社会学はその研究主体を含む世界の認識や解釈を行なう学問である。その意味で研究対象に主体の入り込む余地のない物理学とは異なる。客観と主観の二元論的な科学的方法論では、人間社会学の研究は深化しないのである。つまり人間社会学における科学性には、常に歴史的観念構造(共同主観)性を含む解釈が潜在化し、その解釈を取り除くことは不可能である。

吉田は主体性の問題を展開するために理論社会学を研究した。つまり、主体性の理論社会学的展開として「パーソナリティ」の構造-機能分析があり、「情報」や「自己組織性」の概念があり、さらに「プログラム」の意味が語られ、プログラム科学論の提案があった。

理論社会学者にとって主体性とは、哲学者が表現する「セルフ・意識化された自己」でもなく、また精神分析者が語る「エゴ・他者としての自己」でもなく、それは社会的機能によって形成され、またそれを再生産し続ける(自己組織性)構造化されたパーソナリティであった。そのパーソナリティの形成と再形成過程(自己組織性)の理解が理論社会学における主体性の問題となっていた。つまり、生命現象が自己組織性を示す広義概念であり、主体性がその狭義概念であると言える。



資源・情報、資源・情報処理、プログラム概念の形成

世界を変革する主体と世界によって変革される主体、それが生きるという課題であり、そのことを理解するのが人間社会科学である。しかし、理論社会学における主体とは行為を生み出すパーソナリティの力動的構造である。1960年代の理論社会学の研究課題は、そのパーソナリティの力動的要因を見つけ出し、それらの機能-構造関係を明らかにすることであった。

人間社会学が対象とする世界は社会文化生活資源である。それらは生産されたものであり、所有されたものであり、価値化されたものである。資源はある物質的存在を背景に持ち、同時にその情報(パターン)を所有している。また資源は何かの資源にとっての資源であり、その資源はさらに何かの資源に転用変換される資源である。つまり、資源とは生産、消費、再生産の過程(処理と流通)を前提にして存在している人工物である。

吉田が定義した広義の情報とは「人間社会資源の空間的、時間的、定性的、定量的パターン」であると解釈できる。これらの人工物の情報は資源とその資源処理過程によって形成される。情報処理によって資源処理過程が生産され、そこに新たな情報が生まれる。つまり、情報処理と資源処理は相補的関係にある。人間社会現象では社会文化資源と社会文化観念の形成や崩壊は同時に起こる。この相互の関係を現象学社会学は語っている。その生産と再生産、形成と崩壊、変換と流通の過程を含めた動態的システムを語るために吉田はプログラム科学(論)を展開した。

吉田の定義する自己組織性は生物から社会までのシステムに特有のものとして理解される。自己のプログラムを変換する機能(種の進化や退化)を持つシステムを自己組織性と考え、そのシステムを動かすのがプログラムであった。プログラムは情報・資源処理のルールである。つまり、個体保存と種の保存をもつ全てのシステム(生命から社会まで)はプログラムによって機能しているというのが吉田の言う自己組織性の理論である。



科学史の中でのプログラム科学の位置づけ

当時(1990年代)、吉田は自己組織を物理的現象として解釈した理論との闘争をしなければならなかった。そのため、プログラム科学を科学哲学的に位置付ける作業を行なった。吉田はDNAの情報概念の発見と分子生物学の形成・発展を科学への「情報とプログラム」概念の導入と位置づけ、これまでの法則科学も対抗するプログラムと呼ばれる「秩序原理」が科学理論の土台に据えられたと述べた。

この法則科学に対するプログラム科学の形成を近代科学のパラダイム・シフト、つまり大文字の第2の科学革命と吉田は命名した。吉田は科学哲学の概念としてプログラム科学を位置付けたのである。

さらに吉田は秩序原理に基づく科学性を「新科学論」と名づけ、その科学哲学を土台とする科学を「21世紀の科学」と称した。この科学は認識科学に対して設計科学の立場を取り、法則科学に対してプログラム科学の立場を取る。秩序原理の理解とその実践的応用が課題となる。プログラム科学と設計学は同時に展開するのである。



科学史の中でのプログラム科学の位置づけ

当時(1990年代)、吉田は自己組織を物理的現象として解釈した理論との闘争をしなければならなかった。そのため、プログラム科学を科学哲学的に位置付ける作業を行なった。吉田はDNAの情報概念の発見と分子生物学の形成・発展を科学への「情報とプログラム」概念の導入と位置づけ、これまでの法則科学も対抗するプログラムと呼ばれる「秩序原理」が科学理論の土台に据えられたと述べた。

この法則科学に対するプログラム科学の形成を近代科学のパラダイム・シフト、つまり大文字の第2の科学革命と吉田は命名した。吉田は科学哲学の概念としてプログラム科学を位置付けたのである。

さらに吉田は秩序原理に基づく科学性を「新科学論」と名づけ、その科学哲学を土台とする科学を「21世紀の科学」と称した。この科学は認識科学に対して設計科学の立場を取り、法則科学に対してプログラム科学の立場を取る。秩序原理の理解とその実践的応用が課題となる。プログラム科学と設計学は同時に展開するのである。



存在論的構築主義と設計科学

生物からすべての人工物に至る世界(現象)をそれぞれの階層秩序によって構築された世界と理解するなら、この構築概念とプログラム概念は、それぞれの階層秩序を構成している要素とその要素間の関係(構造-機能関係)の総合的関係と解釈できる。

プログラム科学の課題は1、プログラムの解明(構造機能に関する理解)、2、プログラムの作動過程の解明(力動的機能に関する理解)、3、プログラムの作動結果の解明(作動評価)、4、プログラムのライフサイクル(生成、維持、変容、消滅)の解明(プログラム進化に関する理解と評価)の四つあると吉田は述べている。このプログラムの解明を行なうだけでなく、その作動過程や作動結果、さらには、そのプログラムの進化過程をも研究対象とするのが吉田の言うプログラム科学である。その意味で、現在の科学の問題点が指摘されている。例えば、原子力物理学理論の研究、その原子力発電技術への応用研究、原発の稼動による全ての結果(経済効果、環境問題、エネルギー問題、原発の安全性の問題、作業員の健康問題等々)の研究課題の全てが総合的に課題となる科学をプログラム科学と呼ぶと吉田は述べているのである。

つまり、人工物プログラムのライフサイクル(生成、維持、変容、消滅)を作り出す要素は人工物の認知構築や評価構築でなく、指令的構築であると吉田は述べている。認知・評価・指令の3モードを統合する構築論を吉田は「存在論的構築主義」と呼んだ。

基礎研究と応用研究、さらにその社会経済効果に関する総合的調査を前提にして発展しているのが工学、医学や農学である。工学分野では工場プラント設計のように物理・化学・生物工学のようなプログラム科学的技術学による工学設計が行なわれている。人間社会科学でも、経済・政治・文化政策学を代表とするプログラム科学的技術学が存在する。研究対象のプログラム解明とその変革を行なうことを目的としていることが、工学、人間社会科学の設計思想を持つプログラム科学の特徴であると述べている。

個別プログラム科学的技術学が持つ指令的構築によって、問題解決型の知的機能が引き出される。つまり、状況に適応した技術が提案、実践、検証、改良、さらに破棄されるのである。問題解決を目的とした総合的な知識が形成される。これを人工物設計科学と呼ぶ。問題解決を課題とする構築主義的な科学技術を吉田は「新科学論」から形成された「21世紀の科学」・設計科学と考えたのである。



プログラム科学(論)の目的

プログラム科学の理論は科学哲学的に存在する。しかし、その目的である世界を変革する知として問題解決の学としてプログラム科学は未だ成立していない。また、成立する見通しもない。何故なら、生物から社会までの秩序原理は一つのプログラムで表現されているのではなく、それぞれの現象を構築している具体的な要素によって表現されているからである。生物的秩序原理、生態的秩序原理、動物行動学的秩序原理、社会的秩序原理、経済的秩序原理、文化的秩序原理、人間行動学的秩序原理、等々。その多様な秩序原理を一つの秩序原理(統一プログラム)として語ることはできない。その意味で吉田のプログラム科学は哲学的にしか成立し得ないのである。

では、何故、プログラム科学が問題となるのだろうか。そこには、人類が今まで経験したことのない21世紀社会の姿がある。つまり、豊かな生活を求めて作り上げてきた人工物環境が、前の世紀から次第に巨大化し、遂には、人間はその人工物環境に疎外されるようになってしまった。具体的には、環境問題や原発事故などが挙げられるだろう。

つまり、科学技術文明社会では、人間環境の中に占める人工物の割合が大きくなる。それらの人工物環境は社会のイデオロギーを再生産し続ける。環境となった科学技術文明の観念構造は人間の精神構造を形成する基盤となる。社会文化観念形態の物象化された世界に社会的存在である人間は支配され続けることになる。

それらの人工物の世界(生態・社会・文化・生活環境)を人間の作り出した科学、技術、政治イデオロギー、法律や社会制度のプログラムとして理解することで、それらの環境に絶対的に支配されている人間が、そのプログラムの改善、新設や破棄を通じて、主体的に変革できる可能性を理解するのである。

つまり、人間社会環境を人工物システムとして理解し、それらのシステムを構築している要素(資源・情報要素)とその要素間の関係(プログラム)を解明し、そのプログラムの作動を理解し、そしてそのプログラムの変換に必要な理論や技術を開発する。それらは具体的には人間社会学の理論を土台とする政策学となる。

従って、実践的知識の寄せ集め、プラグマティズム的方法として伝統的科学論から軽視されがちな問題解決学に対して、その科学性の根拠を説明することがプログラム科学の目的であると言える。言い換えると、現実の世界では、問題解決に必要な知識を必要に応じて、色々な分野の科学や技術学から取り寄せ、そしてその取り寄せた実践的な知(道具)を一つの問題解決学として提起している。

プラグマティズム的な手段を用いる問題解決学は、学問研究の世界では、純粋科学研究に比べて科学的と評価されていない。その科学的という評価の基準を、論理的整合性、認識構築中心主義から、評価構築や指令構築を積極的に科学の目的として取り入れるために、生物人間社会学の対象をプログラムから構築されている世界と解釈したのである。取り分け、人間社会学の研究対象を人工物システムと理解し、そのシステムを構築しているプログラムの解明を目的とすると自覚的な科学研究の課題を一般化することで、諸領域に分断化された知を一つの領域(人工物システム)に集めることが可能となるのである。

吉田の展開したプログラム科学の目的は、領域分断化されている人間社会の認識構築を、「豊かな人間的生活をしたい」という生活主体の要求(指令構築)にそって、評価構築を行い、必要な認識構築を拾い出し、不足している認識構築を探求調査し、それを再度評価構築し直し、指令構築を満たす科学、つまり問題解決学を形成するためのものである。



プログラム科学(論)の課題

しかし、プログラム科学は完成していない。吉田民人という天才が、我々にその可能性を語ったに過ぎない。科学哲学として吉田はプログラム科学を提起した。しかし、その問題提起には、問題解決学としてのプログラム科学の形成を目指すことが示唆されている。

つまり、科学哲学としてのプログラム科学論が正しいと評価した段階で、我々は、この吉田の提起した「問題解決学(政策学)としてのプログラム科学」の形成に向かわなければならない立場に立たされているのである。

プログラム科学は成立しえないのでなく、いまだ成立していないのである。その成立のための研究が我々に残されている。現実的な問題解決に耐えられる理論と技術を前提にしながら、この新しい科学理論の形成に向かう必要がある。



参考文献と資料

廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』岩波書店 廣松渉著作集1巻 1996.6 

吉田民人「生活空間の構造一機能分析-人間的生の行動学的理論-」pp136-196、作田啓一編 現代社会学講座Ⅴ『人間形成の社会学』1964年、有斐閣

吉田民人「社会システム論における情報-資源処理パラダイムの構想」『現代社会学』01-1、pp7-27、1973年

吉田民人「近代科学のパラダイム・シフト-進化史的<情報>概念の構築と<プログラム科学>の提唱」学術研究総合調査報告書、1996年、pp253-282

吉田民人「21世紀科学のパラダイム・シフト : 情報諸科学とプログラム科学, そして社会情報学 」『社会・経済システム』(15),1996年10月19日、 pp13-19

