2011年3月7日月曜日

政局論争から政策論争へ、今日本が必要としている議会の課題

国民による国民のための国民政策運動を起こそう

三石博行


日本の政党は、国がどうなっても政局が問題なのだ

日本の現在の政治家達が最も関心をよせている政治課題、そして真剣に取り組んでいる政治行動は、どうも国民の生活や世界の平和の問題、そして将来の日本社会の発展の課題ではないらしい。

彼らが毎日国会で話し合っている重大な問題は、政局、政権を取ること、つまり、自分たちが総理大臣や大臣になることらしい。

今、日本では政治家が努力しなければならない問題は山のようにある。赤字国債に頼る財政、益々進む少子化、エネルギー資源問題、東アジアの平和共存、北朝鮮核保有問題、深刻化する失業問題、貧困化する地方と進まない地方分権化、足りない保育所、益々広がる格差社会、派遣で使い捨てられる若者、農業問題、社会保険制度改革、消費税問題、変革を必要としている高等教育等々。

解決をいそぐ社会経済問題が山積みになっているが、必要な法律は決まらず、子供手当てや児童手当は支給のめどが立たない。その大きな原因はねじれ国会だろ。そのねじれを選んだのは国民であれば、その責任も国民にある。しかし、政治家であれば、そんな国民責任論を語る時間はないはずだし、ねじれ国会で国が麻痺しつつある責任は国民にあるし、そのねじれ国家は国民が望んだことと言うのだろうか。(ひょっとしたら言いかねないかもしれない)

あらゆる局面で日本の政治の意思決定の遅さが日本の経済や社会の活力を奪い続けている。そのことに、国会議員たちは、関心もなく、また責任感もない。ただ、政局が問題となる。何故なら、権力を取るための駆け引き、根回し、陰謀画策、妥協や連帯を政治活動だと思っているらしい。

それも政治活動だというのなら、政治が何のためにあるかを知らなければならないだろう。それは国民の生活と社会の平和を守るためである。そのこと最も大切なことであり、政局はそのための手段ではないのか。

こうした政治ゲームを毎日、国民はテレビで見ている。そして、その結果が政党への支持率の低下として現れているのだ。

だが、そろそろあの世襲制の政治屋達に政治を任せることを止めなければならない。政治屋に政治を委ねていては本当に自分たちの国は潰れ、自分たちの生活は失われ、そして極端な考えが社会で生まれ、社会は紛争に巻き込まれるだろう。


前原氏の問題で感じること

外務大臣前原誠司氏は将来を期待される政治家である。国土交通大臣の時代に取り組んだ課題は多くの国民の共感を呼んだ。そして外務大臣としても対米外交を始め多くの成果をもたらしている。

その前原氏が、今回、在日外国人の支持者から2005年度から2008年度までの4年間、年間5万円、つまり20万円の政治献金を受け取っていたことで辞任に追いやられた。あれほど政治とカネに厳しい前原氏である。そのことを考えれば、外国人から5万円の寄付金を受け取っていたことを知っていなかったと本人や周りが言うのは事実だろう。(1)

京都新聞によると、在日韓国人の女性(72歳)は前原氏の近所の方で日本の法律を知らずに献金していた。しかも、郵便振込みの日本名での献金に前原事務所の事務員が外国人からの政治献金と理解できただろうか。そして、前原氏を支援していた在日韓国人の方も、「外国人からの寄付受領を禁止する政治資金規正法」を知らなかったと述べている。(2)(3)

今、日本の外交は色々な困難な局面に立たされている。沖縄の基地をめぐる日米同盟の関係悪化、ロシアとの北方領土をめぐる課題、中国との尖閣諸島領有権問題の解決と経済的友好関係の維持、北朝鮮の核問題と拉致被害者家族救済問題、東アジアでの経済社会共同体、自由貿易協定等々、早急に解決の方向を求めている課題が数限りなく山積しているのである。

そして、古い知人(在日韓国人)からの20万円の政治献金が前原外務大臣の政治活動に終止符を打とうとしている。この事態に国民は、違和感を持たないだろうか。自民党の副総裁が、朝のニュースで、外務大臣が外国人から政治献金を貰っていることは、国を売る行為であると、まるで海外の企業から何百億の資金を受けたかのように語る。その彼の政治的発言の裏を国民は理解できないほど馬鹿ではないのだが。

