2010年8月31日火曜日

哲学的探求の宿命

三石博行


哲学が形成した萌芽的な科学思想によって生み出される新科学によって、伝統的哲学は駆逐されてきた

「考える」行為によって形成される知識は、人類の歴史の中では、哲学と呼ばれる学問の形態を始め取りながら、そして哲学の中の一つの分野でありながら、それらの知識は哲学から専門分離し、哲学の領域からそれらの知識に関する特権を奪ってきた。

例えば、存在論は哲学が始まった以来の古い哲学の大きな一つの分野であり、宇宙や世界の物質的存在の基本要素から天体や地上の運動物体の説明に至るまで自然哲学の分野の課題であった。

それらが自然神学や物理神学の分野になったとしても、基本的には宗教哲学の分野に属するものであった。そして、17世紀のデカルト、パスカルやニュートンの物理学の形成を通じて、それらの学問の発展の結果として、新しく形成された力学がギリシャ以来の自然哲学の理論を駆逐して、哲学的存在論から自然科学的存在論へと変換を行うのである。

19世紀終わりから20世紀の始めに掛けて、認識活動の自己分析によって形成される精神現象学や認識論も思惟主体の意識分析という方法を取る。認識活動を実験心理学、動物心理学や脳神経生理学・脳科学や認知科学によって研究する中で、上記したように、認識論はそれらの科学に乗り越えられてゆき、思弁的方法において認識過程を解明する有効性を失うのである。

その場合にも、論理実証主義のマッハにおいても、パターン認識の課題は哲学的課題であった。人はどのように世界を観ているのか、人はどのように対象認識をするのかという伝統的に哲学が検討して着た課題であった。それらの課題を、物理科学者であり大脳生理学者である彼が科学的経験主義や論理実証主義で分析的にパターン認識のメカニズムを解明しようとするとき、これまの哲学的な思弁的思惟回路から実験科学的、論理実証的な思惟回路に認識過程の研究や解釈は変更展開され、そこに新科学、大脳生理学や認知科学が形成されるのである。

一度、認識過程に関する科学、大脳生理学・脳科学や認知科学が形成されるとき、もはや、認識過程を哲学者が思弁的に議論する余地を失うのである。哲学者は哲学が形成した新実証主義による新たな科学、認知科学によって、哲学的認識論の有効性を失い。認識問題を語る権利を失うのである。


哲学は新たな科学性を生み、そこらか形成あれた科学は哲学から知の領域を奪う

これまでの哲学、経験主義、実証主義、史的唯物論(マルクス主義)などが形成した新しい科学、社会学、経済学、生理学などによって社会現象や生命現象をめぐる哲学的議論は消滅したように、現代哲学の最後の砦、主観的世界の認識活動でも、例えば現象学や構造主義・ポスト構造主義によって展開する言語学、精神分析、文化人類学など20世紀を代表する科学によって、主観的世界に関する哲学的な議論は消滅する運命にあると謂える。

つまり現代哲学によって創造された20世紀の科学、人間社会科学によって説明される主観的世界の関与する現象の明晰判明な説明によって、それまで直感的に語られてきた哲学的説明は、その思弁性や曖昧さを理由に消滅する運命にあると言えるだろう。

言い換えると、主観世界を課題にする現代哲学は新たな人間学を提案し、その人間学が哲学的な主観世界の認識に関する議論を乗り越え、哲学からその議論の権利を奪い取るのである。

それが、謂わば、歴史的に知の分化を促し、知の専門化の原動力となってきた哲学の宿命であるとも謂える。


生きる場の知としての哲学

哲学は新たな科学を生み、その科学は哲学から知の領域を奪う哲学的知と科学的知の展開過程が歴史的に存在し続けるなら、哲学的知は、今後、主観的世界の認識領域に関する探究活動からも排除される運命にあると言える。

つまり、知識の専門化、科学化が進化すればするほど、哲学は限りなく領域を狭めることになると謂えるのである。そして、いつか哲学は知的世界から消滅するのではないだろうかと思われる。

哲学が知の専門性から排除される理由に、本来の哲学の知のあり方が関係していることを理解しなければならない。それは哲学は知の体系を目指す学問ではなく、体系的知の検証と批判の契機を与える知であったということである。

最も哲学らしい学問を決定付けている公理としてソクラテスの「無知の知」やデカルトの「コギト」を持ち出さすまでもなく、哲学と呼ばれる学問の基本公理には、ある知識を疑うといい知のあり方が存在していた。

その意味で哲学が知の体系化に進む科学的知の進化の方向とは逆に、知の単純化を目指す生活世界での直感的知あり方を目指す。つまり、体系でなく直感として生活主体に生きる知のあり方を目指しているのである。

