2011年2月3日木曜日

非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か

社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(1)

三石博行


社会文化的解釈 暴力行為としてのいじめや体罰

すでに内藤朝雄氏によって小中学校でのいじめに関する社会学的研究がなされている。これらの先行研究を土台にしながら、いじめに関する議論を続けなければならない。(1)

さて、これまで我々は、「いじめ」を「暴力」の一形態として自覚できない我々の暴力に関する理解を巡って、この間議論を続けてきた。いじめ行為の視点から考える場合に、いじめが暴力として理解される場合とそうでない場合があるという意見の背景は、いじめる行為には直接的な暴力行為でないものが含まれるという見解が成立しているからである。

つまり、いじめを「暴力行為」と判断するには、「そぶり」「ことば」が引き起こす「ハラスメント・いやがらせ」行為も「暴力」の一つの形態であるという前提が成立している。この前提は、次第に日本社会では了解事項となろうとしているが、古い世代の人々には理解を超えるという意見もある。

そこで、暴力に関する理解が、個人、世代、社会文化によって異なることを理解できた。確かに、戦前、傷害死亡事件にならない限り、学校で教師が児童に体罰を加えることに抗議する父兄は殆どいなかったと思う。しかし、同じ教師の行為は、戦後、しかも80年代以降の日本社会では、教師の進退問題に発展する事件として扱われるようになった。


平和な社会日本での自殺者数3万人の意味するもの

いじめなどでは、直接的な暴力行為の行使者が見えにくい、つまり「相手を無視する」、「応えない」「相手にそれとなく分かるようにひそひそと話しをする」という陰険な雰囲気で相手に精神的、神経的なダメージを与える手段が取られることもある。

人間(子供も含める)がこうした陰険ないじめをするということ、また、職場でのハラスメント(性的ハラスメント、パワーハラスメント等々)などが日常茶飯事に生じている。それらのいじめをどのようにして防ぐのか。そして、被害者の自殺によってこのハラスメントやいじめが発覚する。

考えてみれば、一年間に3万人の自殺者を生む日本社会、その原因の一角に、抱え込んだ悩みを解決できる方法を見出せなかった人々、対人関係に困った人々、いじめられた人々、相談する相手を失った人々が居ることは否定できない。3万人の自殺者数はイラク戦争で死んでいくアメリカの兵隊の数よりも多い。

そして、この平和な社会日本という戦場で戦死した人々が受けた弾丸とは何か。その暴力とは何かを問いかけなければならないだろ。


二つの視点から考察された暴力概念

暴力に関する先行研究の課題は大きく二つに分かれる。一つは暴力を社会文化的現象として理解し、それが引き起こす戦争や人権侵害に関する問題を社会的に解決しようとする議論である。代表的な考え方は、マックスウエーバーの「暴力装置としての国家権力の機能・軍隊や警察」に関する考え方、ジョージ=ソレルの象徴的暴力の概念、ヨハン=ガルドゥングの構造的暴力の概念などが挙げられる。

もう一つの暴力に関する概念は、レヴィナス、デリダや今村仁司に代表される人間学的視点からの理解である。これに関しては、今村仁司の講演テキスト「暴力以前の力 暴力の起源」に関する批評で述べた。(2) そして、この批評や分析から提起された課題が残った。それは、今村の展開から導かれる結論、つまり、暴力の基本的形態は人間の欲望・言語形成活動に起因するという、精神分析学やポスト構造主義の暴力理論の説明仮説に対する検証作業であった。

今回は、前者の社会文化現象としての暴力論に関して述べる。しかし、この議論は、人間学的な暴力論に関する議論へと拡張することは避けられない。何故なら、社会文化現象としての暴力を解決する課題の困難さを理解するとき、その背景として人間学的暴力論の浮上が生じるからである。


構造的暴力 池田光穂の展開解釈

社会文化現象としての暴力に関する概念の代表として「構造的暴力」がある。例えば、ある具体的個人が他者の身体や精神に加える人為的暴力(行為)を直接的暴力であるとすれば、間接的にしかも暴力の「行為者が特定しにくいものを構造的暴力とよぶ。」(3)この構造的暴力の概念はヨハン・ガルトゥングよって提案された。

池田光穂氏(以後 池田と呼ぶ)は「構造的暴力は、国家や権力集団が、合法性を装い持続的におこなわれる、人権・道徳・排外的な暴力の行使である。それゆえ、構造的暴力は、国家、民族、人種、権利、正義、性別、宗教的ドグマの名の下に行使され、平和的や人道的であると正当化されることがある」(3)と説明している。

