2010年10月21日木曜日

新たな世界認識の始まり・二元論的世界から確率論的世界へ

三石博行


認識の風景としての二元論的世界

二項対立的世界や二律背反の世界とは、二つの対立要素をもって存在している事象や現象を説明する方法である。

この二項対立的世界の説明は、ある意味で、非常に理解しやすい「世界」の姿である。現代人が判断の基盤にする科学的合理性も、17世紀以来、この二項対立的世界観を活用しながら、展開してきた。二元論的に主観と客観を分離し、個人的で主観的解釈を観察という主観的行為から出来る限り排除するために、客観的基準を作った。それで近代の科学は生まれ、現代の科学まで発展した。主観と客観という分離が無ければ、科学は生まれなかっただろう。

また、古代社会以前から二元論は存在している。例えば、天と地、神と人間、無限と有限、善と悪等々。

つまり、二元論的世界はある意味で人間的精神活動のある典型を示す。事象パターンを明確にする、つまりパターン間の差異として生じている認識の構図の原型として、二元論的世界は登場している。それは極めて明瞭な世界了解の道具(言語)のように思える。そして、それ故に、古代社会からこの世界の了解の道具として二元論は使われてきた。


ポスト近代としての確率論的世界

17世紀にパスカルが確率論を提案する。その場合にもある一つの事象は存在するか(起こるか)それとも存在しないか(起こらないか)二つのケースで登場する。つまり、確率の世界も在るか無いかの二つに一つが選ばれる世界から成り立つ。

この確率場を前提にして20世紀の初めにボルツマン統計力学が生まれ、さらに20世紀後半にコンピュータの助けで統計学が飛躍的に発達した。統計学的な相関係数や回帰分析の考え方を利用して、幾つかの要因が相互に関連する強さを求める計算技法が生まれ、それらが意思決定論、制御理論、またはデータマイニングなどに活用され、人々の科学的思惟の在り方は、21世紀に入って、演繹的方法から帰納法にシフトしはじめた。

哲学も主観と客観を明確に分離する近代合理主義から、間主観性や共同主観性を問題にした現象学、多極性を前提にして分析を行う機能構造主義、つまり関係としての存在の理解、さらに吉田民人が述べるプログラム性(情報と資源の自己組織性の世界)と、変遷の過程にある。

現在進行している二元論から確率論的世界観の進化は、世界認識や科学のあり方が変化しつつあることを示し、最終的には、人間社会のあり方や人々の生活や社会観念の変換を導くだろう。


確率論的な世界観と二元論的世界観の衝突

確率論的な世界観と二元論的世界観は衝突を起こしている。

現在、我々は、二元論的世界観(二項対立の世界観)と確率論的世界観の二つの世界了解のあり方で議論されている世界に住んでいる。

二元論的な分類、例えば、失敗か成功か、善か悪か、正しきか誤りか等々という、分かりやすい表現がある。

しかし、失敗学の著者畑村洋太郎教授によると、失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。

この畑村式の考え方で悪を定義すると、悪とは人間が関わったひとつの行為の結果がその影響を受けた状態に対する評価が望ましくない結果や期待はずれの状態を含むことを意味する。

また、同様に、不正とは人間が関わったひとつの行為の結果に対するその公平さに関する評価が望ましくない結果や期待はずれの状態を含むことを意味する。

例えば、日本の天気予報では、明日は雨ですとは言わない。明日の雨の確率は20%ですという。つまり、天気予報では、確率論的表現が常識化しつつある。

二元論から弁証法へ、そしてシステム論的解釈へ

人間が世界の概念を二つに分けるのは、まずその世界の構成を理解しやすくするためである。ある行為の結果に対して「善でもない悪でもない」とか「善の部分が20%で、悪の部分が40%で、不明部分が40%である」と言われても、ぴんと来ないだろう。

世の中のこと、例えば今、世間で善悪の問題として取り上げられていること、例えば大阪特捜部の証拠物件の改ざん事件であれば、まず、Mさんが悪いことになる。

その前提条件で、特別な権限を持っている特捜のあり方が批判される。それから特捜廃止論の意見まで出され、それから、それでは、これからの権力犯罪や企業犯罪の防止や摘発はどうなるのかという意見が出され、そして、これまでの特捜が担ってきた役割の再度評価がなされ、どうすべきかと議論が繰り返し行われる。

善悪の極論、二元論的解釈は、極端な解決方法を導き出す方法である。しかし、現実は、複雑であり、極端な解決方法を望まない。そのため、二元論的議論は、それから導き出される結論の反論を必ず用意しなければならない。

つまり、弁証法とかシステム論的展開と呼ばれる解決への否定や肯定、批判や反批判の運動は、二元論的要素が相互に検証活動することによって生まれた姿である。二つの立場から導かれる行為や結論に対して双方の視点から望ましくないことを指摘しながら、その二つの妥協点を模索する活動である。


参考資料
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、





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