その意味で、哲学的知を科学的知に比較して、これまで直感的に新しい世界観の基本となる批判的知を提起し、その体系化を確立した科学的知と同じ評価を求めることが間違いであることに気付くのである。哲学的知は、生きる生活の場に根拠する直感的な知、批判的な知、反省的な知、そして生と死を同次元に見つめる実存的知なのである。

哲学的に知ることは自らが変わることを意味するのはそのためである。





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現代哲学の新たな地平 プログラム科学論

三石博行


現代哲学の存続条件 主観的思惟世界の認識活動

哲学的知を他の科学的知と同様に対象認識の知として競い合う以上、数学的解析方法、統計的調査方法も実験的実証方法もない哲学的知が他の科学、自然科学や人間社会科学に対してその有効性を競い合うことは出来ない。

つまり、自然科学や人間社会科学のような対象認識に関する厳密な方法論を哲学は持たない。すると哲学はどのような有効な思惟活動、技能、方法を持っているのだろうか。もしあるとすれば、唯一、他の科学分野の方法論に決定的に不足する思惟形態、つまり、対象認識を行う主体の意識分析に関する反省的思惟である。

科学が論理実証的存在論において勝利を収めたその時から、つまり、哲学が存在論的領域から追放されたときから、哲学は新たな領土を獲得する旅に出ることが出来た。それは科学が絶対に踏み込めない世界、思惟する主体への点検活動という、対象認識でなく主体認識の世界である。


現代科学技術文明への批判学

現代哲学の存続条件は、現代科学技術文明社会の動力である科学的知への批判者、それは反科学的な批判者でなく、科学的知が必然的に持ち込む観察主体の固定化に対する点検活動にあるように思われる。

と同時に哲学を支える新しい科学の領域が生れる。それは主体、もしくは主観的世界のあり方を理解する科学である。例えば、心理学や精神分析がその典型となる。つまり、現代哲学は、またもやその存在領域に侵入する科学・主観世界の人間学を提案しながら、現代科学技術文明社会での新しい役割を主張する。


現代哲学と新たな科学・人間学の形成

現代哲学が切り開く主観世界の点検活動、その活動を支える新しい科学・人間学への影響、つまり人間学の科学認識論の確立のための知的活動が現代哲学の課題となっている。

大きく哲学的関心は変更される。つまり認識論的関心は自然学の王者物理学より、20世紀以後に形成された人間学へ、存在論的関心も物理現象的存在論から、自己組織性の生命や社会現象を生み出す資源的存在へ、つまり吉田民人の進化論的存在論へ、哲学の流れは、現代科学技術文明時代のイデオロギー的存在の暴露やその機能構造分析に、そしてそれらのすべての情報資源の現象を司るプログラム的存在様式の分析、科学哲学への変換されていくのである。




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現代哲学の意義を問う

三石博行


- 現代哲学の問われるその存在意義について- 

20世紀後半までどことなく信じられていた哲学の存在意義、つまり「哲学はすべての学問の基本であるという理念」は、この20世紀になった急激に消滅しようとしている。

哲学的知は何に対して有効なのだろうかと哲学研究者は問いかけられ、その答えを見つけるために模索し始めている。そして、哲学は哲学という古い学問の歴史、つまり哲学史になったと言う人もあれば、哲学はかっこいい教養であるという人も現れて可笑しくない時代になった。

もっとも哲学者を危機に追い込んでいるのは、哲学科の学生が減ったことである。大学の文学部で、現在、哲学科を選択する学生はいるだろうか。殆どの哲学研究者が将来の大学の職の可能性を信じて研究しているだろうか。

そうした世俗的問題としても、哲学的知の有効性が問われ、哲学的知の存続の危機が、まずそれを育ててきた大学文学部哲学科で起ころうとしている。形骸化し化石化した哲学的知に対する興味が薄れ、その学問領域が風化消滅しつつある。

その理由は、哲学的知が現代社会の基本的知の体系に対して影響を与えるものでなくなったという現実から来ている。例えば、中世までの哲学研究で行われていた存在論や自然哲学は、それ以後、自然学、物理学に進化した。その意味で、中世哲学的な存在論は現代哲学の課題では無くなったと言える。

また、20世紀の哲学がその存在意義を主張してきた認識論は、脳神経生理学の発展や認知科学の進歩によってその存在意義を失いかけている。認識問題を哲学的な思惟活動の中で反省的に理解する以上に、認知科学的研究は認識過程や認識メカニズムを明確に示してくれる。脳科学研究から逆に哲学はこれまでの認識論を検証される形になっている。そして、脳科学からの哲学的認識論の批判的点検は、そのまま哲学的認識論の存在意義を問いかけていることを意味しているといえる。

