2011年1月6日木曜日

いじめを生み出す文化的構造

三石博行

はじめに

いじめやハラスメント(嫌がらせ)は日常茶飯事に起こっている。いじめという個人の行為が生じる社会文化的背景について考える。特に、子供社会でのいじめとその予防対策について述べる。


いじめとは何か、その行為の社会文化的構造について


日常的な行為としてのいじめが問う課題

いじめ(虐め)とは暴力行為である。いじめに近い概念に、ハラスメント(いやがらせ)、虐待(幼児虐待、老人虐待、障害者虐待)等がある。例えば、男の職員が女の職員に性的ハラスメント、上司が部下に仕事上のハラスメント、親の幼児虐待、女性差別、老人虐待、障害者差別、部落出身者差別、在日外国人差別等々がある。

言い換えると、いじめは、私たちの社会、つまり地域共同体、職場、学校、集団、家庭で、ことばの暴力、嫌がらせ、差別等々として日常茶飯事に行われている。社会に力の格差、つまり強い立場のもの、弱い立場のものがいる限り、強いものが弱いものに力の行使を行う。一方的な力による立場の主張が可能な人間関係において、ハラスメント(いやがらせ)、虐待やいじめが生じる環境が成立する。力の格差を使って行われる行為がいじめとよばれる目に見えにくい暴力の姿である。

つまり、いじめにはいじめる側といじめられる側が存在している。その関係は、社会的立場の優劣や力や能力等の格差によって生じている訳で、例えば、社会的立場や能力の違い、つまり、親子、大人と子供、男女、教師と生徒、上司と部下、健全者と障害者、健康人と病人、身体能力の違い、学力の違い、学歴の違い、経済力の違い、出身地の違い、国籍の違い等々、優劣関係を生み出している社会構造から、必然的に作られる。つまり、立場、能力、力等の格差の違いから生じる強い関係が、いじめの発生基盤となる。

いじめは、日常的に生じるハラスメント(いやがらせ)、差別、人を傷つける行為が、現在の日本の刑法に違反しないぎりぎりのラインで行われている。例えば、上司が部下で仕事上の理由で、部下を叱ることは当然の行為として考えられる。しかし、その部下に対して、個人的な理由、肉体的な特徴を叱るときに持ち出す行為は明らかにハラスメントとなる。

上司が部下を仕事上の理由で叱る行為でも、そこに仕事上の問題、個人的生活、人格上や身体的特徴等を持ち込むことは避けなければならない。上司の人格が叱るという行為に関わってくる以上、ハラスメントはその基本構造にある強い者から弱いものへの力の行使という構造的な 関係だけでなく、人のモラルも課題になるといえるだろう。


 
私怨による暴力行為としてのいじめ

いじめやハラスメントは、力の格差を使って行われる不当な力の行使(暴力)と考えた。しかし、その暴力は国家や社会が法律(悪法)によって行う社会的弾圧や社会的暴力と違い、ある集団や個人が行う私的(集団的)な暴力である。つまり、虐め(いじめ)は、私怨(しえん)によって生じている暴力である。

それにもかかわらず、どことなく組織を管理する人々(多数者)が、組織の秩序を乱す人々(少数者)に対する社会的な制裁のニュアンスを持ち込む。小学校のいじめっ子や会社で部下や女性社員をいじめている上司も、その行為が人間的に許されない行為、他者の人権を無視した行為であるにもかかわらず、どことなく、自分の行為が正義に基づいていると想っているのである。

例えば、男子の上司が部下の女子職員を、仕事上の理由で性的に虐待することは、現在(2010年の日本社会)では常識的に許されてはいない。しかし、その上司が部下の男子職員を、仕事上の理由で虐待している場合でも、それが虐待であると判断されない場合も起こる。と言うのも、企業では新入社員教育制度や業績向上や課長や部長職に就く前の研修があり、厳しい仕事上の注意事項やスキルが伝達される。また、古い世代の上司や役員には、伝統的な男性中心主義の社会制度からくる、男だからキツイ批判を受けても受け止めるのが当然だとする固定観念があるため、仕事上の理由で行われる教育と虐待の違いに相違が生じる可能性もある。