吉田民人「大文字の第2次科学革命-<物質エネルギ-と法則>から<情報とプログラム>へ-」『学術の動向』(日本学術会議広報誌)1998年11月

吉田民人「特集 俯瞰型研究プロジェクト(2000年10月号)を受けて--俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」『学術の動向』2000年11月 pp36-45、

吉田民人「新科学論と存在論的構築主義:<秩序原理の進化>と<生物的・人間的存在の内部モデル>」『社会学評論』219号 2000年12月 pp260-280


「吉田民人論文・著書リスト」
  三石博行ホームページ「研究哲学 プログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html


政治社会学会(ASPOS)第3回総会及び研究大会

大会テーマ「文理融合と人文・社会科学の再生(3)」
大会日程 2012年11月23日(金)~25日(日)

会場 国際基督教大学 東ヶ崎潔記念ダイアログハウス国際会議室(2階)

政治社会学会(ASPOS)ホームページ
http://aspos.web.fc2.com/

総会及び研究会プログラム

総会及び研究会 発表要旨集


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脱原発、地方分権と東アジア平和外交を選挙の争点としよう

国民的政策提案運動の形成(1)

三石博行


緑の党の選挙協力に関する協定案

「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」の友人たちが、今、脱原発を訴える政党や議員に対して選挙協力のための「協定案」を作ろうとしている。結成したばかりの緑の党は今回の選挙で「第三極」と呼ばれる勢力には成長していない。しかし、脱原発を国民的政治イベントである選挙で訴えなければならない。

そこで全国組織である緑の党では、脱原発を掲げた政党、例えば共産党や社民党、緑の風、生活が第一等々と、政策協定を結ぶことを前提に選挙支援を行うことが話し合われている。この動きは「政策を無視して大同団結」を訴えている「日本維新の会」とまったく逆の政治行動である。

「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」では最重要政策として脱原発と自然再生可能エネルギー政策を挙げた。つまり、脱原発を掲げた政党や立候補者に対して、緑の党の最重要政策・「いのちと子どもの未来を奪う原発は今すぐゼロへ向かう政策を実施すること-フクシマの悲劇を繰り返さず! 自然エネルギーへシフトする」に賛同する場合にのみ、選挙協力をする。

また、個別政策として、消費増税廃止、TPP交渉に不参加と非暴力・平和>憲法9条の堅持の三つの政策同意が得られる条件が、緑の党が他の政党や議員と選挙協力の協定を結ぶ副次条件となっている。

市民運動の中から、社会を変えるためには多くの限界にぶつかる。そのため、市民運動は政治運動と関係を持つことになる。市民運動は生活に根ざした運度であり、草の根の民主主義を求める活動である。そのため社会土着型の運動スタイルを取る。その意味で市民運動はある地域に限定され、その地域独特の運動スタイルを持つことになる。

福島原発事故は日本と世界を震撼させる大惨事であった。そのため、原発批判の運動は全国規模で起こり、各地の脱原発を訴える市民運動がその地域性を越えて全国的なネットワークを作った。市民運動のネットワーク化は社会や国家を変革する運動となり、脱原発市民運動が政治的な力を必要とした。こうした状況の中で「緑の党」は形成された。

しかし、生まれたばかりの緑の党が、衆議院選挙を迎えている。各地域の緑の党の組織では、立候補者を立てて、選挙戦に挑む力量はない。だからと言って、選挙に取り組まない訳にはいかない。何故なら、選挙は国民的な政治イベントである。選挙で「脱原発」を国民に訴える機会がある。そのため、緑の党では、脱原発と再生可能エネルギー社会という選挙スローガンを緑の党の最重要政策と位置づけ、それに賛同する政党や立候補者と選挙協力に関する協定を結ぼうとしているのである。



政党選挙公約不信から選挙公約確認へ

民主党政権は国民に選挙公約が意味を持たないことを教えた。つまり、これから国民は政党の選挙公約を信じることはできない。このことは、議会制民主主義の存立条件を危うくしているのであるが、だからと言って、今、議会制民主主義を否定することも、また直接民主主義制度を性急に要求することも、現実的には不可能である。今、置かれている現実から考えると、選挙という手段、それは間接民主主義社会で位置づけられている弱い国民の政治的権利ではあるが、この手段を最大限に活用しながら、日本の社会を変革する以外に道は残されていないのである。

また、国民が政党に政治改革を求める限り、この国の政治は変革しないことも、次第に明らかになっている。21世紀社会の日本を作るために、まず、私たち国民が、政治改革の主体であることを理解しなければならない。その政治改革を行う力を持つ国民が、その代表者として議会で仕事をする国民の代理人(議員)になってこそ、行政改革は可能になるのである。国を変えるために、私たちが、まず変わらなければならない。そして、私たちに与えられている唯一の政治的意見の表現手段である選挙に前向きに取り組むべきだと思う。

前向きに取り組まなかった今までの私たちの姿勢、つまり選挙に行かないこと、誰を選んでも同じだとあきらめること、それを変えなければならない。選挙によって選ばれた議員たちが国の法律を決める役割を担っている、これが現実の私たちの民主主義社会のルールである。そのルールに則り、まず、選挙に対する積極的な私たちの意見や活動を行う必要がある。



提案1、脱原発と再生可能エネルギー社会構築

まず、今回の選挙では、殆どの国民は政党が示す莫大な項目の選挙公約に対して見向きもしないだろう。そこで、政党の様々な選挙公約の羅列を無視し、この国の今後10年間の政治的課題で最も重要だと思われる項目を取り上げなければならない。

その一つが、エネルギー政策と脱原発である。この課題で、これまで政府が推進してきた原子力エネルギーを維持しようとしている政党とそうでない政党を峻別しなければならない。つまり、脱原発の政策を明示しているかどうか。これが政治公約の確認となる。もし、明示していないなら、脱原発を約束していないと理解すべきである。それらの政党に投票することは、福島原発事故を再び繰り返す社会に戻ることを意味する。

脱原発を進めるために、これまでの化石燃料に依存する政策を出す政党は、地球温暖化や日本のエネルギー自給率の向上に関する政策を持っていないと理解すべきである。エネルギーと食料の自給率を同時に上げるための政策を持たなければならないだろう。

例えば、国土の7割を占める森林を活用した木材の自給率の向上とバイオマスや自然災害防止、農産物食料や資源生産、観光開発、つまり新しい雇用創出がひとつの政策として展開できる。それ以外に、わが国は豊富な温泉地帯、豊かな海洋エネルギーや太陽熱や太陽光エネルギーがある。これらの自然エネルギー活用を総合的な視点で理解し、政策化する政党でなければならない。



提案2、地方分権化と選挙制度改革

現在の日本は人口の10分の1が東京都に住み、半分近くが政令指定都市と言われる大都市に集中している。その反面、地方の人口は年々減り、過疎化が急速に進んでいる。地方はますます経済的に疲弊している。この現状を何とかしなければならないだろう。そのためには、地方分権化を進めることである。その方法に関しては色々と具体的な意見の違いがあるが、しかし、少なくとも地方分権化の一歩として、道州制の導入が取り上げられる。

地方分権化社会の成立によって、大きな変化が生まれる。例えば、国会の役割が変る。衆議院の役割と参議院の役割が変化する。少なくとも参議院に関しては地方分権化された州を構成する自治体の首長が参議院議員を兼任できるようにすれば、議員定数を削減しながら、地方分権政府と中央政府の政策上の交流が可能になる。中央政府の役人は地方政府の首長の意見を聞く義務が生じるし、中央政府の内閣と地方政府の共同の政策が検討されることになる。



提案3、東北・東南アジア諸国との平和的共存関係の強化と北太平洋の安全と平和を形成する日米関係のあり方を検討する

今回、中国の海洋資源確保をめぐる政治的意図を消し去ることはできないにしても、石原前東京都知事の挑発的な行為(尖閣諸島を東京都が購入する)とそれに対する野田民主党政権の尖閣諸島をあの時期に国有化するという誤った外交によって日中関係は悪化した。その経済的打撃は、大きい。そして、今後も、さらに経済的に負の要因が展開することが予測される。

今、世界は大きく変化しようとしている。その代表例がEUである。欧州連合の成立は、20世紀の二つの世界戦争の激戦地ヨーロッパの国々や人々の念願であった。EUの形成によって地域国際的な平和的共存が可能になった。現在、その平和的共存のための政治経済制度の課題をめぐり、EUはさらに実験を進めようとしている。

このEUを代表する国際地域的な平和的共存関係の形成は、同じ形式ではないにしろ、今、東南アジアでも起ころうとしている。例えば、ASEANは、東南アジア経済共同体の形成に向けて動き出している。単に、経済的関係だけでなく、教育や技術開発も相互の資源を活用しながら発展させようとしている。文化的に共通する他民族国家が国際地域的な連合を形成し国家という枠に限定されている生態文化、社会産業資源を共有しながら、国際地域的な経済文化共同体を構築しようとしている。この国際地域連携が21世紀社会で起ころうとしているグローバリゼーションの流れであるといえる。

その意味で、日本の国際政治政策は前世紀、東西冷戦時代の古い考え方を踏襲しているといえる。今大切なことは、北太平洋地域の諸国の平和的関係の形成と経済的関係の強化であり、取り分け、アジア諸国との日本の平和的共存関係の形成である。これが、今後の日本の繁栄を導くのである。

そのためには、これまでのように、日米関係のみを重視する外交路線を変更し、日韓関係や東アジア諸国との関係は当然だが、日中関係をはじめ、日露関係の改善を行う必要がある。そして、インドをはじめ、中東諸国や豪州との外交関係を強化し、アジア外交をさらに盛り上げる必要がある。日本独自のアジア外交を前提として、日米関係の新しいあり方を提起すべきである。

アメリカは、これから中国やロシアを仮想敵国にしながらアジア外交を続けることは不可能である。寧ろ、中国やロシアとの友好な関係を構築し、北太平洋の安全を維持すべきである。そのためには、日本のアジア外交力が大きく貢献することは言うまでもないだろう。国際平和共存を憲法の基本としたわが国のこれまでの国際政治の実績を活かし、さらに積極的にアジア・北太平洋地帯の平和的共存のための外交を展開するべきではないだろうか。



参考資料

1、ブログ文書集「国民運動としての政治改革」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_20.html

2、「緑」の京都・準備会
http://greens-kyoto.jimdo.com/

3、脱原発選挙
http://miraisenkyo.wordpress.com/

脱原発議員総覧
August 23, 2012 • by kaerunja
http://miraisenkyo.wordpress.com/2012/08/23/%E8%AA%B0%E3%81%AB%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%81%99%E3%82%8B%EF%BC%9F/


環境エネルギー政策研究所(ISEP:Institute for Sustainable Energy Policies)
「国会エネルギー調査会」設置に向けた 「国会エネルギー調査会準備会」(第14回)の開催について
http://www.isep.or.jp/news/3595/

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2012年11月20日火曜日

ブログ文書集「国民運動としての政治改革」目次

三石博行


1. 政治は何のために

1-1、21世紀の課題、生活大国日本に向かって何をなすべきか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/21.html

1-2、罹災者救済、国民と国家の将来のために働くことのみが政治家の課題である
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_07.html

1-3、原発問題は今後、我が国の政治の中心課題となるだろう
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_12.html


2. 国民運動としての政治改革

2-1、政局論争から政策論争へ、今日本が必要としている議会の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/03/blog-post_07.html

2-2、国民による議会・立法機関の検証作業は可能か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html

2-3、国民による議員の選挙公約に関する検証機能の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_3645.html

2-4、東日本大震災と福島第一原発事故を契機に起こる政治改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_30.html


3. 官僚・行政機能と政治機能

3-1、明治以来の「官僚制度による国家安全神話」の崩壊
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/08/blog-post_29.html