哲学は正しく不要の学問になろうとしている。それが現代科学技術文明社会の形成がもたらした古い学問への徹底的な有効な知性様式を問う淘汰の大波の姿である。

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私の研究活動について(2)

三石博行


研究活動とは何かという課題は研究行為の主体と不可分の関係にある。そのため、人によって色々な研究活動のスタイルがある。ここで問題にしている研究活動は私の生活空間的、時代的や社会的制限をもって成立する極めて特殊な行為形態である。そこで、常に「私にとって」という限定形容詞を「研究活動」という名詞に付けることにした。

私の研究活動を一言でいうなら、生活活動の中で抱えた込んだ課題に関する探究活動であるといえる。 私はその研究課題を大きく三つに分けることができる。

一つは自分の生き方や考え方を問題にする哲学的研究課題である。
二つ目は、具体的な社会問題から提起された課題で人間社会科学研究と政策課題となる。
三つ目は、上記二つの研究活動を進めるために問題となる研究方法や研究会活動に関する課題である。




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2010年8月30日月曜日

私にとって研究活動とは何か

三石博行


はじめに

ホームページの課題「研究活動」を書くために、何故、私が現在の研究活動を始めたのかという経過を書かなければならなかった。

私の研究活動は、大学人と呼ばれる大半の人々とは異なっていた。普通はいい日本の大学を出て、大学院にそのまま進み。教官(恩師)の指導を受けながら学術論文を書き、それを学会に発表し、その実績を積み重ねながら大学の職を得る。これが最もオーソドックスなコースであった。

私はそれらのコース(道)に何一つ当てはまらない人生を歩いてきた。私にとって哲学は自分のためにあった。しかも、その哲学を大学の講義で教えられるようになったのは、今年になってからである。つまり、日本で教鞭を取って16年目に哲学の入り口の入り口、つまり哲学らしく講義できる科目を持った。

しかし、その科目で、哲学らしい授業をしようとは思っていない。それよりも役に立つ「失敗学」を教えるほうがいいと思っている。

私の研究活動の全体的構成を問いかけるため、点検するためホームページをつくることにした。それはこれまでの私の生き方の反省をすることによってしか進み得ない作業であった。

そして、恥ずかしい私の失敗と挫折、誤りと不詳の人生を曝け出すことから始めなければならなかった。



社会に貢献する科学者を夢見た少年時代

私の小学生の時代の夢は、1950年代当時の多くの少年たちと同様に「世の中のためになる発見や発明をする自然科学者」になることであった。戦後まもない日本、資源の少ない日本では工業化によって国を豊かにすることが社会的コンセンサスとなっていた。豊かさをもたらすものは工業化であり、工業化を可能にする力は科学技術であり、その科学技術を発展さす力は理工系の技術者であり、理学系の科学者であった。多くの小学生と同様に、私も多くの人々が新しい科学技術の力によって豊かになることを夢見ていた。

高校時代にベトナム戦争があった。戦争報道の映画を観てショックを受けた。そして大学で理科系の学科に進んでから、その戦争で使われている兵器開発に科学技術が使われていることを知った。また、水俣病などの公害病の発生の責任を科学技術は避けて通れないと思った。科学研究への憧れとそれへの批判が交差し合っていた。

卒業研究で選択した実験物理化学から、水素結合の分子間相互作用を研究するために理論化学の分野への移行を試みた。それは科学研究の方向と私の能力においても失敗であった。高度な数学能力は大学時代そう訓練を受けていなかった。私が研究を始めるために選んだ研究室の理論化学は理論物性物理学の一分野であった。総合的な化学分野の専門教育を受けた私にとって、数理物理学を理解しなければならない理論化学の分野への転向は困難であったと同時に、実験科学的世界とかけ離れた今日謂われる計算機科学の世界、分子モデルの計算(シュミレーション)を行う世界であった。


科学研究の道への挫折と社会運動としての科学技術論活動(安全センター活動)

その理論化学への挫折と当時の大学で持ち上がった社会問題・「大学の理工系学部の実験系研究室から流される有毒物質、おもに実験廃棄物の垂れ流し」問題が新聞に記載された。実験系の研究室ではその対応に追われ、大学は社会に対してその対応を即刻しめさなければならなかった。になった。そして、大学での教育研究活動が生態系汚染を起こしている事実を農学部の「災害研究会」が指摘し、学内での討論会が起こった。

私は科学研究をやめることの口実を得た。それは「科学技術の発展は必ずしも人間社会の利益と繋がらない」という結論と人間社会に貢献する科学技術とそうでない科学技術があるのかという疑問がわいた。