こうした、日本社会の伝統や文化の習慣からくる教育と虐待の境界不明瞭な問題が現実に存在している。そのため、上司も仕事を理由に行う行為は虐待だと自覚していない場合があり、仮に、自分の虐待行為を部下から指摘されたとしえも、理解できないことが起こる。しかし、明らかに職場での訓練や教育が常識を逸脱している場合がある。職場での虐待行為は現実に起こっている。

つまり、虐待やいじめが明確に犯罪行為として社会的に判断されるには、虐待やいじめによる被害が暴力行為の判定を受ける必要がある。その場合、刑法で定められた暴力行為の基準、つまり傷害罪の判定を受ける行為でなければならない。例えば、上司が部下の女子職員に対して虐待をした形跡が、肉体的に明確に証明される場合、つまり医者の診断書がある場合、上司の行為は刑法違反行為・傷害罪の容疑を受けることなる。

しかし、上司がことばで部下の女子職員を侮蔑した場合、その一言をもって、女子職員が上司を裁判や社会に訴える行為が成立することは日本社会では難しいだろう。しかし、日常的に、その上司は部下のある女子職員に性的虐待を行い続けたとする。そして、その女子職員が精神的(神経内科的)に病み、病院に行き、医者やカウンセラーと相談することになり、そのカウンセラーが問題解決のために、企業や労働監督所にその実態を報告し、それでも改善が見られない場合に、その上司と所属企業に対して警察や裁判所に訴えることになる。つまり、個人的な訴えでなく、社会的判断を得る手続きを経て、その上司の行為は社会的に刑罰の対象となる。

言い換えると、私怨による暴力行為としての虐め(いじめ)も、それが社会的に暴力行為であると理解されなければ、社会的制裁の対象にはならない。単に私怨による行為なら、その程度により、傷害罪が適用されるまでは、暴力行為として認定することは出来ない。そうした条件が、私怨によることばや暴力行為を止めさせることが出来ない現状を生み出している。
私怨による暴力を食い止めるためには、法的な問題としていじめを課題にする限界が存在していると言える。


暴力行為と教育・愛による懲罰行為の判断基準

もし、簡単にあることばや力をもつ立場からの行為を暴力として認定してしまうなら、おそらく、上司が部下を叱ることも、教師が生徒を叱ることも、相撲部の先輩が後輩を鍛えることも、暴力と解釈される可能性が生じる。

小学校の教諭が、例えば掛け算のできない子供を集めて罰を与えたとする。その行為は、一般に子供が掛け算をできるようにするための教育活動として理解されるだろう。しかし、その理解は、教諭の選ぶ罰の内容による。つまり、その罰が以下の条件を満たさなければならない。先ず、掛け算のできない子供たちをできるようにするための有効な方法であると評価されること、次に、罰を受けた子供たちが、掛け算をできないことで自分の人格が否定されていないと感じられていること、さらに、その罰を受けることで、掛け算を勉強しなければならないと自覚することができることである。

罰が子供に勉強をしなければいけないという自覚を促すなら、その罰は教育効果を持つと解釈できる。しかし、その罰が、身体的な体罰であり、精神的な苦痛や屈辱を受ける罰である場合には、それらの罰が及ぼす教育効果とそれらの罰が引き起こす身体的や精神的な苦痛を考え、その行為を点検する必要があるだろう。

つまり、教育行為として行われる罰は、それを受け入れる側(子供)のその罰を受ける立場への了解が必要となる。もし、その了解を逸脱する行為であれば、その罰は教える側と教えられる側の立場を使った力の行使と解釈される可能性がある。

家庭で、子育てをする親が子供を叱る、場合によっては体罰を与える。その体罰は、子供に善悪を教えるために行われる「愛の鞭」である。親は子育ての義務として、子供に社会的道徳心を教えなければならない。場合によっては、そのために厳しい折檻(せっかん)が必要となる。厳しい家庭教育と子供虐待の境界線は、親の子供への愛情の有無である。子供への折檻の局面のみで子供虐待と解釈することは間違いである。つまり、親の子供への制裁行為を日常生活のすべての経過の中で理解しなければならないだろう。何故なら、幼児虐待は、子供の生きる権利を奪う日常的な行為として生じている。暴力的行為に及ぶという局面のみで、それを幼児虐待として解釈することはできない。