3-2、専門的知識と俯瞰的視点をもつ政治家の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/1.html

3-3、国民を思うこころを持つ官僚育成が必要
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/2.html

3-4、政策政党の形成と市民民主主義の発展
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_719.html



4、民主主義社会における政策決定、維持、変更過程と政党の役割

4-1、体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態 /strong>
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html

4-2、社会変革のプログラムか政治集団の自己保存のプログラムか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_16.html

4-3、行政改革を可能にする政治指導の在り方
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html

4-4、立法機能を担う議員活動を支える制度の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html

4-5、選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html

4-6、政策作成過程の民営化と大衆化
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_6608.html


5、政策学を構成する理論

5-1、政治哲学から展開される政策学基礎論
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_06.html

5-2、自己組織性の設計科学(プログラム科学)としての政策学
未完成

5-3、生態・社会資源の限界と国家の形態
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html

5-4、社会資源史観からみる政治社会形態
未完成

5-5.近代化過程を決定する社会経済文化要因
未完成


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2012年11月16日金曜日

政策作成過程の民営化と大衆化

政治改革の課題(7)

三石博行


行政改革は政治家の仕事

本来、政策とは国家の機能を維持するために日常的に運営されているものである。すべての政策は法律的かつ制度的な前提条件をもって成立している。国家機能を維持するために、政府機関や官僚体制の持続的運営を支えるために政策は継続し維持される。これを政策の惰性態あるいは保守性と呼んだ。(1)

社会システムが恒常的に機能するためには、この政策の惰性態によって制度運営が堅持されていなければならない。この惰性態を破壊することによって、社会システムの基本機能が失われる。そのため、この社会システムの惰性態の保持に多く社会機能が用意されている。

日常の行政機能を無視することで、行政機能は混乱する。例えば、今回、文部科学大臣の田中真紀子氏が「大学設定審議会の制度的機能・大学や学部学科設置の認可機能」が果す通常業務に口を出したことがこの例に入る。(2)

しかし、行政システムの惰性態の上に成り立つ官僚制度は、そのシステムの自己保存を行なうために、行政機能の効率が落ちてもそれを自ら改善回復することは出来ない。行政機能の改善、つまり行政改革を行なうのは政治家である。(2)



自民党は有能な官僚出身の政治集団であった

政府機能は官僚と呼ばれる高度な専門家集団によって日常的に運営されている。優秀な官僚とは国家の優秀な資源である。その資源を国民のために有効に活用することが政治の課題の一つであり、その指導力が政治指導の意味の一部をなす。自民党とは有能な官僚出身者によって形成された党であり、官僚の力を政治に反映してきた党であるとも言える。

しかし、自民党議員の大衆化によって、議員達は有能な官僚にすべての政策立案を任せてきた。官僚制度は政策の惰性態を担う社会機能である以上、官僚が提案する政策案はすべて官僚体制の保存を前提にしている。つまり、官僚にとって都合の良い法律が次々に成立する。そのため行政機能が次第に国民の利益から離反し始める。これが、長年の自民党政権で慣習化されてきた。その結果、官僚と政治の癒着による税金の無駄遣いが行なわれた。

有能な官僚出身議員によって指導形成されてきた自民党にとって官僚指導型の国家運営を変革することは困難であった。その官僚主導型を変革するために、荒ぶる政治家として小泉純一郎氏は、「自民党をぶっ潰す」という政治スローガンを掲げて自民党総裁選に立候補した。自民党をぶっ潰すために総裁選に出て、自民党の人気を勝ち取ったのが小泉純一郎元総理大臣であった。考えてみればおかしな話である。

何故なら、行政の機能効率の低下によって日本経済や社会の活性化が低下していることを国民は理解していたが、同時に自民党のように安定した政党が国民には必要であった。そのため、自民党内から自民党の伝統的体質である官僚癒着型政治を変えてくれる政治家が欲しかったのである。

国民は、日本の社会を根本から変革すること、これまで有能に機能していた官僚制度を解体すること、革命を起こすことなど、まったく望んでいなかった。そこで、自民党内からの自民党の自己否定を叫んだ小泉純一郎氏への共感となった。自民党をぶっ潰すという政治スローガンを掲げた自民党総裁の率いる自民党を支持したのである。



政治指導を目指した民主党の挫折から学ぶことが民主主義社会の発展の糧となる

しかし、行政改革を徹底して行ないたかった当時の自民党議員は、それが不可能に近い作業であることを知った。そして、渡辺喜美氏らは、自民党を脱党して、行政改革を中心の政策課題に取り上げた政党「みんなの党」を結成した。

また、民主党は官僚指導型国家運営からの脱却、行政改革は自民党では出来ないと公言し続けていた。小泉政権で十分に達成できなかった行政改革への国民の不満と徹底した行政改革を訴えた民主党が2009年9月の衆議院選挙で、国民の支持を得て政権与党となった。

しかし、民主党が掲げた政治指導では、有能な官僚を排除して知識の乏しい政治家だけで、政策決定を行なうように理解されたと思う。民主党の政治指導は、そう単純なものでもなく、また簡単に官僚を排除したものでもなかったが、現実に、官僚からの反発やボイコットを受けた。

つまり、民主党は、政権に就いたとき、政治指導を政治家中心の政策決定方法と位置付けた。官庁の意思決定機能に大臣、副大臣と政務次官を置いて、政治家が中心にした政策決定過程を構築しようとした。事実上、これまで政策過程を担当してきた官僚の排除となった。そして、この民主党のやり方に、官庁は、無言の作業ボイコットを行なった。この激しい抵抗にあった民主党政権は、行政機能不全に陥った。そして、政権運営の基盤から機能麻痺を起こしてしまった。

民主党の政治指導型の行政運営や政策作成作業は見事に失敗した。鳩山政権が短命で終わり、菅政権が発足し、この政治指導型を修正しなければならなかった。今まで通りに官僚に政策決定権を任せた。その修正は野田政権でも更に進み、殆ど、自民党時代と変わらない政権政党と官僚の関係が復活した。

明治維新以来、日本を近代国家に導き、また戦後敗戦の焼け野原から経済大国に成長させた日本の優秀な官僚体制をそう簡単に変えることは出来ないだろう。その変革は、日本の国のあり方の根本に触れる。有能な官僚を排除して官僚主導型から政治主導型の国家運営を目指すという未熟な政策を民主党が取ったわけではないが、そう思われた民主党政権下での政治指導の試みと、その失敗の分析なくして、今後の日本の民主主義は発展形成することは出来ないだろう。その意味で、民主党政権は多くの政治課題を提供しているといえる。



政策作成過程の民営化と大衆化

民間専門家を入れた政策検討作業

その失敗の一つとして挙げられるのは、政策決定段階で専門家である官僚を排除してはいけないことと、同時に、民間の専門家を入れて官僚指導型から脱却する政策決定過程を構築する必要がある。

官僚にお任せにした政策検討作業では、官僚組織の自己保存プログラムが働くため、その作業目的であった行政改革の課題は頓挫する。だからと言って、政策検討作業過程に官僚を入れないことは不可能に近い。問題は官僚組織の自己保存プログラムを抑制させるための機能を政治が事前に準備しておかなければならないということに過ぎない。

つまり、政策作成過程に民間専門家を入れる。つまり、有能な官僚の参加と同時に民間人や大学研究者が参加して、委員会を作る。勿論、これまでも民間人の専門家が委員会に入っていた。しかし、その人選は全て官僚に任されていた。そこで、民間人専門家の人選を政党内にある各政策課題別の政策検討委員会(もしあると仮定して)が行なう。


専門的知識を持つ議員候補者の選択

それらの人選を行なうのが、政務次官や政務次官補佐である。そのためには、政党内での専門的知識をもった政治家が居なければならない。つまり、専門家が政治を行なうことが、この条件となる。

自民党や民主党が結果的に官僚に政策検討作業を任せたのは、専門的知識をもった人材(政治家)によって党が構成されていなかったからである。党は、政策作成・実行集団である以上、政策(政治過程プログラム)を作成し、その機能性を検証し、改良する能力を持つ人材によって運営されなければならない。

しかし、政党は選挙に勝つためにテレビでおなじみのタレントを採用する。タレントを採用する政党は、選挙を国民による政策選択の作業でなく、人気投票と位置付けているからである。専門的知識のない議員が、突然、専門的知識を要求される政策作成作業に参画できる訳がない。そこで彼らは国のシンクタンク(官庁)の専門家(官僚)に政策作成過程を丸投げするのである。これを止めなければならない。

勿論、最近ではマスコミも優秀な専門家をトーク番組に採用している。国民の意識や知識のレベルが上がることによって、マスコミが専門的知識を持つ人々を採用することになる。その結果、橋下徹大阪市長の例を取るまでもなく、専門的知識を持つ人々がタレントになる。それらのタレント専門家が選挙になると、これまでのお茶の間でのトーク実績を活かして当選する時代が到来している。

マスコミやインターネットによって情報が素早くあらゆる人々に拡散する情報化時代では、各政党は、専門的知識を持つタレントを選挙の立候補者としてリクルートすることが重要な課題となっているのである。


政策討論活動を行う政策検討委員会の形成

こうした政党の政策実現への取り組みは、政権政党になってから行なうのでは間に合わない。そこで政党は、野党与党を問わず積極的に政策検討活動を行なう必要がある。つまり、政党は専門知識を持つ人的資源を持つことで、政策政党としての機能を強化することが出来る。そこで党員以外にサポータなど、政党理念に共感する民間専門家(シンクタンク、大学、NPO、企業の専門家)を入れた政策検討会議を組織する必要がある。

また、政党は専門的知識を持つ政党サポータを入れた政策検討会議のみでなく、学会活動を行っている大学研究者や民間専門家が研究活動の成果を取り入れる必要がある。政党サポータでない専門家の意見は政党の政策案に関する政治的立場を越えた多様な視点に立つ評価を行うことが出来る。批判的に政党政策を検討する機能を保障する政策検討機能を持つ必要がある。(3)

政策として問題解決力の検証を無視した行為は、選挙公約に関する責任を持たない政治を続けることになる。その結果、毎回、選挙後に政党は選挙公約を破棄し続ける公約違反が続く。今回も民主党政権が今までの自民党と同じように選挙公約を無視した。この選挙公約破棄の慣例を政治の姿と理解する国民は議会制民主主義への深い失望感を持つことになる。選挙に行っても、政党のマニフェストに基づく立候補者を選んでも、結果的に、それは意味を持たない。国民は深刻な政治不信を持つことになる。その結果が、投票率低下と呼ばれる消極的選挙ボイコットを生み出すことになるのである。

つまり、実現性のない選挙公約を自ら検証する力を政党は開発しなければならない。こうした批判力を日常的に党機能として形成しない限り、現実的な政策を国民に提案し選挙で評価してもらうことも、また責任ある政権与党になって政策を実現することも出来ないのである。(4)



参考資料

1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html

2、三石博行 「行政改革を可能にする政治指導の在り方」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html

3、三石博行 「立法機能を担う議員活動を支える制度の提案 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html

4、三石博行「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html

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社会変革のプログラムか政治集団の自己保存のプログラムか

政治改革の課題(6)

三石博行


政策とは政治理念を具体化するプログラムである

政策案とは政党の存在理由を具体的に示したものである。政治理念を持たない政党はないし、それを具体的に実現する道筋を示さない政党は信頼されない。つまり、政策を持つとは政党の政治的方針を具体的に示すことであり、その政策が実現可能なものかは、政策の具体性と現実的方法が検討されることになる。政策とは政治理念を実現化するためのプログラムである。

民主主義国家である以上、政策選択における国民主権が政治機能の基本にある。政党は政治理念を国民に示し、その政策を実現する具体的政策案を作成し、それを公開説明し、選挙でその政策案に関する評価を国民から受ける。これが議会制民主主義での政党活動の基本的なスタイルである。政策案(プログラム)を持たない政党は存在しない。政党は政策プログラムを提案し実行する社会機能である。

