2012年2月22日水曜日

感謝の気持ちを持つとは何か

商品化した他者の再生は可能か

三石博行


抽象的に感謝の気持ちが湧くだろうか

よく感謝の気持ちをもって生きるという道徳心が語られる。この「感謝の気持ちを持つ」ということばは、道徳的なことばとして語られる場合、そのことを実践的に理解する上での困難さや疑問に出会う。しかし、「感謝の気持ちを持って生きる」ということに疑問を投げかける人はいない。何故なら、それは人として大切な心遣いであるということが余りにも自明であるとされているからである。

感謝する、人に感謝するという感情は抽象的な対象、人に対して沸きあがるだろうか。感謝である以上、何か具体的な内容、感謝すべき内容と、具体的な対象、感謝したい人(具体的な個人)がいるはずである。その意味で、感謝という感情を人という一般的な対象に対して、一般的な気持ちとして持つことは、何か無理があるように思う。

同じようなことばとして「生かされている自分」への自覚という概念がある。人は一人で生きているのではなく、人々は協力しあい支えあい生きているという当たり前の考えに立って、自分だけで生きているという考え方に対する批判的な視点を、この概念は与えている。生かされている自分の自覚と人への感謝の気持ちとは、前者が生きている自分の現実を意味し、後者は生きている中での具体的な他者からの行為に対する感情を意味している。

従って「生かされている自分」の自覚(意識化)は、人間が社会的存在であることの自覚として理解される。この意識は具体的な誰かに対してや何かに対してという感情ではなく、自分が生きて来た(生きている)現実に対する自己意識的な生きてきたという解釈(主体性論)から、多くの人々の労働や行為によって生かされているという解釈(社会文化環境論)へ変換、つまり理解や解釈の変更を意味する。

しかし、「生かされている自分」という気持ちが「感謝」と結び付くとき、「生かされている自分の現実」に対する解釈が、より具体的な事実(出来事)や具体的な個人に対する感情として、それらの人々によって今まで生かされてきた自分への自覚となる。その場合、「努力し状況を切り開いてきた自分(主体的に生きている自分)」という解釈から、「誰々(具体的個人)の何々という協力(具体的な行為や物質的根拠を背景にした助け)に対して自分ひとりではどうにもできなかったある具体的課題を解決、もしくは解決の糸口を見つけた」ことに対する感謝の念を抱いている心理的状況を意味している。その場合、「生かされている自分」という自覚は、何か具体的な課題が前提にした誰か具体的な人への「感謝」であるといえる。

もし、人は漠然とありがとうという気持ちを持ち、抽象的に感謝の感情を抱くことはないのなら、「人に感謝の気持ちをもって生活する」という道徳的な教えは、もっと説明が必要になるだろう。そして、感謝を一般的に「有難いと思う」と語ることは、実は感謝の本質を理解していないと批判されても仕方がないのではないだろうか。この感謝を道徳的なテーマとして提案することに対して、ここでは批判的に検討してみる必要がある。

見えない人々の絆や手助けに対する繊細な感情

「感謝の気持ちをもって生活したか」という項目を一日の反省の課題に取り入れるなら、その点検作業をどのように進めるだろうか。前記したように、今日一日の生活の中で、具体的な課題である誰かに対して感謝の念を抱く経験をしたかとうい事になる。しかし、もし、感謝の念という感情を、他者のある積極的な行為に対する感情として受け取るなら、多分、毎日、感謝の気持ちが湧くような機会には恵まれないのではないだろうか。

言い換えると、多くの人々から援助され、また手助けされる状況は、よほど大変な被害にあった状況、たとえば今回のような大震災の後に避難所生活をしているような境遇でない限り、生まれないだろう。普通は、殆ど、他人の積極的な手助けを必要としない程度に十分自分でやりくりしている。だとすると、毎日、感謝の気持ちをもって生活したかと問いかけるのはやり過ぎだと思われるかもしれない。

しかし、日常生活では、色々な他者の手助けにあっている。例えば、こうして仕事を大学の研究室で行っているのは、この大学が存続しているからであり、また、学生がこの大学に入学してくれているからである。さらに、この文章を書くためのPCがあり、それを動かす電気があり、ブログをアップする機能(インターネット)があり、また、情報処理を行う知識(それを学んだ経験)があり、そして、研究室の机、暖房器具、照明器具、知的労働を手助けするノート、筆記道具、その他の文房具、等々。数えると限りない多くのもの(過去と現在の人々の労働の産物)に囲まれていることには確かである。それらの一つひとつに対して感謝の念を持つということは、多分「それらのものを大切に使う」ということに尽きるだろう。そして、何よりそれらのものを使って、より社会に貢献する働きを行うということになるだろう。

感謝の気持ちとは、自分が支えられている具体的な現実を理解することである。人々はそれぞれの現実生活の中で生きている。その意味で個々人の感謝の内容はその人々の具体的な現実生活の中身によって異なるものである。しかし、感謝するこころのあり方には、共通したものがある。それは、自分に与えられた現実の生活を営むことができるという状況である。その状況を生み出している環境(ものやひとによって生み出された)に対する理解となる。