当時、流行っていた武谷三男や星野芳郎の科学技術論を読みながら「科学のイデオロギー」を友人たちと議論した。中国の文革運動から生まれた新しい技術運動、例えば三廃運動などに関心を持ち、公害物質は労働から作られる非交換価値的生産物であると考えた。公害物資は疎外された労働の形態という考え方である。

その公害物質にさらに労働力を加えること交換価値を持つ商品に変換することができる。公害物質の発生は労働過程にある。つまり、労働によって本来価値を持つ商品への変換過程が存在可能になるが、その過程が疎外される。公害部資質は非交換価値生産物である。資本主義生産様式の労働過程を解決することで公害問題への解決の糸口が見つかる。つまり、公害は資本主義生産様式の典型として生じる」と主張した。大学新聞にそんな主張を載せながら「京都大学安全センター」を工学部機械自主研の友人達と呼びかけた。

学生運動は「はしかのようなもの」とよく言われた。殆どの学生が学生運動をして、卒業間じかになるとチャント就職して社会人となった。結果的には、批判した資本主義社会の歯車やその原動力となって行った。しかし、卒業後自活しなければならない学生たちの現実の生活が選んだ賢明な進路決定であった。学生運動に参加した殆どの学生が当然現実的な方法で卒業後の進路を決めた。


社会運度としての安全センター運動

しかし、当時の私はチャンと社会人となることの意識がなかった。つまり、いつまでも何か夢を追いかけていた。そして学生時代の仲間と共にその夢を追いかけあった。それが関西労働者安全センターであった。今まで知らなかった労働現場、そこでの過酷な作業、職業病や労働災害の現実を見た。

その解決のために、自分たちの知識をフル回転させた。工学部のSS助教授、機械自主研のMH氏や医学部の労働災害職業病の研究会の仲間と一緒に労働現場を調査し、データを取り、それを医学や人間工学的な視点から分析して報告書を書く。労働基準法や労働安全衛生法の事例を引用しながら意見書と作り、労働基準局に労災認定の救済を申し込む。私の毎日は、労働運動の一部、労働災害職業病との取り組みという仕事となった。

当時、MY氏は阪大医学部を卒業し堺市民病院で研修医を終え、その後、どの医療機関にも属さず、地域活動家の一人として、京大薬学部を卒業したばかりのTM氏、私と一緒に安全センター運動を創っていった。MY氏は医者であることにこだわらす、港湾労働者の着る作業服を着て毎日労働現場を私と歩いていた。

私を含めてMY氏、TM氏、NH氏、KS氏の力がなければ、安全センター運動は大衆化しなかった。そしてそれを京大で支えていた工学部のSS先生やS先生の教官、MH氏を中心とする京大安全センターや京大阪大労職研のメンバーの力がなければ関西労働者安全センターは形成されていなかった。

そして彼らと共に、特にMY氏と共に南大阪労働者診療所運営委員会、松浦診療所、同診療所検診部を創った。地域医療活動に安全センター運動が結びついたとき運動の質は大きく変化した。そして、私は、安全センター運動や地域医療活動を担った多くの仲間と共に、全国労働者安全センター連絡会、大阪被災労働者同盟、北大阪労働組合、黒川医療奨学金制度、能勢農場等の組織創りに参加した。

南大阪労働者診療所(松浦診療所)を建てるために、小口のカンパ(出資金)を全金港合同労組や全港湾労組大阪本部や多くの労働組合、そして京大の教職員から貰った。大口はMY氏と私が出資した。それらの多数の人々から集まった資金こそ、これまでの安全センター活動の成果であった。

労災職業病闘争支援の職業的組織として関西労働者安全センターが機能し出すなかで、全国港湾労働組合や全国金属労働組合からの労災認定のための協力要請が連日のごとくあった。毎日が労働組合と連携して大阪、兵庫や京都での労災認定のための労働基準局との激しいやり取りであった。そして、我々の活動は関西全域のみならず北陸、九州や四国にまで、労働基準局との交渉に走り回った。

また、労働安全衛生法の変更を契機に、関西労働者安全センターは国会での法律改悪反対闘争を取り組んだ。当時安全センターの会員である労働組合の支持政党は日本社会党や民主社会党であった。民主社会党の和田耕作議員は率直な人柄で、我々の運動が少し過激で民社党としては協力できないと話されていた。自民党以外の公明党を含めたすべての政党の議員の所に行って、労働安全衛生法の改悪阻止に協力してもらった。そんな関係で国会議員特に土井たか子議員、井上一成議員や当時の多賀谷社会党書記長には協力して頂いた。