しかし、子育てに疲れた母親たちが、告白しているように、ストレスを抱えた母親の子供への折檻が虐待と境界すれすれにあることを考えるなら、幼児虐待の課題は、虐待を受ける子供だけでなく、虐待的行為に走ってしまう母親たちの課題をも解決しなければならないことに気付くのである。

特に学校や家庭でのいじめと判断される行為の基準について、明確な概念を設定することは困難であると言える。日常生活の中で行われる教育や育児行為は、場合によっては、いじめ、虐待に変貌する可能性を持つ。その基準は、愛情をもって行われた行為か憎しみをもって行われた行為かという極めて行為者の主観的な領域にまで踏み込むことになる。


日本国憲法で禁止される懲罰

日本国憲法は、平和主義、基本的人権擁護と国民主権(民主主義)を基調にして成立している。当然のことだが、犯罪者を処罰するための法律も、この日本国憲法の基本精神に則して行われる。 

つまり、ある集団や社会が、その集団に利益に反した人々に対して、日本国憲法に違反するような懲罰規定を独自に決め、執行することは出来ない。例えば、村の有力者が、村落の決まりを守らない人に対して、彼らの生活権や人権を奪い取るような懲罰、村八分にすることはできない。当然のことだが、日本社会では、法律違反者に対して刑罰を科すことは国家以外にはできない。

また、組織や集団は、日本国憲法に違反しないことを前提にして組織の懲罰規定を設けることが出来る。例えば、会社であれば就業規則は、憲法、労働基準法に違反してはならない。例えば、就業規則違反者を、牢獄の代わりに会社の倉庫に閉じ込めるとか、懲罰行為として鞭打ちの刑とか平手打ちの刑に処することは出来ない。

しかし、就業規則上の懲罰規定で、会社へ損失を与えた職員に対して最も重い処分として、会社に所属している身分を奪う、解雇処分がある。さらに、会社は民事裁判を通じて、会社に与えた損失の賠償を請求することも出来る。

いじめによって傷害という結果を生み出すなら、現在の日本社会では、その行為は社会的に批判糾弾されることになる。しかし、言い方を変えるなら、格差によって生じる力の行使が法的な手続きをもって成立するなら、それはいじめでも暴力でもないと判断されることになる。


時代、文化や社会に規定されるいじめの概念

私たちの社会に社会的、経済的、能力的、身体的な立場の格差がある限り、より強い者から弱い者への力(肉体的、精神的、社会的、文化的な優越性を強調する行為)の行使は避けられない。すると、それらの格差を使って行われる行為は、ある意味で、社会の構造的関係によって生み出されると考えられる。つまり、社会に格差がある以上、いじめの発生源を絶つことは出来ない。つまり、いじめをなくするためには、社会の格差構造を根絶しなければならないことになる。

しかし、社会から格差を根絶することが可能だろうか。社会に分業が存在し、教育機能が必要とされ、スキルの高いものがスキルの低いものを育て、社会全体を豊かにし、豊かさを持続するために、社会は、能力や経験の豊かな者を優遇し、彼らに責任を与え、その経験を伝達し普及していく制度を作ってきた。その制度に必然的に組み込まれた格差を、いじめの発生源であるという理由から撤廃することは不可能だろう。

つまり、社会的格差一般がいじめの発生源であると帰結することは、これまでの社会発展を否定することになる。そこで、いじめの発生源は、社会的分業制度の維持から生じる教育的な評価、つまり能力や経験の社会的評価と切り離さなければならない。

いじめを格差から生じる「行為一般」から、「不当な行為」と定義し直さなければならない。では、誰が誰に対して不当という判断を下すのだろうかという疑問が生まれる。ここでも、不当という表現を点検しなければならないことになる。再び、いじめを語る場合に、一般的定義を持ち出すことの難しさに出会う。