彼にとっての関心事は、前原氏が外務大臣を辞め、衆議院議員を辞め、民主党が打撃を受け、自民党が政権復活することである。彼は今解決を急がれる国民生活や国家の問題を考えているのだろうか。多分、政党の政治家たちにとっては政局が最も大切な課題であって、政策はその次に語られる課題となっているのだろうか。

こういた政治のドタバタ劇を見ながら我々は益々絶望感に駆られる。この国は、どうなるのか、世襲制で続く日本の政治屋集団に、この国を任せていていいのだろうか。


政治を国民の手に取り戻すには

国会と謂えば、国民の生活向上や社会発展や平和に繋がる政策を議論する場であると言うよりも、政治家の政治献金問題で意見の攻防が続き、議会が荒れ、議員同士が罵り合う場であるようだ、と国民が解釈した時、そのことが、議会制民主主義の危機への一歩を歩み出す切掛けにならないだろうか。

そして、マスコミも毎日、そのドタバタ劇を追いかける。それは何よりも面白いらしい。マスコミも、日本の現実、そして今、確りとした視点で報道するべきではないだろうか。その点で、田原総一郎氏が司会していた「サンデープロジェクト」がテレビ番組から消えたことは日本のジャーナリズムに取って(日本の民主主義にとっても)、大きな損害であったと言える。田原総一郎氏のような、どの政党の政治家に対しても堂々と正論を述べるジャーナリストがいて欲しいと思う。

そして、この国はどうなるのだろうか。この国は、益々活力を失い。変革に遅れ、貧しくなり、巨額の借金を子孫に残し続けるのか。それでいいのか。その問題を国民全体に投げかけ共に考える機会を与える力をもっているのはマスコミであり、政治ジャーナリストの役割ではないだろうか。

現在の国会の状況、つまりねじれ国会を選んだ我々国民は、力を得た野党(自民党や公明党)がことごとく国会審議を遅らすことを期待した訳ではなかっただろう。以前、自民党政権下でも力を得た野党(民主党)によって、国会は空回りした。今回は、政党が入れ替わっただけで、同じように国会は空回りし続けている。これは議会制民主主義の欠点であり宿命でもある。問題は、政治家がその場合、政局を重視するか、政策を重視するかの議会運営に関する政治選択問題となる。

殆ど(の政党)が政局を選択する事になる。国が緊急の事態に陥っている場合には、二つの異なる政治政党での政局闘争は治まる。何故なら、喧嘩しておられない程に、国家が大変な状況にあることを知っているからである。

換言すると、こうして政局論争に明け暮れている社会は、まだまだ社会的な余裕があると政治家たちに解釈されている国家の状態であるとも言える。そして、日本はまさに、この状態なのであろう。

私を含め幾らかの人々は、日本にはもうそうした余裕はないと考えている。それらの人々は少数派かもしれない。しかし、これからの時代には、この考え方を持つ人々が少しずつ増えることは間違いないだろう。

これらの人々のスローガンは「政治を国民の手に取り戻す」ためであり、そのためには国民は何をなすべきかという課題が提案されるだろう。

1、 政策を自分たちで検討し提案する情報ネットワークを起こす。
2、 地方から政治を変える。例えば、河村名古屋市長、橋本大阪府知事や地方から政治を変える政治運動に参加し、国政を変えていく。

以上、簡単に二つの課題を提起したい。

これからは、政党は問題ではない。政策が問題となる。国民生活のための政策を出すこと、作り出すことが政治活動となる。そのために、多くの人々が討論し、そして意見を出し合い、政策を具体的に提案する国民運動を形成しなければならないだろう。

その政策提案活動は、全国的な情報ネットワーク、地方的な情報交換会や交流会を通じながら、国民的運動として、課題別に、しかも政治的立場を先行させない、具体的に社会全体の利益に繋がる問題解決方法を提案し合う場が必要となるだろう。

この新しい国民政策運動の流れは、情報ネットワークを活用しながら確立して行くだろう。


参考資料


(1)47トピック 「【前原外相辞任】貧乏だった少年が慕った女性は焼き肉店経営の在日韓国人、女性は5万円ずつ日本名で寄付、それが違法献金と指弾されることになる」
http://www.47news.jp/47topics/e/198306.php

(2)京都新聞  「「法律を知らず迷惑かけた」献金の在日韓国人女性」
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110306000113

(3)中日新聞 「旧知の人物からの献金を声高に非難することには、どこか違和感を覚えてしまう」
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2011030702000009.html


修正 (誤字 文書追加) 2011年3月7日


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