そして、当時の社会党から衆議院への立候補を推薦された。勿論、政治家になることは断った。


左翼労働運動の問題点とその限界・復活するスターリン主義の亡霊

京大安全センターの運動はそれなりに科学者技術者運動として展開していたが、同じように関西安全センター運動を科学技術者運動として始めた私の姿と私の現実の行動はかけ離れていった。

そして、もう一度、科学技術の問題を研究する活動に帰ろうと決意した。何故なら、当時の私は余りにも深く大衆運動へ参加していた。仲間と創った組織への責任やそれらの組織を支えていた人々との関係を一方的に切ることは不可に近かった。その不可能さを超えるためには、私がそれまでの自分の蓄積は成果をすべて無にするしかなかった。今までのすべてを捨てる以外に、もう一度、科学技術問題の研究に戻ることは不可能であった。

また、当時の左翼労働運動、強烈な階級闘争を前提とする社会運動、特にUH氏を中心とするG新聞に集まる仲間の活動は、ある意味で党派性をもっていた。仲間として参加することはすでに革命運動に身を置いたかのような覚悟を迫られる。あらゆる生活を犠牲にすることが当然の運動として革命運動ごっこがあった。

家族を犠牲にしてでも、労働運動や社会運動に身を捧げることが正しい生き方であると信じていた自分に、一緒に巨大マンション建設反対の住民運動していた住民Aさんが「Mさん、あなたは家族を犠牲にして運動しているが、本当にそれが私たちと一緒にやっている労働運動なのですか。私たちは家族のために闘っているのです。あなたを見ていると、仲間のように思えないのです。ごめんなさい。お世話になりながらこんなことを言って。しかし、あなたは若いし、小さい赤ちゃんもいるし、奥さんもいる。あなたのことが、これからのあなたのことを思うと、どうしても、言いたくなったのです。」

このAさんの思いもよらない私への評価に驚いた。自分は尊敬されていると思っていた私は、自分が間違った生き方をしている人間として評価されていること、しかも、私の協力を受けて解雇撤回や反公害運動している彼から、ありがとうという言葉でなく、これでいいのかという言葉が返ってきた。

私はいつの間にか自分勝手に大衆を指導する人になり、それらの人々の生活を守る闘いの指導する人になり、彼らと共に自分の生活を守る人、つまり本当の仲間にはなっていなかった。人々を上から見下ろし、人々の要求闘争をどこかで軽蔑しながらも、それを指導していた。

私を自分の弟のように思ってくれたAさんの勇気をもっての忠告であった。

京大やその他の大学で、私のように学生運動で考えたことを真面目に内面化していたある意味で純粋な人々はことごとく、これまた私と同じく、強烈な社会運動家たちと出会うことで、学生的貧弱さを粉砕され、その貧弱な生き方と考え方では、理念を貫き通すことは出来ないことを見せ付けられた。U氏はある意味で、日本の戦中戦後の左翼運動の本流、死を掛けて、敵・資本主義社会体制と闘ってきた人間たちの生き残りであったともいえる。そのUH氏の生き様に圧倒されるのは、学生運動で問われたことを内面化し続けた我々にとって、無理もないはなしであった。

そして、いつの間にか、かくて否定したスターリン主義が自分たちの身体に染み込んでいく。いつの間にか、疑うことでなく、信じることであり、それは決断することが自分の日常性を支配する思想性に変換されていた。いつの間にか、かくて批判した筈の教条的な思想の自分が絡め取られ、ある思想のあめには簡単に人々を切り捨てかねない人間となっていた。

まるで連合赤軍のように仲間同士の殺し合いでも起こりかねない思想を自己批判という言葉で語っていた。

「核戦争で人類の半分が死滅したとしても、社会主義革命が成功するなら核戦争もしかたない」と書いている毛沢東の考えは、つまり彼のマキャベリズム思想は、かっこよいと思われると同時に恐ろしい考え方であった。20代のはじめに愛読し熟読していたドストエフスキーの「未成年」を思い出した。スターリン主義を予感した彼の著書には教条的な革命運動、未熟な社会変革の思想が登場人物を通じて描かれていた。私は、その未成年の中にいた。そして未熟な社会変革の思想を私はいつの間にか支持していた。

何故、そうした教条を持つのか。それは遥か昔、高校時代から私が否定してきた思想ではなかったか。私は人々の生命や生活がもっとも大切だと思って、社会運動に参加したのではなかったか。私は社会正義を信じてベトナム戦争や侵略戦争に反対し人民の自由と世界平和のために闘ったのではなかったか。私のどこかで崩れ、そして激しく疑い、解体するものがあった。


