2010年11月10日水曜日

現実則で機能する社会契約型の自由・民主主義社会の行動ルール

人間の本来の姿「万人の万人に対する闘争」状態

自由とは、ホッブスの展開した「万人の万人に対する闘争」状態の理解から、自己や社会を安全に維持するために生み出された考え方と制度であると言える。言い換えると、闘争状態のエゴ丸出しで自分の欲望を満たそうとするフロイト的に言うと快感原則での自由から、社会契約上で成立する現実則での自由がある。社会的規範を守ることで与えられる自由が民主主義社会で定義される自由という概念となる。

人の精神活動の基本は欲望で動いている。その欲望の力で生命を原始的に維持している。そのため、人は自己中心的存在から逃れることはできない。もし自己中心的でないと自称したとしても、また別の視点からそれも自己中心的なのである。

換言すると、人は本来エゴイストでありナルシストである。そのエゴイズムとナルシズムの精神エネルギーを使いながら生きている。つまり、自己を表現するために、自己であろうとするために、エゴイズムやナルシズム的に行動することは避けられない。

自己表現と呼ばれる自由さをもつことで人は人としての在り方(個性)を獲得しているのである。個性のない人がいないように、そのエゴイズムやナルシズムを完全に断って生きることも生活することも行動することも出来ないのである。その意味で、エゴイズムやナルシズムを全面に肯定した人間の自由を快感原則 的自由と呼ぶことが出来るだろう。

しかし、この快感原則的自由を求めて行動することは、「万人の万人に対する闘争」状態を生み出すことになる。つまり、人々は自分の自由を得るために他の人々と抗争し、場合によっては殺しあわなければならなくなる。

「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)


結果的不利益を導く「万人の万人に対する闘争」結果

そのため、自分の自由を認めてもらえる方法(現実則)で、自己主張する技術を身につけることになる。その方法の一つに、他人の自己主張を聴いてやって、その後で、自分の言い分を話すというやり方である。

つまり、自己のエゴ(自我や欲望)を認めてもらう明確な目的(戦略)を持って、戦術的に他人のエゴを認める。その場合、自分のエゴがあくまでも抹殺されない範囲を指定しておかなければならない。

もし、相手の言い分をすべて聴いてしまい、自分の言い分を何一つ聴いてもらえなかった場合には、明らかに相手の言い分を聴くという最初の戦略(目的)が達成できない状態になり、相手の言い分を聴くこと(戦術)は失敗したと言えるだろう。それでは、次に、相手の言い分を聴くという戦術を取ることが否定され、真正面に相手とやり合って、相手を力でねじ伏せても自分の言い分を通すという手段に出るしかなくなる。

つまり、二人がお互いの力関係によって、それぞれのエゴを認めある交渉を続けるなら、そのために二人が必要とする労力や時間は大変なものになる。それは、値段の決まっていない品物を市場で売り手と買い手が一つ一つ話し合い(時には怒鳴りあい)をしながら売買する光景に近い。商売している側から言えば、一人ひとりに売るたに必要な時間を考えていたら、商売にならないと判断し、その市場に行くって品物を並べるのを止めるだろう。

すると、市場に行って品物を買っていた相手もその日その日の生活に必要なものが手に入らないので、結果的には困ってしまうことになる。


現実則で機能する自由行為「社会契約に従った万人の万人に対する闘争」ルール

そこで利害の対立した両者のエゴ間の闘争(対立)を緩和する制度が社会に必要となる。そうでないと両者とも不利益を蒙る(こうむる)事態になる。何故なら、社会で生きる人々は、社会という制度の中でお互いそれぞれの役割を持ち、自分の役割を果たすことで他者が果たしてくれる役割の恩恵に与る(あずかる)ことが出来るからである。

快感原則で機能する自由行動では、目先の利害の対立を生み出す。そこで、現実則で機能する自由行動を考え出した。つまり、お互いのエゴを調整する取り決めを個人的な関係でなく、社会的関係として成立させる。その取り決め(社会契約や社会規則)に即して、二人の間であろうと数人の間であろうとお互いに行動する。その取り決めを守る以上、致命的な対立が生まれない。

もし、致命的な対立、つまり双方が譲れない状態になった場合にも、社会的規則と制度によって、双方の言い分を聴き、判断する法律と制度(司法制度)を作ることになる。社会契約とは、人間の行動に現実則で機能する自由の枠組みを与えるために創られたものである。

つまり、万人と同じように自己も万人に対してつねに闘争状態である存在であることが人間の自然の姿である。その自己のエゴを自覚すること、他者のエゴと共存する手段(社会規範)を受け入れ、無秩序で危険な闘争状態を避けて、安全でルールに従った闘争状態(市場経済や自由競争)に参加する。そのことによって、結果的に、より安全に、そして自分の主張を相手に解りやすい手段で納得させる方法が獲得できる。そして、競合している他者と共存することも可能になるのである。

社会契約上成立する自由行動とは、現実則で機能する自由行為である。それは、丁度、剣を竹刀に変えて、闘うルールを見つけ、お互いの剣の強さを事前に理解することで、真剣での無謀な切り合いを避けている武士社会のスポーツ化した戦場ルールのようなものである。

社会的な混乱を避け、自己が他者の自由を認め、他者にも自己の自由を認めさせるための第三者機関による基準作り(社会契約)を行い、その基準内での自由を自他ともに承認しあることで、民主主義社会は成立している。

「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)






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