2011年6月11日土曜日

失敗学に基づく福島原発事故検証の考え方とやり方

福島第一原発事故検証(2)


三石博行



畑村失敗学での失敗の意味 安全な原子力発電所開発の可能性とは

畑村洋太郎東京大学名誉教授(以後 畑村氏と称す)の失敗学では、失敗は行為に付随する一つの要素(行為に含まれる確率的事象)とみなされている。そして、失敗とは行為結果に対する主観的な期待値に対するズレであると解釈されている。つまり、同じ事象に対してうまくいかなかったとか失敗したと思う人にいれば、うまくいったと思う人もいることになる。失敗とは個人の受け止め方によって異なるマイナス評価という主観的な感想である。(1)

従って、高い目標を持つ人はそう簡単に結果に満足しない。その結果、努力を重ねることになる。そして、簡単に満足する人々からすれば、いつも顔をしかめ、自分に満足しない不幸な彼が、結果的には社会から評価される仕事人に成長することになる。失敗を認めること(嫌な気持ちを持つこと)が結果として満足度の高い技術を修得する原動力となる。

つまり、同じ事象がそれほどまでに個人的な評価失敗に学ぶことが同じ傾向の失敗を繰り返さない技術であると述べた畑村氏の失敗学では、失敗をした個人の人格を責めるやり方は失敗に学ぶ行為としては不適切なものであると理解されている。

失敗学が提起する失敗の意味を理解しない限り、失敗学を活用した今回の原発事故に対する検証は理解されないだろう。

言い換えると、原子力で電気を作るという技術的に困難な課題に立ち向かう場合に、それが技術的に困難であればあるほど、安全な原子力エネルギーを得ることは難しいし、その技術を確立する過程では、多くの失敗、試行錯誤が必要とされる。もし、安全な原子力エネルギーを得ようという高い目標を持った開発プロジェクトがあるなら、そう簡単に危険や要素を残存した状態の原子炉を実際に稼働させることはないだろう。徹底的な「安全な原子力発電所」に関する研究開発が試みられるだろう。

その意味で、今後、もし原子力発電を続けると言うなら、これまでの原子力発電の技術開発過程でその安全性についての技術的検討を検証しなければならないだろう。この検証は原子力工学を研究してきた全ての学者や技術者の義務であり、その研究活動を保障した大学や研究機関の社会的責任において、所属研究者の研究論文や社会活動を総点検しなければならないだろう。

もし、今後、原子力発電を建設し続けるとするなら、その安全性を保障する技術に関する研究を行い、その情報を提供し、国民的な検証作業を受ける必要があるだろう。

そして、もし安全な原子力エネルギーの利用が可能なら、資源枯渇する未来社会にとっては大きな意味を持つことは全ての人々も認めるだろう。

つまり、失敗学の言う失敗の意味から、失敗を恐れないという意味が導きだされるように、安全な原子力発電の可能性を失敗学が無限に否定しているのではないことを理解しなければならない。


失敗学の科学思想・失敗の要因とからくりを見つけ出すための姿勢

古(いにしえ)の昔から、人の行動に関する評価や批判を行う方法として「個人を責めない」で「行動を批判する」ことが言われてきた。この考え方は失敗学を理解するための基本的な考え方を語っている。

「事故調査・検証委員会」の委員長である畑村洋太郎氏は、6月7日の第1回会合後に、原発事故の個人的責任追及が委員会の目的でないことを明言した。(2) 事故を起こした要因やからくりを正確に理解するための失敗学の原則を述べたのである。

情報が映像として生々しく報道されることによって、失敗の原因を生み出した現実の対応や方法が個人の行動として映し出される。そのために失敗の要素やからくりは極めて鮮明に理解されるのであるが、同時に、その担当者の顔がこびりついてしまうことは避けがたい。

そして、原発事故がもたらした災害への憤りが、その間違った事故処理を行ったと思われる個人への攻撃や嫌悪となる。そのことは、その個人を嫌悪し、いつの間にか排除することによって、感情的に解決をすまし、主観的に事故検証作業が中止してしまうことになる。