そこで、いじめは、時代、文化、社会に規定された概念ではないかと考えてみよう。つまり、いじめの発生源は格差を不当に使った行為と考えるなら、「不当」の定義が、時代、文化や社会的状況によって変化しているために、いじめる行為を絶対的な概念軸で定義することが困難ではないかと考えてみる。

つまり、社会は格差を前提にした力の行使を、どこまでを当然、またどこまでを不当であると判断しているかという課題が存在している。この疑問から、このいじめの議論は、「今、ここに」生活している現実の社会状況を前提にしながら考える必要がある。言い換えると、いじめを課題にする議論は、現在進行形の一人称を含む世界、個人がもっている感情や感性を前提にして成立していることを理解する必要がある。客観的な条件のみで、いじめや虐待の存否を判断することは難しいと思われる。

その前提条件で、自分と他者が共に経験した事実に関して、そこで生じている行為が不当であるか否かの判断をしなければならない。不当であると判断する基準は、今、ここで生活している自分と他者の間に成立している共同主観的な了解事項から成り立つ。その基準は、いじめと判断される行為が、社会的に暴力として理解されること、それらの行為を法律的に規制する基準が存在していること、またそれらの行為を社会制度上認可しない風習や習慣が存在していることとなる。つまり、私が自分勝手に、他人の行為をいじめとして定義することは出来ない、その行為を他者もいじめとして了解しなければならないのである。

例えば、戦前の小学校で、悪戯をした児童に教諭が拳骨(ゲンゴン)を食らわすことは日常茶飯事であっただろう。社会で肉体的暴力が当然のように行われている社会では、悪いことをしたらゲンゴンが飛んでくるというのは、愛情や教育上の行為として受け止められていただろう。しかし、21世紀の日本社会で、小学校の先生が、教育上の理由で、戦前と同じ行為をしたら、多分、新聞沙汰になり、父兄や教育委員会からクレームが付き、場合によっては辞表を書かなければならない結果を導くかも知れない。

例えば、悪戯をした児童に教諭がゲンゴンを食らわすという行為が、ある時代には教諭の教育行為として社会的に了解され、ある時代には教諭のあるまじき行為として社会から批判の対象となる。この事実は、いじめを語る場合に、必要となる条件として、その行為だけではなく、行為を解釈し評価する社会文化的環境も、その行為がいじめなのかそうでないのかの判断基準になっていると言う事である。

つまり、いじめに関して語る条件は、今の社会文化的環境でのある行為が、いじめという暴力に相当する否かの問題となるということである。学校で、子供の社会での嫌がらせやことばによる差別などの行為を、目に見えない暴力として解釈するかどうかを議論しておかなければならない。それぐらいのことは問題でないと考える人々がその議論の中心なら、子供社会での嫌がらせは子供の自然な行為として了解されるだろう。しかし、ことばによる暴力も肉体的な暴力と同じように人権を侵害する行為であると考える人々がその議論の中心にいるなら、いじめは暴力として解釈され、いじめを防ぐ対策が講じられるだろう。

いじめという暴力に対する集団や社会的な理解、共同主観的な了解事項を問題にしない限り、いじめの問題は観えてこないとも言える。ある行為を「いじめ」、つまり暴力として判断することは、その社会が持つ人権意識によって決定されている。

戦後社会が戦前よりも人権意識が向上し、肉体的暴力は勿論のこと精神的暴力、ことばの暴力、プライバシーの侵害を人権問題として考えるようになって、戦前や戦後に何となく許されていた「嫌がらせ行為」が、今日の社会では、人権を侵害する許されない行為として社会的に評価されはじめたのである。民主主義や人権の社会思想が人々の生活の営みに浸透し、人間関係や人の社会的行為の基本的基準となることによって、いじめへの社会的対応が可能になるのである。