会社のトップの例で言うと、その会社で働く人々から会社の製品を使ってくれる消費者、そして、その会社の製品製造のための原料を提供する人々や企業等、それらのすべてに対して感謝の念を持つということになる。すると、感謝の念とは、抽象的なものではないと気付く。それは極めて具体的であり、そしてことばだけでなく、社会貢献等の社会行為や他者を利することによって自己を利すると信じる生活行為として表現されるものだと思える。

つまり、感謝という気持ちは、見えない人々の絆や手助けに対する繊細なこころ(感情)のように思える。感謝の念を持つということは、自分を取り巻く世界によって生かされている自分の現在を見つめる気持ちから生まれるのではないだろうか。


商品化した他者

もし、確りと自分の周り(生活環境)を見つめ、今まで自覚していなかった人々の労働(労力)や援助(手助け)、そしてそれを可能にしている社会、その社会のモラルに対する繊細なこころを持つことが出来れば、人々は、日常的に感謝の気持ちを持つことが出来るかもしれない。もし、これがなかったら大変な苦労をしたかもしれない。もし、この人が居ないなら、仕事は終わっていないかもしれない。もし、この社会の制度がなければ自分はこうした生活を送ることは出来なかったかもしれない、等々。限りなく、多くの条件(生活環境の)が自分を守り、自分を生かしていることに気付くかもしれない。

そして、他人の手助けで動いている社会(高度に分業化した社会・商品生産を行う社会)では、他者の労働が商品として売り出され、それを買った人は、その労働を自分のものだと理解してしまう。金を払った以上、その商品を自分が捨てようが壊そうがそれは自分が決める権利を持つと信じている。つまり、この資本主義社会は、他者の労働力(商品)を豊富に手に入れることができる。

その意味で豊かな社会、言換えるとより多くのそして多様な人々によって相互に支えあっている社会であると言える。その反面、この社会では商品化された労働、つまり具体的人々の労働の姿が見えなくなる社会でもある。それは使用価値を失った交換価値だけの商品(通貨)によってしか、商品の交換ができないからである。それ自体、資本主義社会(経済の発達した社会)の宿命であると言えるだろう。

そこで、商品に囲まれた社会で生まれ育った人々、つまり金があれば何でも買えるという考え方(我々の社会常識)をもった人々にとって、カネで自分が買った商品(品物や労働力)に感謝の気持ちを持てと言う方が無理難題、言いがかりを付けているとしか思えないだろう。これが、この社会の常識なのである。資本主義社会は、他者の労力を商品化することによって、その労力を普及させ、多様化させ、その労力の交換をスムーズにさせた。そして同時に、他者は商品化し、商品化した他者に囲まれて生活することになる。つまり、他者の人格も感情も自己に介入し自己を動揺させることも、感銘させるることもないのである。


商品に作った人の顔をイメージする力

地産地消をモットーにした八百屋の店頭に名前入り野菜が出回る。何とも安心感を持つのは、その野菜が安全だと言うだけではない。その野菜をつくった人々の顔が見えるからだろう。また、オーダーメードの商品が受けるのは、多分、自分に合った品物ということと同様に、作った職人の顔が見えるからだろう。

人々は、本来の商品交換の姿を求めている。それは、労働力(お金)と労働力(品物)の交換である。そして、その交換に必要なものは、失いかけている人の顔や関係(絆)の確認である。感謝という言葉でなく、お互いの作ったものを評価すること、そして大切に使うこと、そのことに感謝の内実が含まれているようだ。

他者の働きを評価すること、例えば、上司が自分の仕事を手伝う部下の人々への気遣い、夫が家庭を守る妻の苦労を理解してやる気持ち、同僚の作業内容を理解し彼らの力を得て自分が仕事をすることが可能になっているという気持ち等々、日常生活の中では不断に他人の働きを感謝している。そうした気持ちがあることで、家庭、職場や地域社会の和が成立している。言い換えると、日常の家庭や職場の中に、共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころを感謝の気持ちと呼んでいるのだろう。そう考えるなら、それらの考え方や感情、生き方が、自分自身にそのまま問われていることに気付くのである。私は果たして、自分の周りの人々や社会への感謝の念を持って生活しているのだろうか。

商品社会・資本主義社会では、商品に作った人の顔をイメージする力が欠落することで、より巨大な消費社会を可能にした。商品が顔を持たないことで、つまり大量生産システムが可能になることで、人々は口数の少ない商品、つまり安価な商品を手に入れることが可能になった。その意味で、資本主義社会は、広範な地域での労働力の交換に成功し、より多くの生産物をより早く、より多く流通させることが出来た。その速度に反比例するように、労働力から人の顔が消滅していったようだ。つまり、資本主義社会で、消費に感謝の気持ちがないというのは時代錯誤も甚だしい意見であるともいえる。いちいち、商品に顔を付けていたら、時間が掛かるし、大量に生産することは不可能なのだ。

しかし、この社会もようやく一回りしたようだ。人々は安さよりも安全を、均一な商品よりも個性のある商品を、既製品よりもオーダーメード商品を求めるようになった。野菜にも生産者の名前が入り、ハンカチにも作者名が入る。そしてそれらの品物を大切に出来る限り長く使う。壊れたら直し、使えなくなったらその材料で別のものを作ったりする。この行為を感謝と呼んでもいいのだと思う。何故なら、感謝とは共に生活し仕事をする人々を気遣う繊細なこころなのだから。


誤字修正 2012年2月24日
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