政策案とは、ある課題の政治的解決を実現可能な手続き(法的、制度的手段で)で説明したものである。政策案を選挙時に公開したものが選挙公約であり、議会制民主主義では選挙公約を表明しなければ、選挙を行なう意味を持たない。何故なら、国民が政党から提示された選挙公約に対して同意するか反対するかを決める行為を選挙と呼ぶからである。選挙とは国民が政党から提示されたプログラムを選択するための社会機能である。

つまり、政策(プログラム)を示さない政党は、国民主権国家の基本的な理念や制度を無視していると言えるだろう。



政党維持のための政治活動、政治集団の自己保存のプログラム

前東京都知事石原慎太郎氏は、自民党でもない民主党でもない第三の政治勢力を結集するために「太陽の党」を結成した。石原氏の判断は、政局的視点から見ると間違いではない。国民の多くは現在の野党自民党にも与党民主党にも程々愛想を尽かしていることは確かである。その意味で、石原氏の政治的な狙いは正しい。

しかし、異なる政策を持つ集団が一つになり、数として力を持てば、政権与党に参画する機会があったとしても、その後に起こる政治的混乱は、今まで、経験し続けてきた。そこで、橋下氏も渡辺氏も政策一致を原則とする政治を主張し続けてきた。その主張が、今、政局課題から、二次的なものと理解されるかどうか、瀬戸際に立たされている。

つまり、二つの異なる政治機能を動かす基本プログラム(政策)を持つ場合、その機能はうまく動かないことは明らかである。すると、これらの異なるプログラムをもつ政治機能は、近々の政策課題として「反自民・公明と反民主勢力としての第三勢力を国民に訴える」ことが選挙活動の主要なテーマとなる。そして、今回の選挙は、国民が真剣に考え続けてきたこれからの日本の問題、「エネルギー政策」「原発問題」「消費税問題」「社会保険問題」「TPP問題」等々は小さな政策課題となり、選挙の争点から除外されることになる。

前節で、政策とは政治理念を具体化するプログラムであると述べた。では、石原氏の政権獲得の政策は、同じように政党の政策であり、その意味で政党理念を具体化するプログラムであると言えるだろう。言い換えると「太陽の党」は政治理念とは「政権を取る」ことである。「第三勢力の大同団結」がその具体的な政策となる。

「太陽の党」は「政権を取る」ことを党の政治理念とし、大同団結がその政策(プログラム)となる。政党も社会組織である以上、その組織の自己保存のプログラムを持つ。「選挙で当選議員を出す」ことがなければ政党としての存在条件が消えることになる。そのため「選挙に勝つ」という党の基本政策(プログラム)が常に作動し、政党を組織として維持している。これは、どの組織にもある「自己保存のためのプログラム」である。

要約すると、石原氏は今回の選挙で存続の危機にある政党集団の「自己保存」のプログラムを集め、一つの「第三勢力」という自己保存のプログラムに仕立て上げたのである。そのプログラムが、そこに集まる政治集団の最大の課題であることは明らかである。

マスコミや評論家達は政策の異なる野合集団に対して、「異なる政策を持った政治集団が一つになって、本当にいいのですか」と疑問を投げかけている。その疑問は、政党が自己保存のためのプログラムを政策の中心に置く事は、選挙を通じて確立される「国民主権」、議会制民主主義の政治のあり方と基本的に相容れないものであると表現しているのである。政治家集団の自己保存のプログラムを全面的に前に出すことによって、選挙は国民の政治参加の唯一の機会から、政治集団の政治家職業の継続や維持のための道具になるのである。このことを国民もそして政党も、もっと明確に自覚すべきではないだろうか。



政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況、議会制民主主義の崩壊 

しかし、毎日、政局論争とマニフェスト違反を繰り返す政治にうんざりしている国民は、分かりやすい過激な政策、政治の停滞状況を打破するスローガンに関心を引かれる。そこで、政党集団や政治家の「自己保存」のプログラムに即して、国民感情を見事に捉えようとする政治集団や政治家が現れる。

国民は、行動力のある政治家の登場を待っている。その期待に応えた政治家として、東京都知事の石原慎太郎氏、自民党総裁の小泉純一郎氏、長野県知事の田中康夫氏、名古屋市長の河村たかし氏、大阪市長(前大阪府知事)の橋下徹氏、横浜市長の中田宏氏や宮崎県知事の東国原英夫氏 等々が今までに登場した。

それらの政治家は小泉純一郎元総理大臣を除いて、すべて地方自治体の首長として登場した。何故なら、首長は自治体行政の長であり、その管理と政策執行の権限を持っている。その意味で、立法機関に所属する議員とは立場が異なる。勿論、小泉純一郎氏は国家の行政府の長である総理大臣であった。その意味で、国の政策執行の権限を持っている最高の地位にある政治家である。

つまり、社会の流れを変える立場にある人々の政治スローガンなのか、それとも、その立場にない人たちのスローガンなのか。少なくとも、首長選挙では地方自治体の行政の在り方を変革する選挙スローガン(選挙公約)が出され、それが選挙の論点となっている。しかし、国会議員の選挙の場合、議員が当選し、その議員の所属する政党が政権与党になるという段階を経て、初めて、選挙スローガン(選挙公約)の実現可能性が生まれる。

今回の第三勢力の結集を呼びかけた勢力の政治スローガンは具体的に出されていない。出されているのは「自民・公明でも民主でもない政治勢力によって政治の流れを変える」という政治スローガンのみである。この政治公約(政治組織の自己保存プログラム)によって、政治に絶望した国民の票田をかき集めようとしている。これは政党間紛争課題に選挙が使われ始めたことを意味する。これは、丁度戦前、軍国主義を生み出した日本の政党政治の歴史の繰り返しではないだろうか。

この状況が意味するものとは議会制民主主義の危機なのである。国民主権の政治体制を構築していく流れに反し、政治は議員たちが行うもの、国民はそれらの政治の主役である議員を選べばいいという、民主主義社会文化の発展や進化と逆行する潮流であるというべきだろう。

しかし、現実の日本の議会制民主主義では、政策集団としての政党、政策案をもつ政党活動、政策案の国民的評価としての選挙、政策案への国民的評価結果としての選挙投票結果、政権政党の責任としての選挙公約の意味も理解されていない。政党の政策はスローガンになり、実現可能性の検証作業を無視し、その政策の選挙公約は選挙宣伝用に使われ、選挙に当選しても選挙公約は検証されることもない。これが現実の日本の議会制民主主義、政党政治、政権与党の姿である。

国民の生活から無縁の政局論争を繰り返す無責任な政治、東日本大震災で苦しむ人々の救済のための税金が官僚の匙加減(さじかげん)によって使われる官僚主導型政治、非現実的な政策を掲げた選挙運動や選挙公約した政策を検証しない政党の姿勢、最高(最低)40年以上の年月を費やす原発事故処理と失われた豊かな国土(汚染地帯)と原発棄民になろうとしている福島の人々の苦しみ等々が続く中で、国民の我慢は限界に達している。限界に達した国民の批判は過激な政治スローガンを掲げる政党に吸収される。そして、再び、日本が国際政治史に大きな禍根を残した過去の誤りを繰り返さないと誰が保障できるのだろうか。豊かな日本が貧しくなることで、日本の民主主義、議会制民主主義は根本から崩壊して行くのではないだろか。

私のように、政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況は議会制民主主義の崩壊を導きかねないという危機感を持つのは、心配症の極みに過ぎないのだろうか?

議会制民主主義を守るために

1、 政党は選挙の時、選挙公約を明確にする。
2、 当選した議員は選挙時の選挙公約に対する履行義務を持つ。
3、 当選した議員は、毎年一回、選挙公約の実現を自己評価する義務がある。
4、 選挙公約を選挙民と被選挙民の社会契約として位置付ける選挙公約法を定め、選挙公約違反を行わない政治文化を作る必要がある。(1)
5、 国民は選挙公約違反行為を行う議員を摘発し警告するために、市民(国民)選挙公約監視運動を起こし、「選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度」と作る必要がある。(1)



参考資料

1、1、三石博行 「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html

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2012年11月15日木曜日

立法機能を担う議員活動を支える制度の提案

政治改革の課題(5)

三石博行


政権与党にのみ蓄積される官僚との友好な関係

政党とは政治的理念を持ち、それに基づき政策を国民に示し、選挙を通じてそれらの政策への賛同を求める活動を行う集団である。

議会制民主主義では、選挙で多数の議席を確保する政権が政権与党となり、議院内閣制度に基づき内閣を作る。内閣とは国家の行政機能のトップであり、各省の大臣が内閣を構成する。大臣は政権が国民に選挙を通じて公約した政策を実行するための政治・政策活動を行うことになる。

議会制民主主義議と議院内閣制度では、政策を実行出来る政党は内閣を担う政権与党のみとなる。勿論、野党の議員も議員立法案の提出をすることは出来る。政権与党は政策提案を行う場合、政府機関の専門家集団(官僚)の助言や援助を得られる。その点で政権与党は政府機能を挙げて政策を提案できるのである。

政治指導を確立するためには政治家が政府機関の専門家(官僚)と十分に政策検討を出来る機会を多く作らなければならないだろう。与党の政治家は閣僚として行政のリーダーとなる。行政を運営する責任を議員は担うことになる。その意味で、行政機関の専門家(官僚)と共に行政運営をスムーズに行うことが求められる。そこで、政権与党の議員には政府機関の専門家集団の助言や援助の機会が与えられる。彼らが政策提案や法案を作成する場合には政府機関の専門家集団の力を十分活用することが出来る。

その意味で、長年政権の座にあった自民党は官僚機構との大きなパイプがあり、人的な交流も豊かで、しかも官僚との共同作業の経験も豊富にある。自民党が政権を取ることで、政治は官僚機能との有効で濃密な関係を維持することができる。また、自民党には官僚出身の議員も多く、以前の部署との人間関係や仕事上の経験を活かし、政策提案段階から官僚の有能な資源を十分活用できた(る)のである。



民主党が目指した政策決定における脱官僚指導型、政治指導型の挫折

しかし、長年野党時代を過ごした政治家には、官僚機構との人的交流もなければ、政策提案への官僚の協力関係もないのである。そのため、民主主義のルールとして政権交代が行われた時、長年与党時代を過ごした政党は国家の行政機能の資源を十分活用できない状態となる。

しかも今回、民主党政権は、政権交代を行った段階で、政治指導を確立するためにと、官僚を政策決定の中心から外した。そのために、官僚からの厳しい反発とボイコットを受けた。これまでの行政機能に関する経験や人脈のない民主党の政治家は官僚の協力なくしては、政権運営が出来ないことを思い知らされることになる。そうして、再び、官僚が政策決定に大きな影響力を発揮し、民主党の政治指導は完全に失敗した。

そこで、政治指導の路線を修正した民主党は、これまで自民党が続けてきた官僚の指導型の政策決定路線に戻った。その結果、コンクリートから人への政治は、再び人からコンクリートへと変更されたようである。また、官僚指導型による国民の税金から支払われた震災復興予算の不明な使い方が、報道機関に指摘され、行政の事業仕分け作業で人気を集めた民主党の行政機能点検機能がマヒしていることも明らかになった。あの事業仕分け作業は選挙のためのパフォーマンスであったかとも言われる始末である。

明らかに民主党政権は多くの失敗を行った。しかし、この失敗をどのようにして乗り越えるか。そこにこの国の民主主義の未来が掛かっているように思う。その課題の一つとして、行政機能と立法機能の相互連携について考えてみたい。



すべての議員に与えられた行政機能活用に関する権限

議会制民主主義で最も大切なことは、国民主権代理者である議員が立法作業仕事を行う環境を与えられていることである。法律案を作成するには、問題に関する現状の調査データ、法や制度上の問題に関する専門的な知識、解釈、分析等々、多くの事柄を理解しなければならない。

しかし、野党議員には政府専門機関を十分に活用できる環境がない。そのため野党議員が法案を作成する場合、政府専門機関からの支援や援助が十分受けられないことになる。野党議員は議員立法案を作成するために大変な作業をこなさなければならない。つまり、野党議員と与党議員はフェアーな立場に立って法案作成を行っていないと言える。

