2011年2月7日月曜日

民主化過程と暴力装置機能の変化

社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)

三石博行


独裁政権国家での政治的暴力と直接的暴力の社会的依存度

前節において、池田光穂氏のヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の解釈から、暴力は社会文化構造の機能から必然的に生じるという帰結した。(1)つまり、国家や社会の維持機能として構造的暴力は存在することになる。(2)

例えば、人権尊重や国民主権を国家の理念としない国家では、国家は国民が求める自由に対して軍隊や警察を使って直接的に弾圧する。現在、中東や北アフリカの国々で繰り広げられている民主化運動への国家権力の弾圧の例に取るまでもなく、国民主権を国家の理念としない国々、権力者集団の独裁的な政治が行われる国々(現時点・21世紀初頭 世界の大半の発展途上国)では、その政治体制を批判する報道や表現は弾圧される。この政治的な構造を前提にしながら非民主主義国家での政治的暴力の課題を考える。

構造的暴力(間接的暴力)の概念を導くために前提となった直接的暴力の概念、例えば傷害行為のようなある具体的な人称(人、集団、社会)が個人に直接的に加える暴力について述べた。国民主権のない国家では、この直接的暴力が国家によって、非常に簡単に行われる傾向にある。これらの国家は国民の民主的な選挙によって選ばれていないために、その体制を維持するために国民からの反発を気にすることなく政治を行うことが出来る。つまり、国家の政策に反対する人々の声を弾圧することが出来る。その場合、直接的に国家は警察を使って反対している個人をめがけて攻撃してくる。それらの反対する人々(個人)に肉体的、精神的、社会的にダメージを与え、反対する行為を中止させるのである。

このようなケース(独裁政権の国家)では、国家が所有している暴力装置の姿は、棍棒を振るう警察官として視覚的にイメージできるために、理解しやすいのである。言い換えると、民主化の遅れた社会とは国家や社会が個人にたいして直接的暴力を安易に振るう社会、もしくは集団の中で直接的暴力が横行することを社会が取り締まらない社会文化の状況であると解釈できる。そして同時に、民主化過程とは、個人に直接的暴力を振るってきた国家がその直接的暴力を極力振るわないようになる過程、また同様に集団や個人が別の個人に対して直接的暴力を振るうことを厳しい批判し取り締まる社会文化を持つことを意味する。

具体的には、1960年代の公民権運動に対する弾圧を行っていたアメリカ社会が半世紀後の2010年には黒人大統領が生まれ、多くの有能な有色人種のアメリカ市民がアメリカの社会的リーダとして働けるようになった。また、家庭内暴力、性的虐待、高齢者虐待、児童虐待、パワーハラスメントと人権感覚のない社会で無視されてきた行為を直接的暴力として解釈し批判する社会世論が生まれる。と同時にある集団による行政(主に自治体)への脅しも直接的暴力の使用として批判的に解釈されてきた。暴力団に屈しない歓楽街等のお店経営者や店主が登場し、現在の相撲協会への批判の始まりでもあった暴力団の活動資金となる賭博行為が世論の中で厳しく批判されることになる。

直接的暴力行為を国家が国民を弾圧する手段として認めないこと、それが国民主権で運営されている国家の基本であり、またそれが民主主義社会を運営する人々の人間関係や社会関係の約束の原則となる。直接的暴力への批判とその抑制機能が国家、社会や集団で作動しているかと言うことが民主主義社会化の過程をもっとも理解できる社会現象のバロメータである。そして、人間関係において、直接的暴力による支配関係を悪とする倫理観念が成立しているかが民主主義文化のバロメータであると言える。

非民主主義国家という社会では、政治的手段として直接的暴力が使われ、社会が直接的暴力に対して鈍感な文化をもち、つまり直接的暴力行為が習慣化し、その加害者への寛容さ、被害者への蔑視(弱いから苛められる)という社会文化が成立している。逆に、民主主義化する社会とは、政治的手段として直接的暴力を振るうことを違法とし、また直接的暴力を認める社会習慣(例えば体罰やスパルタ教育)を批判し、相手に理解を求めるコミュニケーションによって、社会的秩序を維持しようとする社会文化が成立してゆく過程を言う。


民主主義国家での構造的暴力機構

民主主義国家において国家の暴力機能自体が無くなったのではない。民主主義社会とは国家が直接的暴力を国民の支配する道具としない社会を意味する。そして、国家の経済が豊かになり国家が時間を掛けて国家の意思決定を出来る体制(民主主義)を可能にしていく過程(民主化過程)が生まれる。

例えば、フランスのような人権尊重を国家の理念とする民主主義国家であれば、その民主主義制度を維持するために構造的暴力が機能することになる。

例えば、あるオカルト宗教団体や極左・極右政治集団が国家権力に致命的打撃を与えるために仕組む毒ガステロや武装蜂起のための武器収集を行うことに対して、国家は「破防法」を適用し、その集団の活動を監視する。