私の「自己批判するべき」事件を通じて、私はその責任を取る形で、その大衆社会運動から出て行かなければならなかったが、言い方換えれば、それは新しい自分の挑戦・本来希望した科学技術論研究の機会を得たのであった。


問題提起の旅へ

インドへ向かった。目的はなかった。ただ、この現実との距離を得たかった。

カルカッタ(コルカタ)の街に着いた。そこで多くの人々と出会った。WMCAカルカッタ支部の人々(インドのキリスト教徒)、マザーテレサの施設へボランティアに来ていたヨーロッパ人や日本人達、マザーテレサの施設のシスターやカロリック協会の牧師達、サダストリートに集まっていたヒッピー達、東大闘争で挫折しインドに来てベンガルの詩人タゴールとインド楽器タブラを研究していた元東大生(数学専攻)のNさん(彼は長年コルカタに住んでコルカタ喘息となり、日本帰国した。そして確か昨年2009年に彼が死んだと知った)、彼が下宿していた家の息子、インド共産主義運動親中国毛沢東派のリーダであったミットロ氏、インドやバングラディシュの社会や農業開発を研究していた日本の研究者達、その他多くの人々、インドのコルカタ(カルカッタ)に集まる人々には何か現代の社会に適用しにくい性格をもっているような気がした。研究者、ボランティア、単なる旅行者もヒッピーも、インドに来た人々には何か共通したものがあった。

神秘的なインド、西洋文化に失われた世界を求めて旅する人々。
私の興味はそこにはなかった。むしろ、帝国主義植民地時代の軌跡や第三世界の近代化の過程を観たくて来た。

悲惨なインド社会の現実、それは先進国日本の労働者階級ですら彼らからすると貴族的としか言いようのない人々であったろう。私はミットロ氏からインドの下層階級の人々、インドのイギリス植民地時代の傷跡の歴史について学んだ。

東大の助手をしていたN氏や京大農学部で農業経済のオーバードクターをしていたK氏に紹介されて、カルカッタ社会科学センターの研修生となった。そこの教授は非常に偉い感じだった。彼の紹介で講師のN氏を紹介された。その研究センターに通った。

ミットロ氏との話を通じて、そして彼に日本について語る中で、日本の近代化の過程に関する説明をしなければならなかった。何故、日本は近代化を成し遂げ、インドは失敗したのか。他のアジアの国々は列強の植民地になったのは何故なのか。その疑問を抱え、インドからイランまで歩いた。

当時、バングラディシュでは農業近代化政策のためにアメリカからのトラックターの導入、機械性農業の導入のために、伝統的な水田耕作地帯の耕作地区画改良が行われていた。バングラディシュには自動車は勿論のことトラクターをつくる技術はなかった。その輸入品に合わせて耕作地の区画整理をしていた。何千年も掛けて、雨季に水田に降る雨の量(降水量)からこの水田の面積は計算されつくされ、その結果、細かく区切られた水田地帯が広がっていた。しかし、それらの水田地帯では大きなトラックターは動かなかった。そこで、トラックターに合わせて水田の区画整理が行われた。当然、長年掛けたこの地域の生態系に合わせた田んぼの姿は消えた。

日本では、多分、田んぼの姿にトラックターを改良し「耕運機」が作られた。海外から来た機械に風土の形態を変えるか、それとも風土の生態系に合わせて海外から来た機械の形を変えるか。その違いによってすべてが変わるのである。

多くのアジアの国では、自国で機械を改良する技術力がなかった。そのため、性急な近代化政策は、機械に合わせて風土を変えることになる。この政策こそが、植民地化を代表する方法であり、現在でも、政治的植民地化ではない技術的、つまり文明的植民地化が進み、その結果として先進国の機械を輸入し自国の農産物を輸出するという国際分業に基づく経済的搾取のみでなく、文明的搾取、つまり自国の生態系資源の破壊をもたらしているのである。

しかし、こうした現実は近代化過程の日本でも生じていた。それは公害と呼ばれる生態系の破壊の形をとって現れていた。考えると足尾鉱毒事件以来、水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息等々、世界的に有名なあらゆる公害病はすべて日本発のものである。

20代後半に取り組んだ労働災害職業病も公害問題も資本主義生産様式の問題つまり経済的問題と同時に文明的問題がその根底にあるのではないか。公害を起こす生産様式の生産機能を文明的に分析する必要はないのかと考えた。

今西錦司の「生物の世界」に書かれてあった「生物の機能と構造」には生物の形態(構造)が生命活動の機能性の効率化を達成していることを「合理性」と考えていた。生産様式(構造)の合理性は、生産活動の目的、生命や生活の維持が発展(機能)が達成されているかということで決まる。つまり、より合理的生産構造とはその生産様式の目的である人間生活の充実に寄与する機能性を持つかどうかと言う事で決定される。

