2012年3月8日木曜日

「状況」という生活世界の現実と「目的」という生活主体の志向性

構造構成主義の理解のための試み(1)


三石博行

状況という現実

構造構成主義を提案した西條剛央氏の最近の著書「人を助けるすんごい仕組み」(ダイヤモンド社)の中に方法論として語られている行動の具体的選択や活動の企画を決定するためにまず検討しなければならない基本要素として「状況」と「目的」という二つの用語が登場する。

西條剛央氏が「ふんばろう東日本支援プロジェクト」で発揮した展開力の基盤となる思想は、「現実を理解して、現実に適した企画と立てるということが最も効率的で有効な行動を導く」と言う近代以来現代までの知の在り方の基本に根差したものである。しかも彼が直面したその現実が余りにも悲惨な現実、東日本大震災という現実であった。この現実は彼(我々)の生活世界を揺るがし、彼(自分)をその現実に対自させざるを得ないものであった。つまり、この現実から一切目を閉じることの出来ない世界を意味していた(いる)。もし、その現実を避けるという行動が可能なら、それは今までの自己の全ての歴史を否定した時にしか可能でないとも言える。自己そのものがそこにある世界だとも言える。

こうした主体にとって不可避的現実を「状況」と呼ぶのだろう。そこに哲学の歴史的課題がある。つまり、哲学の知とは伝統的(本来)知ることによって自己の生き方が決定されることを意味していた。哲学的知は社会や生活世界との緊張によって成立している知の在り方である。それが哲学と科学の知の様式とを分け、哲学と常識との知の意味を区分した。

従って、哲学は科学や常識に付着するドグマを反省的に理解しなければならなかったため、つねに「知っていると思う自分」を疑う作業を課すことになる。何故なら、知っているということは生活世界の中で時代や文化に規定され続ける自己の生き方であり宿命であると理解したからである。その非対自化(意識化しないこと)が社会や個人の暴力や権力となることを良く知っているからである。


主体にとっての世界・状況

哲学が課題とする世界とは、一般的人間の社会文化環境や生態風土環境ではない。哲学が謂う世界とは、個別的で具体的な人間・主体にとっての世界である。何故なら、哲学の知は生きることに直結する知であり、その知は具体的私を前提にして常に成立しているからである。

哲学の知が科学の知に駆逐されようとした時代、哲学はこれまで世界と呼んできた概念を現象と呼び直すことになる。科学技術が知の代表者となり科学主義が社会思想の基盤となる20世紀になって哲学的世界を哲学者は「現象」や「事象」あるいは「こと」と呼ぶようになる。科学的知の対象認識によって語られる世界には主体問題が欠落する。

そのことが、良心的科学者がその良心と裏腹の結果、例えば原爆を作ることになる。また社会や人のために働いていると信じていた技術者が、結果的に特定の利益集団の公害や環境破壊に寄与するという現実を抱えることの基本的な問題点となったからである。そこで、哲学は科学的対象認識と哲学的対象認識を峻別する(厳密に分ける)ために世界を現象と呼んだ。

それらの現象は、科学的言語による解釈、社会文化的評価による解釈そして経済的な意味と呼ばれる解釈等々、主体を取り巻く時代性や社会性を前提とした多様な解釈群によって構成されている。哲学はそのことを存在と呼び、また対象世界と呼んできた。それらの世界は主体を決定づけている現実、「今、ここにある現実」、つまり「状況」を意味する。つまり状況とは主体にとって絶対的な現実であり、主体を具体的(知覚や感覚等の身体的、規範や規則等の社会的)に取り巻く現象世界である。主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界を状況と呼ぶのである。


投企としての「目的」

主体を規定し束縛しようとする「いま、ここにある」世界としての状況を哲学が問題とするのは、それが個別主体にとって生きているという現実にほかならなからだろう。この状況という用語は個別主体にとっての時代性や社会経済文化性に規定された生活世界を意味する。

生活者は常に自分の生活世界に具体的に関係する存在である。そのため状況と呼ばれる生活世界とその中で生きる主体とは不可分の関係にある。ここで言う不可分の関係とは、二つの概念が相互に関連し、一方が他方を規定し、同時に他方が一方を規定する関係のことである。労働という生活主体の行為によって生活環境や生活条件(生活世界)は形成・改良され、育児、教育や文化環境と呼ばれる生活環境(生活世界)によって生活主体(人々)は育ち・生存している。生活世界では、生活主体と生活環境は不可分の概念であり、この二つの概念によって生活様式(生き方)や生活素材(生産物)は形成される。

現実の生活現実世界を状況と呼ぶことによって、その状況を受け止め、また切り開く生活主体の姿を生活主体の欲望や希望、つまり西條剛央氏の「目的」という概念で表現できる。問題を解決するために、まず西條剛央氏は「状況」という概念で生活世界の現実を理解し、「目的」という概念で生活主体の課題を把握した。何が基本的な問題かと問いかけることによって莫大で無限の課題に満ちた震災の状況の中から主体の要求を実現させるための課題を選別する。その選別された課題の解決のために再度、生活主体の状況が問われ、そこに問題解決の現実的な方法が抽出される。目的を果たすための方法は状況によって(生活世界の社会文化的状況と生活主体の身体文化的状況の理解によって)決定されると西條剛央氏は述べている。

言いかえると、生活主体とは状況がなければ目的を見つけ出せず、また目的がなければ状況を切り開くことも出来ない存在である。そして生活主体や状況を決定する生活世界も同様に生活主体の目的によって生み出される状況であると言えるだろう。状況と目的の二つの概念は、生活世界と生活主体の動的相補関係を意味し、哲学が対象とする世界と科学や常識の語る意味との違いを物語るとも言えるだろう。つまり、哲学が語る状況とは、生活主体に与えられている現実であり、生活主体のその解釈と挑戦の対象であり、生活主体の投企(目的を持ち未来(夢・幻想)へ立ち向かうこと)であると言えないだろうか。


引用、参考資料

西條剛央 『人を助けるすんごい仕組み』2012年2月16日、ダイヤモンド社
西條剛央 『構造構成主義とは何か』 2005年3月20日、北大路書房


--------------------------------------------------------------------------------
参考ブログ文書集

「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html


2012年3月14日 誤字修正
--------------------------------------------------------------------------------

0 件のコメント: