2010年11月11日木曜日

生きること知ること

三石博行


知ることは変わること

サルトルは「知ることは変わることだ」と言った。思想的理解によって、これまでの生活を変え、新しい生き方をした人々、維新、社会改革運動、革命運動に身を投じた学生や知識人たち、その殆どが、貧しさや生きる困難さから運動を起こした農民や労働者階級の人々とちがい、書物の上で、正義や友愛について学び、考えさせられて上で、これまでの生活を変え、新しい生き方を選んだのだった。

思想は生活スタイルを変える力を持つ。その思想を自己の理念とするとき、思想が生る方向を決定させ、その後の生活を変えさせる。つまり、その考えを本当に知ることによって、人は人生を変わること出来るのである。

自我に目覚めた我々は何らかの「理想の自我」を持っている。それはあこがれ、未来、ゆめ、希望、目標と呼ばれているものである。ひとが希望を持ち、その彼方に向かおうと努力するのは、自我の自然の姿である。言い方を変えれば、全ての人に、希望という心は平等に与えられている。希望を持っているということは人のあるべき自然の姿に過ぎない。

つまり、意識的な自己存在(自我)とは、現実にある自己でなく、希望された自己である。その希望(幻想)に向かって生きることが、自我の自然の姿である。

思想は、その意味で、自我にとって、自我の目標(幻想)を語る具体的なテキスト「自我の理想」である。つまり、新しい思想を必要とするとは、過去の思想を不要としていることを意味する。

まるで、恋人(自我の理想)に出会ったように、新しい思想は登場する。そして、今までの自我のテキスト(目標)、理想の自我は、新たに登場した思想(自我の理想)によって書き換えられてします。その瞬間を「(自我の理想の存在を)知ることは(古い理想の自我が)変わること」だと呼んだ。

つまり、新しい「自我の理想」、それは恋人のように恋の対象として登場するように、学習活動(読まなければいられない本のような)として登場し、書物から飛び出てくる一言一句を、釘付けになり、感銘し、震えながら受け止める。その瞬間に、自我の理想は、これまでの理想の自我のテキスト、自己の物語性を書き換える。それはまったく恋人に出会った瞬間のように、そしてその恋人のことを寝ても覚めても思い焦がれるように、恋い焦がれる激しい感情を通じて、新しい「理想の自我」が確立する。

そして、過去の理想(過去のテキスト)は丁度、古い恋人の手紙や写真ように、机の奥に仕舞い込まれる。


生きることは知ること

新しい人生の目標に向かって生活が始まる。多くの人々が経験したように、以前の生活(仕事や学業)を辞めて、新しい生活(仕事や勉強)を始めることになる。新しい生活環境や学習課題に挑戦する毎日が続く。その途(みち)は決して容易い訳ではない。新しい仕事や学習への挑戦には、必ず多くの失敗が伴う。失敗(躓き)を繰り返しながら、前に進むしか、もう途(みち)は残されていない。

ある希望を実現するために、新しい課題に挑戦して生きている時、失敗をしたとしても、それを反省し、分析し、失敗の原因(失敗の原因となる誤った考え方などの「からくり」と失敗の原因となった条件や外的な「要因」)を解明する作業が続く。つまり、我々は、目標を持ち、それを成し遂げようと努力している限り、失敗の経験に学ぶことが出来るし、また他人の経験も参考にしている。希望をもって生きることよって、多くことを学ぶことになる。

挑戦することによって、新しい経験データを得ることが出来る。それらのデータから最も効率のよい技能、行為、操作や判断が抽出され、経験則や経験知として保存される。それらの知識群によって、現実的で実践的な知が形成される。

生きること、問題を解決すること、挑戦することこそ、新しい知識を獲得しなければならない必要性の源となる。知る必要性に迫られた内容が、人によって、人の生活環境によって、人の時代文化によって、異なるであろうが、いずれにしろ、人は生きている限り、何かを知り続けなければならないことは避けられない。





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