言い換えると、国民の代表としての議員に権限の不平等が生じていることになる。そのこと自体が国民主権国家の基本に反する状況であると言える。早急に、この問題を解決することが、政策政党による政治が成立する環境を作ることになる。それが政党政治の成立のための政策であるとも言える。

すべての議員は国民から選ばれた国民主権の代理人である。その意味で、国会議員の立場からすれば、すべての議員は平等に国民の代理人としての資格を持っていることになる。それが議会制民主主義の制度で成立している議員の位置づけである。与党や野党とはそれらの議員達の集団が多数を占めるかそうでないかということに過ぎない。議会制民主主義では与党に政権運営の権限を与えるのであるが、政府機能の活用を与党が独占する権限を与えてはいない。つまり、すべての議員が政府機能を平等に使えるのである。これが国民主権を前提にした議会制民主主義の制度の原則である。

従って、野党の議員にも与党の議員と同じように、官僚との交流、政策検討に関する助言や資料提供を受ける権限を与え、与党の議員と同じ情報や資料に基づいた政策検討が出来るようにしなければならない。

特に、数年毎に政権交代が行われる時代になる場合には、野党や与党を問わず、議員達が十分に政策検討を行えるように政府機関の専門家の活用を保障しなければならない。この制度が現在十分に機能していないなら、即刻、その制度の法的や制度的確立を急ぐべきである。

野党時代から官僚との関係を作れない日本の政治環境では、民主主義の基本である政権交代が行われる毎に政府機能が混乱することになる。政権与党は、国の専門機関の協力なしには、行政機能を運営管理し改革する力量を持ちえない。それが今回の民主党政権で明らかになった。この経験を今後は活かすべきである。



成熟した議会制民主主義のための議員への行政サービスや情報公開制度に関する提案

行政改革の課題として、立法機能を担う議員活動のために、すべての議員に平等に行政機能を活用できるための制度や法律を整備しなければならない。その目的は立法作業での政治指導(議員の力量)を確立するためには、野党時代でも議員は政策提案を行うために官僚を活用する権限を与える必要がある。

何故なら、民主主義社会では、常に政権交代が行われることを前提にして議員の政策提案力や行政改革力、官僚との関係を政権与党だけでなく、野党の時代から構築することを保障しなければならないからである。つまり、野党であろうと与党であろうと、政策提案が出来る能力を持つ必要がある。そのためには、野党議員にも官僚との関係、人的関係、情報提供、等々を保障しなければならない。

行政の機能を改善するためには、野党与党を問わず、その課題について同じような問題意識を持つ必要がある。その前提条件として、与党野党の全てに問題を理解するための情報の共有が必要であり、また共通する問題点の理解や解釈が必要となる。その意味で、行政機能は与野党議員に平等に情報やサポートを行うべきである。それが効率の高い立法機能を作る要素となるのである。

以下、そのための提案を記載する。

1、 すべての議員は国の行政機能が所有する情報(政府が機密と定めた軍事や外交に関する情報を除く)を知る権利を持つ。

2、 すべての議員は平等に、政策分析、法案や制度改革案の作成に必要な情報や助言及び必要なサポートを行政機関から受ける権利を持つ。

3、 すべての議員は、行政機関から得た情報や活用したサービスを国会に報告する義務がある。

4、 上記した行政サービス機能に関する法律を設定する。

5、 その法律に基づき行政機能がすべての議員に対して義務を果たしていることを点検するための監視委員会を第三者機関として設置する。

以上である。



参考資料

1、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html

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行政改革を可能にする政治指導の在り方

政治改革の課題(4)

三石博行


文部科学大臣には文部科学省の行政決定権はない

9月末に新しく内閣改造が行われた。文部科学大臣に田中真紀子氏が就任した。就任の挨拶に「役人と仲良く仕事をしますと田中氏は述べていた。しかし、その言葉とは裏腹に、文部科学大臣田中真紀子氏は、三つの大学の設置許可に関する大学審議会の審議結果に反して、大学設置許可を認定しないという発言した。そのため、文科省は混乱し、三つの大学法人から抗議が起り、又もや田中真紀子氏のとんでもない発言と、マスコミや野党から厳しい批判がなされ、その後、田中氏はそれら三つの大学の認可を認めることになった。

ここで明らかになった事実は、まず、法律上は文部科学大臣が文部行政の最高責任者であることであった。その最高責任者田中真紀子氏は文部行政の全ての意思決定に責任を持つことを示した。そこで、田中氏は、法律に即して、全ての文部科学省の行政上の決定を行った。法律上、行政機能の運営に関する全ての責任を大臣が持たなければならないのである。

何故なら、日本国憲法では、議会制民主主義議と議院内閣制度では政権与党によって内閣が構成され、すべての行政機関の長、つまり大臣が選ばれる。大臣は国民の意思を行政機能に反映させ、行政機能を運営しなければならない。これが国民主権による日本の国家の運営の姿なのである。

当然の権限を行使した田中真紀子氏は何故批判されたのか。つまり、文部行政の判断は文部科学大臣ではなく、官僚が行うことになっているのか。それを世論も認めていると言うことか。事実、官僚の判断に、これまでの殆どの大臣が異論を唱えることない。官僚が決めたことに反対すると官庁の機能がマヒするか、世論が大臣の横暴を批判するか、どちらかである。

今回の場合は、三つの大学法人はすでに大学審議会の審議結果を知り、まだ認可は出ていないものの、次の年度に向けて、大学説明会や入試を行っていた。そのため、認可されないとなると、入学を希望し入試を受けた生徒が被害を受けることになるという事態が生じていた。そのことが、世論が田中大臣の判断に対する批判となった。

考え方を変えると、審議会の結果は大臣が正式に認可する前に、官僚によって「認可されました」とすでに大学法人に連絡があり、大学側は、その報告を信頼し、大学説明会や入試を行っていた。こうしたことはこの三つの大学に限らず、殆ど、すべての大学の認可に共通する事例となっていた。その慣習が破られたということが田中大臣への批判となった。つまり、審議会に提出された大学認可の申請は殆ど自動的に通過する筈なのに、今回に限ってたまたま大臣が田中真紀子になったために、審議会の審査で許可が下りたのに、大臣が勝手に認可しないという暴挙に出たと言うことになった。



行政機能の基本構造、行政の惰性態と保守性

社会経済の安定と国民生活の保護を第一の課題にしている政府機能において最も大切な政策はすべての社会機能が安定して動くことである。言わば、政府機能とは政策の惰性態や保守性を基本として動いている。その機能が最も行政機能の重要な働きを占めている。

役所は融通が利かないとよく言われる。それは当然の事である。もし、役人が市民のためにと、規則を無視して、また法律を無視して、融通を利かせる行為をやり出したら、役所は混乱するだろう。役人の個人的感情や配慮で、行政的対応が異なることが当たり前になる。すると、ある人は、親切な役人に対応してもらって非常に得をしたが、その友人は、融通の利かない役人に対応されたので、何もして貰えなかったということが起る。それを防ぐために、強かな住民たちは、土産をもって役所に出向くようになる。そして、こんどは沢山土産を持ってくれば融通が利くということが常識化することにならないだろうか。

役所は平民を支配管理するために存在し、役人が人々の上に立っていた時代には、勇気ある役人が自分の首を掛けて、ある困った人を助けるという話もあるだろう。つまり、その規則違反をする役人は、その違反行為に対して自らの辞表を掛けての行為を勇断し、そして、困った人の命を救い、最後は、役所を去って行くことになるか、場合によっては、役所に反抗することにもなる。この役人の行為は美談として平民社会に伝え続けられるかも知れない。

しかし、それが許されることは殆どない。例えば、2010年9月7日の尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件があったが、その時、中国漁船員の暴力的な挑発行為が巡視船の隊員によって撮影されていたのだが、公開されなかった。当時は、中国政府は、日本の海上保安庁が中国漁民を不当に逮捕したとして激しく国際世論に訴えて非難した。国会議員たちはこの映像を見ることができたが、国民は見ることはできなかった。そこで、ある海上保安庁の職員が辞表を覚悟で、その映像をインターネット上で公開した。勿論、政府からはその職員の処分を行うべきという意見がでた。職員は海上保安庁の命令(国家公務員法 第100条 第1項に定められている守秘義務)を破って、「機密情報」を公開したことになる。その違反行為を厳密に処分しないと、今後、また、こうした公務員の勝手な振る舞いが横行するという意見であった。しかし、世論はその職員の勇気を称え、政府民主党の弱腰外交を非難し、それに乗じて自民党は政府の中国外交を批判した。結果的には、機密漏洩を行った職員の処分(厳しくはなかったが)は行われ、その職員は辞職した。

つまり、行政機能を維持する役人は、その機能の持つ惰性態(日常的業務)を維持するために、良し悪しに関係なく公務員が自分の判断で制度上許されないこと、つまり勝手なことが出来ないようになっている。これが行政機能の基本的な構造である。日常的な業務を繰り返し行うように行政機能は作られている。これを行政の基本的な機能として「政策の惰性態」と呼んだ。(1)

言い方を変えると、行政改革を行政機能は出来ないように作られているのである。市民が、役所に行って、役所の制度を変えるように訴えても、役人にはその気持ちが解ったとしても、先頭を切って、役所の改革に取り掛かる権限は与えられていない。彼らに出来ることは、現行の制度内で、つまり行政上許された範囲内での対応を行うことのみである。良心的な役人たちは、こうして市民の要求に答え続けてきた。

しかし、制度自体を変え、市民の訴えに根本的に答えることは役人には基本的に出来ないようになっているのである。実際、その役人の出来る範囲内での対応の変化で、満足する市民は多いのであるが、それすら出来ないようになっているのである。つまり、日常的に繰り返されること以外に何かを特別にすることが大変なように習慣づけられているのが役所の仕事なのである。



行政機能の改革や改善作業、立法機関の課題と責任

では、官僚や役人は基本的に行政改革を行える立場にもないし、そうした権限を与えられていないとすれば、誰が、行政改革を行うのだろうか。つまり、役所の機能を社会の現実に合うように改革するのは誰だろうか。こんな疑問が発せられるのは、この国に定められている憲法をよく知らないからだろうと言われても仕方がない。

役所は決まりによって動く。その決まりを決めるのは議会である。つまり、議員達に役所の運営を変える権限と責任がある。もし、自治体の役所がうまく機能していないなら、その責任は基本的には首長にある。国なら内閣総理大臣にある。そして直接的には、自治体なら役所の責任者にあるし、国なら各庁の最高責任者・大臣にある。これが我が国日本の民主主義社会の行政機能の在り方、運営の仕方である。

自治体や国家の立法機関の機能とは、政策の惰性態(お役所や官庁の仕事)に関する点検や改善を行うことである。行政機能(お役所や官庁)は政策の惰性態を前提にして動く限り、その惰性態(日常的なルーチン業務)によって生じている行政の非効率や機能不全を自浄する機能を自ら備えていない。その行政機能の改善を行う機能として立法機能がある。何故なら、行政機能は法律によって動くように定められている。行政が効率よく動く法律を決めるのが立法である以上、行政改革とは立法上の改革から始まるのが民主主義国家での行政改革である。

つまり、役人を変えるのは、彼らの良心に訴えるのではなく、彼らが市民のために働けるように決まりを変え、制度を作る必要がある。それが出来るのは議員である。つまり、その改善を市民から選挙を通じて委託されている人々である。

立法機関は、政策の惰性態を見直し、その政策の機能を回復させるために、その政策の改善に必要な処置、つまり部分的変更、補足、もしくは全面的廃止と新たな政策提案を行うことである。行政機能は立法化された制度によって運営されている以上、行政機能のマヒの責任は立法機関にある。もし、行政機能が立法(法律)に反する行為を行った場合には、その責任は行政担当者に重く科せられている。それを公務員の国民に対する義務と呼んでいる。