いじめを生み出す歴史的文化的な社会の構造


「いじめ」に混入する社会的制裁のニュアンス

「いじめ」は私怨によって生じている暴力であるにも関わらず、いじめ(虐め)と関連する他のことば、例えば「排除する」、「戒める」、「懲らしめる」等々、「いじめ」には処罰的意味合いが含まれている。つまり、処罰的意味には、つねにある決まりに基づいて、指導する誰かが指導される誰かに対して、ある理由つまり教育的行為や社会的規範に従った行為として、発動されるというニュアンスが付着しているように思われる。

社会的処罰的意味は、つねに社会や共同体的決まりから発動される、秩序を乱す者への戒め処罰というニュアンスを持つ。つまり、もし「いじめ」が「戒める」という意味を含んでいるなら、同時に、また暗黙の裡に(うちに)共同体の秩序を乱す者への懲罰を意味し、その上で、「いじめ」がその正当性や存在理由を主張しているように思われる。

では、なぜ個人的な私怨(しえん)や妬みから発生した「いじめる」という行為が、社会的な制裁のニュアンスを漂(ただよ)わすのだろうか。そして、極めて個人的な負の感情がどのようなカラクリを使って「社会的正義」の紋章を付けることに成功しているのか。それらの疑問を解明し、その原因を知る必要がある。その疑問を紐解くために、まず「いじめ」から連想される言葉を考えてみよう。

 
中世の村落共同体の秩序維持機能としての村八分

例えば、「村八分」という言葉がある。村八分は村の多数者がある少数者へ行う制裁行為であり、その制裁行為が強い者(多数者)によるよわい者(少数者)への行為と解釈される。その限りにおいて、村八分は「いじめ」と同じように集団からある人間を排除し、人間としての権利を奪い、名誉を剥奪する行為であると解釈されるだろう。その行為の現象面から観て、村八分といじめが同次元の行為、同義語として理解されることになる。

村八分は中世日本社会、取り分け村落共同体で行われていた共同体の秩序維持のための慣わしであり、村民は村の長(おさ)の私怨によって村八分を受けたのではなく、村の秩序を破壊したために、二分の権利、葬式と火事に対して村の協力を得られる権利を除いて、村の八分の権利を失うことになったのである。中世社会の村落共同体の秩序を維持するための掟が村八分であった。

この村八分は、国民の概念が成立する以前の社会、つまり国家としての社会的規範(憲法)が成立する以前の社会に存在した社会的規範の一つである。

中世前期(平安末期~鎌倉中期)までは、民衆(百姓など)の生活を維持管理するための法律、国家的な法令はない。当時の律令(法律)は公家や武家に対して定められた法令・公家法・本所法・武家法など支配者により定められたものしか存在していなかった。そして、民衆に対する司法権・警察権の行使(検断沙汰)も支配者である荘園・公領領主や地頭武士に限られていた。(Wikipedia)つまり中世前期の社会では、法度(法律)は支配者階級のための決まりであり、彼らが領民を支配、管理するための規則であった。

鎌倉後期ごろから室町前期にかけての中世日本社会の村落共同体では、強い自治意識と連帯意識に支えられた惣村(そうそん・多くは地縁的結合によって作られる共同組織)を形成する。その惣村では惣掟(そうおきて)と呼ばれる村落共同体での掟(おきて)を独自に作った。

惣掟とは、中世日本社会での百姓の自治的共同体である惣村において、その共同体の秩序を維持するための掟とそれに違反するものへの制裁を惣村の全構成員による寄合(よりあい)で決議したものである。そのため、惣村構成員に惣掟は厳しく適用された。特に、共同体秩序を崩壊させるような行為(窃盗、放火、殺人など)に対する罰則は、ほとんどの場合、死刑とされた。
つまり、中世前期の日本社会では、現代のように国民全体に適応される憲法や刑法があったわけではなく、村民は村の掟を独自に作り、その掟に従って村の維持、運営、管理のための政(まつりごと)や治安を行っていた。その意味で、村八分はこの惣掟の中に含まれる共同体独自の刑法である。