特に、殺人、傷害行為、強盗、詐欺、窃盗等々の人権を侵害する直接的暴力(人為的暴力)が発生しないように、市民の命と生活を守るために国家は法律、司法制度だけでなく、それらの反社会的人権侵害行為を防ぎ、それを踏みにじる人々への懲罰の必要性、人権を守る社会倫理的義務を国民に強制的に了解させる。

そして、人権侵害・社会的不安要素への火種を防ぐためにあらゆる文化的イベント、テレビ報道、情報活動を行う。言い換えると、人権尊重という国家理念、社会イデオロギーを維持するための機能・構造的暴力装置が設置されるのである。

人権擁護を国家の理念とする社会では、人権侵害を防ぐために、例えばレイプ犯行が起らないように、また麻薬売買が横暴しないように、警察官が街を巡回し、仮に犯罪と見なされるものがあれば、彼らは実力でそれを防ぐだろう。

我々の街の立派な警察官の働き(直接的暴力装置)を維持するために、市民は犯罪防止のための協力、例えば自治体での犯罪防止のための回覧板、警察への協力、人権委員会の設定を行う。これらの市民達の活動、その社会的機能を構造的暴力装置と呼ぶことができる。

つまり、構造的暴力が一般的に政治体制の維持に必要な機能であるという考え方から、構造的暴力は権力機能と同義語になる。


構造的暴力機構への自覚

つまり、民主国家では、国家は直接的暴力から間接的暴力機能を使い、国家体制の維持を行う。つまり、国家の体制維持に必要な力を暴力装置と呼ぶ。具体的には警察や軍隊である。その警察や軍隊は直接的暴力を背景にして、国民に国家権力の揺ぎ無い体制を示す。しかし、民主主義過程では、警察や軍隊が国民に対して直接的暴力を振るうことは無くなる。何故なら国民が運営する国家で、その国家を維持する機能である警察や軍隊が国民を弾圧することは、警察や軍隊機能の自己矛盾を意味する。そして、国民を弾圧した場合には、警察や軍隊が国家の理念に反した行為を行ったと見做されるからである。

当然、国家である以上、民主主義国家も警察や軍隊を持っている。それらの力は、国民主権を脅かす勢力、つまり民主主義社会に反対する政治集団やその社会を暴力で破壊する集団に対して機能する。国家の理念に暴力的に反対し、その利益を破壊する集団に対して、国家は直接的暴力装置を施行するのである。

また、国家制度の維持のために、法律、司法制度、教育、文化制度を設けて、国家の理念を再生産し、社会常識化し、習慣化し、個人的行動規範化し、倫理・道徳化していく。この社会観念形態の形成、つまりイデオロギー化を進める構造によって、それに反する集団や個人を抑制する社会文化的機能を構造的暴力(間接的暴力)と考えた。

国民主権によって成立している民主主義社会の構造的暴力について語るのは、その国家が理念とする民主主義を絶対化しないことが民主主義の究極の課題であるからだ。つまり、人権擁護を国家の理念とする国家は、自らの所有する暴力装置について自ら自覚的に理解することを、民主主義国家の政治文化としなければならないからである。そうでない限り、民主主義絶対主義とよばれる社会思想に基づく、他の社会へのそしてその国民への非人道的、人権侵害行為を民主主義の名の下に、人権擁護の大儀名分で、繰り広げられる殺戮を聖戦として賛美してしまう結果になるかである。


多様な民主化過程の理解とその支援

すべての国家の形態には、その存在理由が必ずある。つまり、如何なる国家であれ、それが存在している経済的背景が存在している。簡単に言うと、中世の王国や近代の絶対君主制国家、帝国主義国家にしろ、それらの国家がどのような非人道的行いや人民の犠牲を生み出したとしても、それらの国家が歴史的に存在しなければならなかった歴史的、社会的な理由がある。その理由の大きな要素として国民経済力が挙げられる。しかし、この理由に関して、ここでの課題に議論を集中させたいという理由から、ここでその理由について詳しく述べること避けた。そして、今後の文章でこのことは述べたい。

結論から述べると、国民経済の豊かさと民主化過程は同時に進行する。そして、政治的意思決定の速度から考えても、国民による議員選挙や議員による議会制度を取る民主主義はもっとも効率の悪い政治体制である。政治的意思決定をすばやくするためのもっとも進化した形態が、独裁政治体制である。君主制や一党独裁政治は、すばやく政策を決定実行する。素早く経済的力を得たいなら、明治維新以後 日本が取った天皇制による近代化、また中国やベトナムが行っている一党独裁による近代化が最も経済効率のいい政治路線である。そして、社会主義中国(ベトナム)での近代化・民主化過程については、前に述べた。(3)