その意味で、公害(生産活動による生態系の破壊)や労働災害職業病(生産活動による人間的破壊)を生み出す生産様式にはその合理的形態が確立していないことを意味していた。

近代化の過程で、合理性は西洋近代様式を物語、生産効率は工業生産の効率、もしくは企業利益に限定されて理解されていた。合理性を生活世界の豊かさとして語り、人間的生命生活活動の豊かさが政治、経済や社会活動の目的ではなかった。

この思想はどのようにして生み出されたのか。それは単に資本主義経済批判として片付けることが出来たか。当時のソビエト連邦では、疎外された労働、公害や労働災害職業病はないと言えるのか。

イランを旅した時に、その疑問に答える多くの現実に出会った。大型トラックターの導入で砂利砂漠化した農地、荒廃した伝統農業様式、泥でうまったダム等々。アメリカの支持を受けパレビー王朝が行った近代化政策はイランの風土を破壊しつくそうとしていた。多くの失業した農民たちがテヘランのスラムを作り。彼らが憎んだものが近代化であった。

そして、その憎しみの彼方に登場する思想的救済として「イスラム原理主義」が存在した。近代化の失敗こそ、反動的宗教思想、つまりイスラム原理主義を導き出した張本人である。そのことに対する自覚はアメリカにも日本にもない。そして近代化によって荒廃した発展途上国の風土とその元凶である西洋文明への怒りが爆発しているのである。

それらの爆発をさらに力で押しつぶそうと先進国は軍事的介入を続けてきた。この付けはいつか未来の人々が払わなければならないだろう。そのためにこれから起こる暴力の連鎖をどうのようにして防ぐことができるのだろうか。

科学のイデオロギーを政治的課題に限定することで現代の科学技術の問題を解決できるほど問題は単純ではなかった。つまりイデオロギーと科学技術の二つの概念を明確にすることが必要となっていた。

今に続く私の哲学的課題は、こうして明確になり、その方向が決定された。

研究室を出るとき抱え込んだ問題、京大安全センターを結成するとき展開しようとした問題、関西労働者安全センター運動を引く時に取り戻したかった問題、インドからイランの旅を経て理解した問題、それらはすべて私の中で連鎖し続けてきた課題を示していた。


私の哲学研究の課題とは

1、 私の思想的間違い、つまり批判した筈のマルクス主義ドグマチズム(スターリン主義)へ現実の運動の中で絡め取られる思想的限界を明確にすること。これが私の反省課題である。

2、 発展途上国の近代化の過程で解決しなければならない伝統文化と競合しない改良のあり方、つまり現代科学技術のイデオロギー的構造(プログラム)を理解し、そのプログラムの自覚的認識を前提にした科学技術思想を形成することで、発展途上国での生活世界の発展や改良への実践な科学技術の寄与のあり方を検討し形成することを目指す。

こうして、私はフランスのストラスブール第二大学(人文科学大学)現在のストラスブール大学の博士課程に席を置き、長い研究生活を始めることになる。



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民主党の代表者選について

現在の民主党が野党から政権政党になれたのは小沢一郎氏なくしては語れないだろう。
小沢氏は今の日本社会で、所謂政治家らしい政治家である。つまり、マキャべリストである。

彼を批判するマスコミは、彼のまつわる「政治とカネ」の古い体質(自民党田中派から受け継いだ)に妥協することなく闘い続けてきたからである。
その意味で、マスコミの主張は正しい。
しかし、今の日本に必要な政治家は小沢一郎であることも理解できる。

これまで続いた官僚支配の日本を変革するためには、強烈な政治指導が必要だ。
その政治指導とは、官僚を本来の官僚の役割に収める力である。

彼らの能力なくしては日本は動かない。
しかし、彼らが国家に対して忠誠心をもって始めて日本はよくなる。

利権集団と化した官僚制度は粉砕しなければならない。
その力は、国民にある。

すべて情報公開すべきである。
官僚たちの給与、退職金、退官した後の再就職先、その給与、そしてその退職金等々。

そうすると、きっと彼らが大変な利益を得ていることに気がつくだろう。

また、国家試験のありかたを変えるべきである。
若いときに受けた能力試験、それも暗記物の試験で、生涯官僚機構の中で、一流コースとそうでないものが生れるというばかげた制度。

実際の行政執務の実績をもって評価しない制度の古さを換えなければならない。
官僚制度を国民主権の視点で変革する力は民主党しかない。
しかし、それに対する指導力への疑問が湧いていることも否定できない。