今回の原発事故処理の過程で生じた問題を、事故処理を担当した人への非難や個人的攻撃になってしまう傾向は避けがたいのであるが、しかし、それでは問題を正しく理解することはできない。

このように憤慨や怒りを越えて、批判が個人から課題に至るには、検証作業の目的が明確でなければならない。目先の憤激に囚われるなら対応を間違った東電や政府関係者を解任することで終わるだろう。しかし、その解決方法からは未来の希望は生まれない。おそらく同じ失敗を繰り返すことになるだろう。

そこで畑村氏は一世紀後にも役立つ検証作業を提案したのである。つまり、畑村氏の言う失敗学は失敗を行った人々(自分)を排除することによっては成立しないし、展開しないのである。失敗学の目的は同じ失敗を繰り返さないこと、失敗があったとしても前回よりも被害を減らすこと、重大な失敗に繋がらないことが課題である。そのため失敗した人々の経験を活かし、それを未来に繋げることを畑村氏は提案しているのである。

この姿勢に畑村氏の失敗学に流れる科学思想が在るのだと思う。


失敗学での安全性の確立は危険性の理解から始まる

畑村氏の失敗学では、人は必ず失敗を犯す存在として位置付けられている。何であれはじめて試みる時は、成功する(自分の希望する目標に達成する)方が奇跡に近いと理解されている。

現在の原子力発電所の安全性や使用済みの核燃料の安全な処理を保障することは非常に難しいことを多くの専門家は指摘して来た。こうした指摘を続けた研究者は殆ど学会でも認められず、大学でも評価されず、勿論、政府の原子力安全委員会のメンバーにも推薦されず、「××六人組」などと言われて社会的に排除され続けてきた。

彼らが大学研究者で在り続けたのは、安全な原子力利用をしたいがためであり、現在の危険な原発を非難してきたのである。つまり、彼らが原子力工学の専門家であり続けたことは、現在の原発の危険性を科学的に理解する作業(研究)を続けたことを意味する。

畑村氏は「事故調査・検証委員会」の初会合(6月7日)で、「原発は安全ではない」と述べた。つまり、畑村氏は、まず、これまでの原発の安全神話を否定した。現在の日本の多くの原発が今回の福島第一原発事故と同じような事故を起こす可能性や危険性を持つという認識に「事故調査・検証委員会」を行うことを宣言した。

これまで多くの悲惨な事故は、事故の可能性を考えない、危険な状況を予測しない楽観的な視点から生み出されてきた。そのためには、まず危険性に対する鈍感な感性を打ち砕く、悲観的すぎると言われるぐらい悲観的な視点に立つ必要があるだろう。その意味で「原発は安全でない」という命題から始まる原発の安全管理対策が「原発は安全だ」という命題から出発する安全管理よりも、より安全性を保障するのである。

畑村氏が原発は安全でないと宣言したのは、原発を全て止めるとか、将来、いかなる安全な原子力利用の可能性は絶対にないと言っているのではない。現在の原発には安全性は保障されていないと述べたに過ぎない。つまり、失敗学が述べる安全性の確立とは、まず危険性の理解から始まることを理解しなければならない。そして、高度な安全性を目標にすれなら、考える限りの危険性を検討し、探究し続けることだと理解しなければならない。

この考え方は、人間にとって安全という技術を得ることの困難さを意味する。これまでの人類の歴史の中で、我々が作りだした多くの技術が結果的に我々人類を滅亡の危機に導いていることを直視するなら、安全という技術を目指す科学技術の在り方が21世紀に最も必要とされていることに気付くのである。

その一つの方法として、失敗学が提起する科学思想や失敗観(失敗する人間)やそれを前提にした技術論がある。今回、政府が福島第一原発事故の調査にあったて畑村氏を中心とした「事故調査・検証委員会」を立ち上げたことは非常に評価されるだろう。

「事故調査・検証委員会」が、これからの世界の原発政策に役立つ調査結果報告書、安全対策への提案を行うことを期待したい。



参考資料


(1) 三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html

(2) 三石博行 「失敗学に基づく福島原発事故検証のための国民運動を始めよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_10.html



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東日本大震災関連ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
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2011年6月12日 誤字修正

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