中世社会では、国民という概念がなく、封建身分制度社会の秩序を維持するために律令(法度)しかなかった。そのため村落では惣掟の制定以来、村独自に掟が定められ、それに従い、村の秩序に従わないものを処罰し排除してきた。村八分という制度は、村落共同体の十の共同行為の中で、葬式と火事以外の結婚式、出産、病気の世話などをしないという習慣を示すものである。江戸時代では、村八分にあったものは村落共同体で共有する土地の使用も禁止されるために、共同山林での薪炭(しんたん)・用材(ようざい)・肥料用の落葉の採取が許されず、事実上生活が不可能になる。

つまり、村八分は、中世の村落共同体で成立していた掟に従って執り行われた刑罰の一つであり、その目的は村の秩序維持であった。村落の掟を破る者に対する処罰として村八分は機能していた。


近代国家の中で存続していた村八分的処遇

江戸時代まで続く藩政では民衆は藩主の所有であり、勝手に藩から出ることは許されなかった。しかし、明治時代になり、明治の近代国家の成立によって民衆は天皇が治める大日本帝国の臣民となった。すべての臣民は大日本帝国憲法を守る義務を負うことになる。

つまり、大日本国憲法に違反する村の掟の存在は許されなかった。大日本国憲法がすべての村落共同体の規範より優位に位置することになる。憲法の基に刑法が制定されることによって、中世社会から存続していた村八分による村民の刑罰は禁止されることになる。換言すると、法治国家では、村落独自の刑法は存在しないため、村八分行為は憲法及び法律違反となる。

しかし、戦前の社会には、中世社会から続く地主制度が存続し、封建的社会観念の土壌は根強く存続した。そのため、村落共同体の掟に反する者に対しては、中世社会の村八分のように生存権を脅かすものではなかったにしろ、共同体の行事に参加できない村八分的な差別待遇の処罰が適用されていた。地主と小作人の関係に見られる封建社会の制度が続く戦前まで日本の農村社会では、村八分の習慣は根強く残存していた。

戦後民主主義社会になっても、村落の決まりを守らない人が出た場合、それらの人々を村の有力者が処罰することが出来るという考えが残存していた。例えば「2004年の新潟県関川村(せきがわむら)で村の有力者が「お盆の行事」に参加しない人たちを村八分にすると発言した事件は裁判にまで発展したことが記録されている」(Wikipedia)現在では、それらの村八分の習慣は、村の有力者による脅迫や人権侵害として法律上認められていない行為であると理解されている。

つまり、上記の事例から、村八分の伝統、村の秩序に従わない者は村八分にすることが出来るという意識は、つい最近まで、21世紀の日本社会でも存続していたと言える。


民主主義国家の理念に反する行為、人権侵害としての社会的排除行為

社会秩序の維持機能としての中世社会での村八分を、現代社会で古き伝統を守る村落共同体でも行うなら明らかに法律違反となる。中世社会では、民主主義社会や国民主権国家は成立していない。そのため、村の掟が村民に適用されることに対して、その是非を問う社会的機能(司法制度)はない。村民の同意が村の掟とその執行を決めていた。

しかし、現代社会では、憲法がありそれに基づく刑事訴訟法や民事訴訟法があり、訴訟された罪状を法律に基づいて認否評価する司法制度があり、個人への刑の判断と執行が決定するのである。

当然ながら、団地の集まり、自治会、学校、クラスでもし村八分が生じるなら、その村八分こそ基本的人権を守る日本国憲法に違反することになる。いかなる集団も勝手に人を罰することはできない。それらの集団が集団構成員に対する懲罰規定を作るなら、その条項は法律違反をしていないか国家によって検証される。

例えば就業規則での罰則規定に関しても、労働基準法に触れないか労働監督所によって点検される。もし就業規則(罰則規定)が法律違反と判断されるなら、直ちに就業規則改善命令が企業に出されることになる。

民主主義と国民主権で運営される現代社会では、どのような理由があっても村八分や法律を違反した社会的排除行為等、集団独自の懲罰行為は、人権侵害とされ、日本国憲法違反となることは言うまでもない。

そして現在、いじめという行為に含まれている古い村落共同体の慣習、集団的制裁のニュアンスは次第に喪失しつつあると言える。







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