行政改革を進める政治指導とは何か 田中真紀子大臣が起こした波紋とその課題

田中真紀子文部大臣は三つの大学認可に異議を唱えるに当たって「現在の日本の高等教育は、半数の大学が定員割れを起こし、大学教育の劣化、国際競争力の低下という重大な問題を起こしている」と指摘した。田中大臣は、その大きな原因として大学審議会がこれまで行ってきた認可行政を指摘した。

この田中氏の行為を最も評価する視点で語るなら、政治家である田中氏は、予め、三つの大学の許可に異議を挟むことで、文科省の官僚、世論、野党がどのように動くかを計算していたのかも知れないと言えそうだ。そして、事態は彼女の予測した通りに進み、世論が騒いでくれた。殆のマスコミが田中氏を批判した。しかし、その報道の1割ぐらいが、現在の大学教育の問題を取り上げた。その結果、大学改革を次の文部科学省の教育改革の課題に入れることに成功した。3ヵ月の大臣任期を前提にして、「こう(三大学設置認可拒否という常識では考えられない大臣の行動)でもしないと役所は動かない」と語る田中角栄の娘である真紀子氏が取った強かな政治であったとも解釈できる。

これが、田中真紀子大臣の行為を最大限に評価した解釈である。しかし、この解釈は多分、多くのマスコミでは、一笑に値すると言われるに違いない。そして彼女を「暴走オバサン」と呼び、日本の深刻な大学教育問題でなく、審議会の審査結果を無視し、三大学を困らせた非常識の大臣の問題として、今後は取り上げられるに違いない。

国会での問責決議と騒ぐ自民党は、まさに、日本の大学教育をここまでも荒廃させた責任を感じていないのだろうか。そして、これまで、民主党で文部科学大臣をやってきた政治家は、田中真紀子氏の行動をどう評価しているのだろうか。

田中真紀子大臣の行動に対して自民党幹事長の石破氏は「手続きを理解しない行動」であると批判した。この発言は田中氏の行動を批判する一つの理由となる。つまり、田中大臣は行政機関の最高責任者として、その行政機能の惰性態を理解し、そこで生じる問題を行政自体の問題として提起するのでなく、大学改革を行うための審議会や第三者委員会等々の制度・法律改革のための超党派での国会議員の活動、つまり立法機能がやるべき課題として提起すべきであったとも言える。

それは田中氏個人の問題でなく、民主党の教育行政に関する問題である。民主党は、政権当初から我が国の高等教育に対する方針を持っていなかった。そのため、極めて深刻な大学教育問題が放置され、半数近い大学が定員割れを起こし、中小大学の教育能力は劣化の一途を辿り、自民党政権の教育に自由競争を取り入れた政策上の問題が拡大しようとしているのである。(2) 勿論、大学教育機能に自由競争を取り入れることによって多くの高等教育の課題が前進したことは事実である。しかし、教育現場では、教育産業の熾烈な自由競争に打ち勝つために、企業化した大学間の厳しい経営戦争に生き残るための日常的な対応に追われているのである。今回の問題でも、三大学法人が慌てふためいた理由に、生き残りを掛けた大学法人の必死の大学改革の動きが背景にある。

大学教育の改革、21世紀社会に貢献する高等教育の在り方、国際競争力をもつ日本の大学等々の課題に、現在の大学法人が無関心である筈がない。こうした大きな教育改革への教育行政的課題は民主党や自民党の政治家よりも、文部科学省の役人や現場の大学教育者がひしひしと感じていることも事実である。大学改革を望んでいる教育現場や文部科学官僚の要請に応えられないのは立法機能の責任者達(政党や議員)であることは否定できないだろう。

この意味で、田中真紀子大臣の初めから解散を前提にして成立した新内閣の閣僚田中真紀子氏の思い切った「肉を切らせて骨を切る」勇気ある行動を称えたいと思う。しかし、同時に、行政改革のための地道な手続きを行う時間と手法の必要性も政治家として立法機能の不在を自己批判しながら、改革のための手続きを示す必要があったと痛感する。

しかし、現実の我が国の国会では、国の在り方を問うことが、具体的な政策を検討することでなく、政局を議論することになっているようだ。この政治環境では、永遠に行政改革を行うことは出来ないだろう。ましては、この政治家どもを正すための政治改革など夢のまた夢だろう。



高等教育改革を提案するための必要な手続きを仮定すると

今回、田中真紀子大臣に与えられた高等教育改革の政策提案と実現の時間は余りにも短いために、本来あるべき手続きを述べても、それは、寧ろ、田中大臣に「高等教育改革の提案は今回は無理」ということになる。そこで、田中大臣が、十分に時間を与えられているという仮定の上で、政治指導の路線で、高等教育改革を提案する場合を考えて、その手順と方法を検討してみよう。

1、 民主党のマニフェストの高等教育の改革提案が現実の問題に答えるものでない場合、田中真紀子議員は、それらのマニフェストを見直し分析し、問題点や不十分な箇所を修正変更し、自らの提案を加えて、民主党の教育政策委員会(存在すると仮定して)に提出する。

2、 文部大臣からの提案を受けて、民主党内では教育政策委員会のメンバーが検討会を開く。民主党教育政策委員会議員は、民主党の教育政策を具体的に検討し政策提案をサポートする専門家会議(存在すると仮定して)に、文部大臣からの提案の検討を依頼する。

3、 民主党教育政策委員会専門家会議はその提案を受け、専門的調査研究活動企画を委員会に提示し、専門家会議を行い、専門家会議としての答申を出す。

4、 教育政策委員会では、専門家会議の答申を受けて、専門家会議の委員若干名を入れて、委員会を開き、教育政策委員会としての「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」を出す。

5、 文部大臣は民主党教育政策委員会からの答申を文部科学省内で検討するために、文部科学省内に「高等教育改革プロジェクト・会議」を組織し、この課題を検討するために必要な人材を集める。省内の専門家以外に、民主党教育政策委員会議員、他の省や民間団体、シンクタンク、教育機関から必要な人材を集めることが出来る。

6、 「高等教育改革プロジェクト・会議」は民主党教育政策会議から出された「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」の具体的検討、分析、解釈を行い、その修正や補足をし、「文部科学大臣からの指示による高等教育改革案に関する答申」を作成する。

7、 それらの答申は、文部科学省の中にある各党の議員、官僚、専門家によって作られている「高等教育政策委員会」(在ると仮定して)に掛けられる。

8、 その「高等教育政策委員会」での議論を経て、「高等教育改革プロジェクト・会議」は具体的な法案作成を行う。

9、 「高等教育改革プロジェクト・会議」の具体的な法案や制度改革の提案を「高等教育政策委員会」が検討し、承認、訂正、補足を行い、「高等教育政策委員会」の最終的な提案を作る。

10、 文部科学大臣は「高等教育政策委員会」の最終的な提案を国会でさらに検討し、訂正、補足を行い、国の高等教育改革の政策として確立する。

以上である。



しかし、現実の政治家の関心は

しかし、この手続きを行うためには、政権は少なくとも4年は安定している必要があるし、大臣も最低4年間の任期が必要である。つまり、上記した手続きが出来る政治的環境にないことが、さらにこの国の政治を混乱させ、国を疲弊させつづけている。

そろそろ、国益のために、政局論争をやめて、政策論争と国家の在るべき姿を議論し、国民からの意見を聞くべきではないかと思う。しかし、今日も、「太陽の党」が発足し、原発事故、今後のエネルギー政策、東アジアンの平和的共存、赤字債権問題等々は、「大切な問題」かもしれないが、大同団結して自分たちの権力を取る課題に比べれば「些細な」ことであると言っているようである。

かっての若き憂国の士は「暴走老人」になったのか、それとも「ぼけて」しまったのか。



参考資料

1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」2012年11月7日 http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html

2、三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/04/blog-post_6795.html

3、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html

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2012年11月7日水曜日

体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態

政治改革の課題(3)

三石博行



政治的な問題解決手段としての政策

コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。

コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。

問題解決の手段や行為を表す一般的な用語として「対策」と言う用語がつかわれている。では、政策と対策の違いとは何か。前者が政府や自治体等の公共体が行う政治的な問題解決手段や行為を意味し、後者は問題解決の手段や行為一般を意味していると言える。問題解決に対する行為を一般的に対策とすれば、その対策という行為が政治的課題に限定されることで政策という概念となる。つまり、政策とは政治的な問題解決策という意味である。



政策の惰性態と保守性

一般的な政策は存在しない。政策とは特定の何かに対する政策である。つまり、ある具体的な政治的目標を持つ。しかも、その具体的な政治目標である以上、ある具体的な政治体制に於いて生じている課題である。政策とはある具体的政治体制上の法的、組織的課題を改革修正し、ある具体的な制度上の持続、修正や廃止に必要な立法上及び行政上の作業である。

政治的目標を持たない政策はない。仮に、長年続けられている政策があるとしても、その政策は持続しているということに政治的意味を持っている。その意味で、ある具体的な政治的目標を実現するために計画的に維持、修正、廃止される政治的行為を政策と呼ぶ。

政府や政権与党に対して「政策を持たない」とか「無策」という批判が起こる。その場合の「政策を持たない」という表現は、「現在ある政策は有効性を持たないのに、その政策の修正は廃止、もしくは、新しい政策を出さない」という意味である。つまり、政治体制とは政策行為主体であるかぎり、すべての行政機能は政策行為として動いている。政策がないというのは、ある具体的な社会政治文化問題の解決やそれらの課題の合理的運営を行うために必要な社会政治制度、つまり立法や行政機能が存在していないという意味である。

政策とは、ある具体的で日常的な行政的行為である。そのことは、政策の保守性を意味する。つまり、政策はその政策を常に維持しようとする傾向を持つ。それを政策の惰性態と呼ぶことにする。何故なら、政策に不都合がないのに、その政策を変更することは、変更された政策によってシステムの損害のリスクが生じることを意味する。システムに損害を与えない政策は維持し保存することが最もシステムが消費するエネルギーを少なくすることになる。これが、政策の保守性や惰性態に関する「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。



政策の刷新と変更

政策が有効に機能しないことを行政や社会システムの機能麻痺状態と呼ぶ。行政の日常的業務に支障が生じている状態を行政の機能不全と呼ぶ。つまり、政策の問題処理能力が低下するために、社会システムの運営に支障を来たしている状態が起る。それを解決するには政策の修正、破棄、更新が必要となる。

政治的行為とはその政策の有効性を検証し、その維持、修正、破棄、更新を決定することを意味する。政策は常に日常的に行政や立法機関の機能として取り行われる判断や施行基準である。

例えば、伝統的で慣習的な政策が機能麻痺を起こすとき、社会システムの中で慣例的に機能していた社会構造の運営効率が落ちていく。社会運営に費やす資源が多くなることで、その社会システムの運営に巨額の費用が必要となる。その浪費的システムによって国力は衰え、人々は貧困生活に喘ぐことになる。

つまり、政策とは国家がその制度を維持するために、所有し活用できる資源をより有効に活用する形態を意味している。国家権力中枢によってそれらの資源が乱用され、国家機能が麻痺するまでにその乱用が放置される時、そこに制度内部での改革が生まれる。しかし、国家機能が麻痺しないまでも、国家権力中枢を占める特権者たちはその資源を自分達のものとして利用するだろう。これが、国家を構成する社会制度や権力構造とその国家の資源運用のあり方の「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。



体制崩壊としての政策体系の変更(政策のパラダイムチェンジ)

しかし、政策の刷新を繰り返し行っても、システムが機能不全から脱却できない状態にある場合には、そのシステム自体の制度改革が必要となる。その場合、これまでの政策に貫かれた社会思想と制度理念の全体の変革が求められる。この制度自体の変更を革命と呼ぶのだが、例えば、社会史の中で、最も典型的な革命は市民革命である。古い封建制度が新興階級(市民階級)の生産様式を疎外するとき、二つの利害の異なる階級が衝突することになる。社会がより合理的な経済制度を選ぶことによってその衝突の決着が付けられる。つまり、より生産力や社会資源力を生み出す階級が勝利し、その階級が最も都合よく運営できる国家制度が生まれる。それを革命と呼んでいる。