イスラム共和国と呼ばれる社会も、多様な近代化過程の一つと言う角度から見ると、理解できる側面が多くある。現代のイスラム国家は資本主義経済や西洋近代科学技術の導入を否定している訳でない、その意味で、中世のイスラム国家(サラセン)と異なる。つまり、この二つの国家のイスラム教と国家機能との関係は基本的に異なる。中世のイスラム教国家では、イスラム教によって国家が形成された。つまり国家とはイスラム教化した領域を意味した。しかし、現代のイスラム教国家は、民族国家の理念にイスラム教を据えた。民族国家の建設や運営にイスラム教が活用されている。西洋民主主義の唱える博愛、平等や自由と類似の社会概念をイスラムの教義に従って、まったく異なる方法で実現しようとしている。

その意味で、この21世紀初頭の世界に色々な近代化過程を試みる国家がある限り、色々な民主化過程が存在していると謂える。そして、それぞれの民主化過程で許容される国民の自由、平等の条件が存在している。すべての国がアメリカやヨーロッパと同じような自由や平等を国民に与えることは出来ない。そして、現実的には、先進国から観ると、人権侵害と判断される政治が行われることになる。その人権侵害の内容は、ある時はクルド人の大量虐殺であり、チベット人の宗教の自由への侵害であり、反対勢力の政治団体や市民団体への弾圧である。

当然、先進国では、こうした人権侵害を許す訳には行かない。しかし、同時に、それらの国々の民主化過程を理解しなければならない。そして、人権侵害を起こさないために、出来ること、つまり、すでに先進国が行ってきたのだが、ノーベル賞を与えるとか、亡命を認めるとか、その政治活動の自由を認めるなどの対応をしながら、長期的に民主化過程をサポートすべきだろう。その意味で、ヨーロッパやアメリカはこれまで、多くの業績を残し、世界の民主化運動を支えてきた実績を持っている。


今、我々の取り組むべき課題

世界平和は人類の夢である。しかし、国家が存在し、その国家間の対立が続く以上、戦争は無くならない。その意味で、世界平和は不可能に近い目標である。現実に多様な民族、言語、国民国家が存在している以上、世界から戦争を絶滅することは出来ない。

しかし、民主主義、つまり国民主権の国家体制を作る方向で、世界の歴史が18世紀以来300年以上の時代の流れを作って来た。この流れは、人々の人間としての尊厳を求めた歴史であり、人々の自由の獲得への闘いの歴史でもあった。この流れの中に、明らかに人権擁護を国家の基本とする社会が形成されよとしていることは事実である。

そして、理解しなければならないのは、現実的な変革への過程である。つまり、国は、その制度を維持するために機能している。所謂、国という制度の個体保存の運動である。国家の制度の維持とは、その国家の理念の維持であり、国家のあり方の維持である。国家が伝統的にこれまで維持してきた機能を、維持しようとする。そこにこの維持機能のもつ、個体保存的なメカニズムの姿がある。しかし、もし、その機能によって国家が存続できない場合には、国家はその理念を捨て去り、麻痺する国家機能を刷新することになる。これを革命や維新と呼ぶ。

国家を維持する機能として暴力装置が存在している。当然、国家の古い制度から新しい制度への変遷に置いても、それらの暴力装置、つまり直接的暴力装置、例えば警察や軍隊のあり方も変化するし、間接的暴力装置も同時に変化する。しかし、暴力装置自体は国家がある限り存在する。国家が存在する以上、国家の機能としての暴力装置を解体することも、そして無視することも不可能である。

問題は、多様な民主化過程の国家の存在を認めるということが、多様な暴力装置のあり方を理解することに繋がることである。つまり、好むと好まざるに関わらす、その暴力装置の存在を否定できないのである。そして、問題は最も分かりやすい独裁政権国家の暴力装置、つまり、直接的暴力を国家支配の道具として活用している国家の暴力装置の姿でなく、民主国家に存在している暴力装置、国外には強力な軍隊・直接的暴力装置を使い、国内には資本主義・西洋民主主義至上主義を維持するための報道、教育、文化施設の機能、つまり間接的暴力装置の姿を自覚的に理解する機能が求められている。

自国の暴力装置の理解を行うとは何を意味するのだろうか。それは、一般的な表現でなく、我々であれば、日本の場合を具体的に示さなければならない。

1、 日本の民主主義文化をさらに進めること

2、 国際的視点に立って考える文化を育てること

3、 人権教育を学校教育で十分行うこと

4、 国際・国内人権擁護運動を社会が支援すること

以上の課題に取り組まなければならないだろう。


参考資料


(1)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html

(2)「社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力
非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html

(3)「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html






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