また、池田は「ガルトゥングは構造的暴力の形態を次の3つに分類」(3)を以下に紹介している。
1、 抑圧――政治的なるもの
2、 搾取――経済的なるもの
3、 疎外――文化的なるもの

池田によると、構造的暴力は社会文化的観念形態(イデオロギー)的に生じる個人への匿名の抑圧、搾取や疎外の形態を意味する。つまり、人権団体が強制する差別撤廃の教育、白人学生によっては公民権運動で獲得した有色人種学生の優先的な入学許可によって入学できなかったことも、「平和維持のための軍隊の派兵や、途上国における当事者たちの同意なしの不妊手術や投薬は、典型的な構造的暴力である」(3)と池田は述べている。


暴力を防ぐための二つの政治思想

暴力に関する議論は非暴力の概念と関連して理解される。一般に、暴力革命や刑罰などは、暴力に対して暴力をもって対峙する方法である。しかし、暴力に対して非暴力を主張することは、暴力に対して制裁する立場を取ることではない。暴力自体が否定される行為を非暴力と呼ぶ。例えば、マハトマ・ガンディーやキング牧師のように暴力を振るう国家や集団に対して、平和的にしかも非妥協的にその暴力に反対する行為を意味する。非暴力平和運動はその典型であり、日本の憲法9条を守るために活動する人々の思想的基盤となる。つまり、非暴力主義には、「人は人に対して基本的に平和的存在であるという社会性善説が存在している。

も一つの考え方、つまり敵の攻撃(暴力)を抑止するためには自己の攻撃力(暴力)を身に着けなければならないという思想は、核抑止力や国家の軍事防衛力の考え方に代表される。例えば、中国の軍事力や北朝鮮の軍事行動に対する国防力や増強や日米軍事同盟の強化を進める思想基盤となっている。敵の暴力を抑止する唯一の手段が防衛力(暴力)である考えには、基本的に人間の間に非暴力的関係は成立しないことになる。この考えの基本には、人は人を常に侵害するという社会性悪説が存在していると言えるだろう。

この二つの異なる考え方には、基本的に暴力に関する理解が異なる。つまり、一つは暴力、直接的暴力のみでなく間接的暴力(構造的暴力)は無くなるという考え方、もう一つは、暴力はなくならないという考え方である。つまり、直接的暴力を防ぐために直接的、間接的暴力が必要であるという考え方である。

我々の社会で採用されている現実的な暴力防止対策は非暴力主義でなく、暴力による暴力抑止主義である。殆どの国で採用されている社会制度(刑法、警察、司法制度)は、暴力を暴力によって抑止する制度である。つまり、構造的暴力は社会制度の基本であり、その構造的暴力をもって社会は維持されていると考えられる。社会が存在するかぎり、そこに何らかの抑圧、搾取や疎外の形態が生じる。それらの形態を皆無にすることは、社会そのものをなくすること、つまり国家という機能をなくすることを意味する。その意味で構造的暴力の廃止は無政府主義の考え方を意味するのである。


社会文化的機能としての構造的暴力

我々の暴力に対する議論の帰結は、その目的と反して、逆に我々は基本的に暴力を廃止することができないという結論にたどり着くのであろうか。暴力は社会文化的機能の中に存在する必然的要素であると帰結することになるのだろうか。

人権を守るためには人権侵害する人々の人権を脅かすしか方法はない。いじめをやめさせるためにはいじめる子供にいじめられることを経験させるしかない。犯罪者には犯罪被害者の苦しみを味わってもらうしかない。人を殺した人は人から殺される苦しみを味わってもらうしかない。

9.11のテロを行った奴らは、同じように爆撃して死んでもらうしかない。パレスチナ人を殺したイスラエル兵士はパレスチナ人によって殺すしかない。イスラエル人を殺したパレスチナのハマスの民兵はイスラエル兵によって殺すしかない。

つまり、暴力の連鎖は永遠に食い止められない。それが、この社会文化的暴力に関する理解の結論である。

そして、人間社会科学や哲学、社会思想は、この暴力や人権侵害の連鎖に対して、単に非暴力主義という観念論を唱えることしかできないことを自覚する。それを認めることは、我々の思想的敗北を認めることになる。何故なら、社会思想はこの根源的暴力を解決する力を持たないからである。それは、我々の社会思想の無力を認めることになる。


参考資料

(1)内藤朝雄 『いじめの社会理論-その生態学的秩序の生成と解体 』 柏書房 2001年7月、
内藤朝雄 『いじめの構造 –なぜ人が怪物になるのか 』講談社現代新書 2009年3月 

(2)「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシズム的形態 今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評 」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html

(3)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html






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