しかし、世界で進む近代化や資本主義社会の形成や発展の過程は、18世紀以降の欧米社会のそれらの歴史の繰り返しではない。つまり、欧米型の資本主義社会形成過程が世界の全ての近代化や工業化の普遍的な形態ではない。近代化過程や資本主義化は国によって異なるのである。例えば、列強の植民地支配から国家を守るために、近代国家大日本帝国では、天皇制による絶対君主制下で資本主義政策を推進した。欧米の社会史から観ると近代国家日本には、民主主義以前の絶対君主制と資本主義社会が同時に存在している状態であった。つまり、大日本帝国という絶対君主制国家が近代化と呼ばれる資本主義生産体制形成の先頭に立っていた。

天皇制と資本主義生産様式の強化は、西洋の社会からは矛盾した社会制度に見えるのだが、日本の歴史からは、この二つをもって国力を発展させるのが最も合理的な選択であった。つまり、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの日本の近代化過程に関する説明例である。

同様の説明は近代化のために社会主義経済を選んだロシアや中国にも当てはまるのである(2)。例えば、社会主義体制化で進む自由主義経済は国家政策として産業や国家企業による世界市場での競争力を得ることで、急激に発展することになる。しかし、その体制を更に発展させるためには、国内の産業制度を自由主義経済体制によって強化しなければならない。その自由主義経済の発展は、それを進めた社会主義権力構造自体を破壊することになる。

つまり、政策とはその政策を生み出す社会システムの一部である。政策の基本的な目的はその社会制度を維持するためにある。つまり政策は制度保存のために執り行われる政治的行為であると言える。このことを政策の惰性態や政策の刷新という概念で述べた。しかし、それらの政策を生み出す社会システムがその政策の刷新や変革をもっても機能不全を繰り返す時に、社会システム(国家)はその制度自体を根本から変えることを迫られる。

国家の政治制度が根本的に変わることを革命と呼んでいる。例えば、絶対君主制社会から国民主権国家へと革命によって政策の根本理念が変化する。つまり政策パラダイムチェンジを意味する。過去の政策理念は破壊され、新しい政策理念が創り出される。それの新しい政策理念によって、新しい国家(社会システム)は維持され、発展して行くのである。

つまり、「ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。」(1)、これが、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの、革命による政策パラダイム変換の解釈である。



参考資料

1、三石博行 「生態・社会資源の限界と国家の形態 -政治改革の課題(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html

2、三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/blog-post_1850.html

3、三石博行 「ブログ文書集 国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html

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2012年11月5日月曜日

生態・社会資源の限界と国家の形態

政治改革の課題(2)


三石博行


幻想としての唯一の民主主義社会と現実としての多様な民主主義国家

民主主義社会は国民の政治参加が無ければ構築できない。国民の政治への意識の高さがその国の民主主義のバロメータとなる。国民の政治意識の高さや政治への参加活動によって国家が利益を得ている社会を民主国家と言う。つまり、国民の積極的な政治参加によって国家が運営されている状態が国民主権社会である。

言い方を換えると、民主主義社会では、国民の社会や国家に対する責任と義務が問われていることになる。国家や自治体の運営状況について国民一人ひとりが、それを運営しているという自覚、そしてその責任を理解し、果そうとしない限り、民主主義社会は形成発展しないのである。

民主主義社会は、その意味で、個人的な生活への関心と同じくらい社会運営への関心を要求する社会でもある。この考え方は民主主義の理念と呼ばれているものである。現実は、世界のどの国を見ても、民主主義の理念を満たしている国はない。これが、現実の民主主義国家の姿である。つまり、世界には色々な民主主義国家がある。それが21世紀社会の民主主義国家群の現実である。

多様な民主主義国家運営の現実とそれに対する民主主義の理念の闘いはどうして生まれるのだろうか。つまり、理念や理想は常にある現実に対する否定的批判的駆動性を発揮している。理念が無い限り、現実を変える動機は生まれない。あるプログラム化された社会理念(観念)は、現実の社会形態をその観念形態のもっとも理想的な姿に変革しようとする。これが社会文化のある意味で生きた姿であるとも言える。

言換えると、民主主義の理念は、現実の民主主義国家のすべてにその理念に即し、「真の民主主義」に成るように要請、脅迫しているかのうようである。果たして、欧米を真の民主主義社会と呼び、そうでない社会を民主主義国家ではないと言えるだろうか。つまり、そこには欧米中心主義社会思想があり、欧米の社会史や社会制度から周辺諸国のそれを評価している。そうした考え方の極論として、アメリカ民主主義を他の世界に押し付ける考え方が生まれているといえる。



現実の国家の形態を規定する「限界資源活用経済合理性」

見方を変えれば、国家のかたちは、その理念によってではなく、その経済合理性によって最も現実的な形態を取っていると言える。世界に色々な民主主義があるのは、それなりにその形態が、その国の現実で、今一番、合理的(経済的)であるからとも言える。

イラクを民主主義国家に発展させるためには、アメリカは独裁者サダム・フセインを打倒すべきだと主張した。しかし、それはアメリカの国益上、イラクのサダム・フセイン政権が邪魔になったという理由に過ぎなかった。イラクから独裁者サダムが居なくなっても、イラクばアメリカの望むアメリカ的な民主主義国家にはならなかった。この事実からも、民主主義とは一つではなく、また民主主義は他の国家権力によって移植され、強制されて形成発展することはない社会制度であることを知るべきである。

こうした考え方の背景には、国家の形態を生活資源生産力の状態とその最も合理的経済的な消費形態に求める考え方がある。この考え方は生活資源から人類史を解釈した生活資源史観(1)を援用し展開したものである。

例えば、国民に国家運営の能力がないと判断していた時代では、こうした複雑多様で専門的な国家や自治体運営を官僚や職業的政治家と呼ばれる専門家に任せてきた。この委任によって、国家や自治体は合理的且つ経済的に運営されていた。

特に、封建君主制度や絶対王政では、国の運営を担う専門家を育てるために、ある特定の家族(王族)に対して、その義務と権限を与え、最も合理的に、つまり、幼児から帝王学を教え、国家の管理や運営の現場(官僚行政制度の中)で徹底して学習と経験を積ませ、君主や皇帝など権力中枢を担う専門家に育て上げてきた。

人間や家畜の労働力に依存し、農林漁業を中心とした産業社会、つまり人的、物質エネルギー的資源の少ない時代、機械制工業生産以前の社会では、少ない資源力を最も有効に活用し、封建社会制度、国家運営の形態を創ってきたと解釈できる。この考え方を「限界資源活用経済合理性」と呼ぶことにする。限界ある資源を最も経済的に活用する社会的形態を意味する。社会は最も経済的かつ現実的にその資源を活用するように働くという意味である。しかし、現実の社会形態がすべて最も合理的であると言う意味ではない。寧ろ、この「限界資源活用経済合理性」の意味は、経済的で合理的な資源利用に向かって社会形態は常に運動しているという意味である。

人類は、種(民族国家)を維持し、かつ人間個体の生命を維持するために、その時代や社会環境、言い換えると、生活資源の生産力に応じて、最も経済的な制度を編み出してきたと言える。生態系の資源環境に規定された社会文化(文明)の形態を人類史的に解釈したのが、梅棹忠男の「文明の生態史観」(1)であったと言えるだろう。

つまり、「限界資源活用経済合理性」の仮説には、国家の形態は、その国家の生産する生活経済資源量やその質によって決定されているという考え方が背景にある。また、生活資源から歴史を理解する考え方を生活資源史観(2)(3)(4)(5)と呼んだが、その生活資源史観によって社会文化形態を理解しようという試みでもある。

すべての政治社会形態はその存在合理性がまずある。その存在合理性の背景となるのが、与えられている生活経済資源の最も合理的で経済的な利用形態である。その利用形態に最も合理的な国家の運営方法や運営形態が選択される。これが「限界資源活用経済合理性」に基づき歴史的に生態環境的に選択された社会や文化とその歴史的進化形態を生活資源史観と呼ぶのである。



多様な資本主義(民主主義)国家の存在理由を理解する政治社会文化人類学的視点

資本主義生産様式によって導かれる民主主義社会も「限界資源活用経済合理性」を前提にして成立している。それらの民主主義社会は多様な歴史的背景、社会、文化や生態環境に影響され一つの国に一つの民主主義社会文化が存在していると言えるほど、多様な姿をしている。それが現実の民主主義社会の姿である。

言換えると、その国の政治形態は、その国固有の歴史、文化、経済、生活、生態環境の現実から生まれている。それの在り方を決定しているのが限界資源活用経済合理性である。一般的に国家の運営形態は、その国家が持つ資源の最も合理的経済的利用形態によって規定されると言うことになる。限界資源活用経済合理性によるとすべての社会にはその社会が存在する理由があり、社会形態を選択した経済的合理性が在ると述べていることになる。

この限界資源活用経済合理性の考え方は、今ある国家の存在理由を絶対的に肯定するように思われるだろう。つまり、ナチスドイツ、ファシズムイタリアも大日本帝国も、それなりにその国の在り方が歴史的に選択された合理的理由があると述べていることになる。その国家を現在の人々が否定したとしても、その社会が過去のドイツ、イタリアや日本の歴史的経過の中で、存在していた合理的理由があると言うことになる。

この限界資源活用経済合理性の考え方による社会分析では、現実にあるものを否定することよりも、その現実にあるものの存在理由を問い掛けることが課題となる。認めようと認めまいと、共産党一党独裁国家、イスラム国家、ユダヤ国家等々、民主主義の思想とは相いれない政治体制を持つ国家は存在している。その国家の存在を否定することでなく、その存在理由を歴史的、文化的、そして社会経済的に理解する視点として限界資源活用経済合理性の考え方がある。

この限界資源活用経済合理性の理論、生活資源史観等は、これまでの経済主義的な社会歴史観とは異なる。その基盤には社会経済の発展を生活資源の視点から観ているということに尽きる。つまり、限界資源活用経済合理性の理論は正統派の政治経済史の方法ではなく、文化人類学的な視点から、社会進化を見ていると言える。政治社会文化人類学的に多様な資本主義(民主主義)社会の存在理由を理解することが、限界資源活用経済合理性の意味である。



「限界資源活用経済合理性」仮説の理論的背景としての生物社会学とその限界

「限界資源活用経済合理性」の理論的仮説を使って、国家のあり方(かたち)を文明社会史的視点に立って解釈した。政治経済社会の進化の歴史的形態を生態文化的且つ生活資源史観的な視点で分析した。国家の存在理由をマクロ的視点に立って観た場合、全ての国家がその存在理由を持つという考え方に立っていることになる。この仮説(限界資源活用経済合理性の理論)は歴史的に存在した国家形態の存在理由を理解し、存在した国家の意味付けを行なったにすぎない。

つまり、この「限界資源活用経済合理性」の理論は生物学的な視点から社会形態を解釈している。社会を一つの生物体として理解し、その生物体は種の保存と個体保存の規則性に規定され存在していると解釈する。社会形態での種の保存とは、社会生物体の母体である「人類種の保存」を意味する。また社会生物体での個体保存とは個別社会形態の保存を意味する。つまり、社会はその社会形態を保存するために機能している。例えば、封建社会は封建制度を維持するために機能しているし、民主主義社会は民主主義の制度を維持するために機能していると解釈したのである。

言い換えると、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と言う有名なヘーゲルのことばを持ち出すまでもなく、「存在しているものは、何らかの存在合理性を背景に存在している」という哲学的な解釈がこの「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)の背景にある。つまり、この国家観からは国家の保守性は理解できる。しかし、この仮説から政治改革や政権交代、さらには革命と呼ばれる国家形態の構造変換も「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)から理解することができるだろうか。



国家機能の伝統、慣習、改革やその革命的な機能転換の解釈

国家機能や社会制度は、その機能と制度と呼ばれる運動によって維持されている。古代国家から絶対君主制度までは、政(まつりごと) を担う官僚制度、軍隊(国防や治安)、財務管理や王族(王室)の管理等々が国家の機能として営まれていた。それらの機能はその時代の権力構造を維持していた。言い換えると、権力の維持がその機能の目的であった

その目的を遂行するために、機能や制度が維持される。例年繰り返し同じ制度や機能が維持され続けている状態を「国家機能の惰性態」と呼ぶことにする。つまり、国家機能の惰性態では、制度改革は生じない。つねに、伝統的な習慣に基づく政(まつりごと)が例年、定期的に繰り返される。この習慣的な繰り返しによって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を維持し続けるのである。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、慣習的な政策実行に関する説明である。

同じように、その権力構造を維持するために、政策執行機能や制度の変革が行なわれる。言換えると、国家制度やその機能の変革(改革)もその国家権力構造の維持のために行なわれている。国家機能や制度を変革しその基本構造を維持し続ける状態を「国家機能の改革態」と呼ぶことにする。この制度改革によって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を構築し続ける。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制内での制度改革に関する理解となる。

もし、ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。

つまり、革命によって、人類は最も合理的な資源活用の政治経済体制を再構築し、存続し続けようとする。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制そのものを変革する革命と呼ばれる制度変更に関する解釈となる。



「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html


参考資料

1、梅棹忠夫 『文明の生態史観 』(中公文庫)

2、三石博行 『生活資源論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「阪神淡路大震災時に必要とされた生活情報の調査活動から展開された「生活情報論」、つまり、生活情報を生存条件に必要な生活資源に関する情報(一次生活情報)、生活環境を豊かにするたに必要な生活資源に関する情報(二次生活情報)と欲望を満たすために必要な生活資源に関する情報(三次生活情報)の三つの生活情報の構造から分類し、それらの情報の量的変化から観た人類史観を「生活情報史観」と呼んだ。」

3、三石博行「設計科学としての生活学の構築−プログラム科学としての生活学の構図に向けて−」2002.12 金蘭短期大学研究誌第33号 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf

4、三石博行 『生活情報論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html

5、三石博行 「生活構造論から考察される生活情報構造と生活情報史観の概念について」
1999.11、情報文化学会誌 第6巻1号
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99h.pdf

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2012年11月2日金曜日

東アジアの領有権対立を越えて平和的共存関係を創りだそう

シンポジューム「東アジア共同体への道」(日韓同時通訳付き)


三石博行



危機に瀕した東アジア共同体構想


2012年11月26日月曜日の14時30分から17時30分(受付14時から)、京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホールで、5つの国際交流団体(京都・奈良EU協会)と学術団体(政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センター)が共催して、シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催することになりました。

シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催する目的は、目覚しい経済成長を遂げた中国、台湾、韓国、ロシア極東地域を含む東(北東)アジア地域の今後の平和的共存関係を維持し発展するためのものです。この経済的協力を推進する平和的共存関係は東アジア共同体構想として発展してきました。

しかし、現在、尖閣諸島(魚釣島)や竹島(独島)の領有権問題によって、日韓中の東アジアの主要国間に外交上の大きな障害が立ち塞がっています。この障害は、単に日韓中の三国のこれまでの経済文化交流を阻害するに止まりません。領土問題が国家間の武力的衝突に発展してきた歴史を考えると、最悪の場合、日中間の軍事的衝突が生じる可能性もあります。

これまで、培ってきた経済関係や市民間の交流が、お互いに妥協できない領土問題を前面に出すことによって、崩壊する危機に晒されていると言えるのです。そして、東アジア共同体構想も消滅し、その目的である東(北東)アジアの平和的共存の可能性も大きく後退したことになります

国家の論理で領有権問題を争う次元からは、この東アジアの国際地域的な利益を見出すことは出来ないと思います。そこで、政府間レベルや外交上の問題として東(北東)アジアの課題を語るのではなく、これまで日韓中台露の間で進んだ企業、市民や研究者間の親密な交流を今まで以上に活発にしながら、民間の力でこれまでの交流の歴史を繋ぎとめる必要があります。



世界一の経済力の可能性をもつ東アジアの形成かあるいはその破壊か


この国際地域的な危機は、これまでの日中、日韓の関係の変化と理解することが出来るでしょう。今までのように、アジアの唯一の先進国日本と発展途上国中国や韓国の関係が変化し、経済力では中国は日本を追い越し、企業力では韓国のトップ企業が日本メーカよりも強い競争力を持つに至っています。

企業間の中国、台湾、韓国、ロシア極東地域での共同事業は進んでいます。その力が、東(北東)アジア共同体の基盤になっています。経済大国2位の中国と3位の日本、進展する韓国や台湾、そして発展するロシア極東部の経済力が集まるこの国際地域が21世紀の世界経済の中心になることは確かです。

つまり、この危機は見方を変えると、東アジア全体が経済競争力を付け、世界経済の中心になろうとしている一段階であると理解することも出来るのです。その意味で、この領有権問題として表面化した国家間の力関係の変化の基本構造を正しく理解することで、この紛争の解決が、寧ろ、次の東アジアの経済や文化交流の可能性を切り開く方向を与えると考えることも出来るのです。

こうした可能性を見出すためには、領有権問題を先送りにしてきた先人達の知恵を活かし、領有権問題があることを認めながらも、そのことよりも大きな利益、つまり経済発展によってもたらされる利益を共有することを優先すべきではないかと考えます。

今、東(北東)アジアで起ろうとしている地域国際紛争は、この地域が世界の中心となる可能性を持つ未来への道を破壊しようとしているのです。



政府に任せるだけでは問題は解決しない


民間人には国家間の紛争を直接解決する力はないでしょう。国家間の紛争は政府・外務省の外交官の努力によって解決されるでしょう。

しかし、これまで民間人によって、経済や文化の交流が続けられてきました。その交流によって出来上がった人的関係、相互の信頼や理解は、この紛争の解決に対しても、大きな力と知恵を提供するでしょう。

東アジアの平和的共存関係を考える時、今すぐに解決不可能な領有権問題を前面に出してしまうことは、国家間の武力紛争による決着の道しか残さない方法を選ぶことになるでしょう。つまり、今、領土問題解決のみを優先する外交は、未来の東アジアの可能性を破壊する行為に近いとも言えます。反日デモを過大に報道し、民族感情を扇動する世論や風潮に対しても警告を行なう必要があります。今、冷静で長期的な視点を持ってこの事態に対応する姿勢が求められているのです。

そして、何よりも、反日運動が中国や韓国で起こる意味を確りと日本国民は理解する理性をもたなければなりません。つまり、日本が過去に行った中国侵略、朝鮮植民地化、日中戦争と太平洋戦争での中国や韓国・朝鮮の国民の受けた甚大な被害を思い起こし、その戦争責任を受けとめる力を持たなければならないのです。戦争は日本国民にも甚大な被害を与えました。民間人の立場から、共に国家が起こした間違いを思い起こし、再び、この地域が国家の利害によって生じる戦禍にまみれることのないように努力すべきです。

しかし、こうした意見に対して、領土問題は絶対に譲れない問題であるとある政治家は言い、何よりもこの領土問題に東アジア諸国の国家間の外交課題を集中させようとする民族主義が台頭しようとしています。その背景には、各国の排他的な民族主義があります。それを報道も政治も助長させようとしているのが現状です。

この危険な状況に対して、長い東アジアの共存の道を切り開くための交流が提案されなければなりません。このシンポジュームはその一つです。私達は、市民、研究者や企業人の交流をさらに積極的に進めるために、このシンポジュームを呼びかけました。

政治社会学会は発足当時から、韓国の政治社会学会と共に研究活動を行い、韓国の著名な研究者も日本の学会に参加し、共に活動を続けてきました。同じように他の学会でも、東アジア間での研究交流を積極的に行っています。こうした伝統を今後も展開するために、この国際地域の研究者や市民は、さらに共同研究活動を展開する必要があります。



文化相互理解の果たす政治的影響力 第一回シンポジュームの課題


今回、第一回目のシンポジューム「東アジア共同体への道」では、一般財団法人ワンアジア財団(One Asia Foundation)の佐藤洋治理事長が基調講演を行います。一般財団法人ワンアジア財団は長年、一つのアジア、アジアの平和的共存を目指し教育研究文化活動を支援してきました。特に、アジアの平和に寄与するアジアの大学研究教育に多額の支援を行い続けています。最近は、ロシア極東地域の大学への教育研究支援活動にも取り組んでいます。

シンポジュウムの司会は政治社会学会理事長である荒木義修武蔵野大学教授が行う予定です。シンポジュームでの報告者は2名で、一人目のHyun-Chin Limソウル国立大学アジアセンター所長が「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」と題する講演を行います。そして、二人目のHongik Chung(ソウル国立大学行政大学院名誉教授)が「Hallyu- 韓流とアジア-」と題する講演を行う予定です。

討論者として三名の日本の研究者が参加します。一人目は、清水耕介先生龍谷大学アフラシア多文化研究センター長です。二人目は大西広先生慶応義塾大学経済学部教授(京都大学名誉教授)です。三人目は渡辺啓貴先生(東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)です。それぞれの視点から、二名の報告者に対してのコメントを行なう予定です。

今回のこのシンポジュームは、今、政治的課題になっている領土問題の解決について、真正面から討論するテーマのみを取り上げていません。寧ろ、国民文化の基盤となる民族文化とその国際的な交流活動をテーマにしています。政治的課題の解決を政治的方法に求める正攻法のみでなく、民族文化的課題の分析やその展開の可能性を語ること、さらにはアジアの平和的共存を目指す教育研究活動の支援の意味を語ることによって、長い視点から、問題を解決する姿勢を示そうとしていると思います。

「東アジア共同体への道」を語り合う機会は他にもたくさん作るべきだと思います。そして、その課題は多様で、まったく異なる意見が出されて然るべきであると思います。

今回、5つの団体、京都・奈良EU協会、政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センターの共催で行われるシンポジューム「東アジア共同体への道」もその一つです。

今、こうした時代に、私たちは、市民、研究者や企業人を中心とした分厚い層の民間人による、東(北東アジア)の民間人のための「東アジア共同体への道」について考え、意見交換をしたいと願っているのです。

是非とも、参加し、意見を述べてくださるようにお願いします。そして、このシンポジュームの後に行なわれる懇親会にも参加して、異なる国の研究者との交流を楽しんでください。



シンポジジューム「東アジア共同体への道」プログラム


日時:2012年11月26日(月曜日)14時30分から17時30分(受付14時00分)
会場:京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホール
アクセス

【総合司会】
大賀 哲(九州大学大学院法学研究院・准教授/政治社会学会国際交流委員長)

【開会の辞】
三石博行(千里金蘭大学共通教育機構・ 教授/京都奈良EU協会・副理事長)

【基調講演】
 佐藤洋治(ワンアジア財団理事長)
「アジア共同体の創生に向けて」

【シンポジューム】

司 会:
荒木義修(武蔵野大学政治経済学部・教授/政治社会学会・理事長)

報告1:「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」
Hyun-Chin Lim(ソウル国立大学アジアセンター所長/ソウル国立大学社会科学部・学部長/韓国政治社会学会・会長)

報告2:「Hallyu- 韓流とアジア-」
Hongik Chung(ソウル国立大学行政大学院・名誉教授)

討論者 清水耕介(龍谷大学アフラシア多文化社会研究センター長)
大西 広(慶應義塾大学経済学部・教授/京都大学名誉教授)
渡辺啓貴(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・教授)



懇親会

時間:18時30分から20時30分
場 所 :京都大学吉田キャンパス正門横「カンフォーラ」
参加費:2000円


連絡先

千里金蘭大学共通教育機構 三石研究室
〒565-0873 吹田市藤白台5-25-1
TEL:06-6872-7467 FAX:06-6872-7784
懇親会申込Email : labo.mitsuishi@gmail.com


チラシダウンロード

日本語チラシ

英語チラシ


2012年11月3日 誤字訂正 2012年11月5日 文書追加