そればかりでない。変革すべき多くの課題が山済みされている。

地方分権化、道州制の導入
国会(地方自治体の議会)議員数削減
アジア外交、日米外交等々

管氏に期待したいのだが、彼は今回の選挙でみられたように、何か子供ぽい純粋さがある。それが管直人氏のよさであり、同時に欠点である。そして、その性格による致命的な失敗が今回の選挙で自民党の策略「将来の国家財政に責任を持つなら、税制改革の必要性、つまり消費税を上げる」という挑発に乗った形で現れた。
確かに正しい主張も、時と場合によっては政治的判断の誤りとなる。

多分、小沢一郎氏はこうした政治家としての判断を誤ることはないだろう。

彼が今の日本を救える政治家であることは確かである。
しかし、政治とカネの問題を彼が個人のレベルでなく、法律や制度改革として、解決の糸口を提案しない限り、彼の登場を歓迎する人はいないだろう。

非常に残念でもったいない話である。

民主党の本当の実力者小沢一郎氏が全面的に前に出て、すべての課題に取り組む。勿論、政治とカネの問題も個人的問題でなく、将来の日本のために取り組む

それが可能なら、そしてそのことを断固として貫くなら、小沢一郎氏が民主党の代表者でなければならないだろう。

見出し(文字の大きさと色をつける) 

もっとブログを楽しむために、街のインタネット発信スキルのサービスビジネスを起こそう


私のブログを見やすくするために、今、指導を受けています。先生はT.Aさん。ホームページ作成8年間のベテランです。おかげで、ブログが見やすくなりました。今回は、ブログに映像を入れたり、また見出し文字の大きさと色を変えることを教えてもらいました。

インターネットの作成やブログに関して、豊かな知識とスキルを持った人々が、専門的なサービスから日常的な市民のインターネット発信のサービスへと進出るることで、大きなビジネスチャンスが生れているのではないかと思います。

インターネットでの発信作業がもっと市民社会で日常化するために、商店街の中に、インタネットサービスのお店があっていいのではないでしょか。




見出し1形式
見出し1の形式です


見出し2形式
見出し2の形式です

私がホームページをはじめる目的とは

限られたコミュニティ(個人生活の範囲)の中で発表してきた教育研究活動や社会活動を、インターネットを通じて出来るだけ人々に「日常性と思想性の相補性を求めて」というタイトルのホームページで公開しようと考えた。

また、ブログ「生活運動から思想運動へ」で日常的に書き綴った時系列的な文書群を、ホームページの特徴を活かして、課題別に配列してみようと考えた。

このホームページ「日常性と思想性の相補性を求めて」は、私の日常性と思想性の折り合いを付けよという主観的な企画(目標)によって作られる予定である。その両者の折り合いがうまくいかない現実の生活があることが前提で、その折り合い、つまり理念と現実の生活行為をできるだけ統一化してゆきたいと希望しての試みである。

どうなるのか、今は分からない。

つまり、現実の自分を正確に理解して始まる考え方を見つけ出すか、それとも理念に立ち向かう努力の中で自分を変革できるか。

これから、このホームページ作成を日常生活の一部とし、つまりホームページを編集しながら不足している課題を書き足し、書き足しながら編集上必要な課題を設定し、企画された課題から新しい日常生活の設計(実験)や探求課題が生み出され、その記録が文章化されるのではないだろうか。

このホームページ作成から私の編集能力が形成されていくことを期待したい。つまり、私が多くの人々と社会文化人間に関する問題を共有できる素晴らしい編集者とるための道具であり、またその自分の編集能力への評価機能であるホームページを作ろうと思う。



三石博行のホームページ
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2010年8月26日木曜日

ブログとホームページの違い(日記と小説の違い、論文と著書の違い)


写真 カルフォルニア州の10パーセントの電力を供給する風力発電所群

A ホームページ作成が難しい理由


私は、誰もが当たり前にやっているホームページを今頃になって何とか作ろうとしている。

確かに、このブログを記載しているGoogleでホームページを作ってみたが、デザインの面で、満足いくものが出来なかった。それの理由は、私がGoogle ホームページの作り方を正確に理解していないためである。
つまり、ホームページをつくるためのソフト的、インターネット使用の技術がなかったことが、満足できるホームページを作ることが出来なかった理由となる。

しかし、ホームページ作ソフト使用の知識や技術の問題であれば、努力してその問題を解決して来たと思える。技術的スキル不足の理由だけではない。
それでは、他にどんな理由があるのだろうか。

ブログを書くことと、ホームページを書くことの違いは、
書きたいことを日常的に積み重ねる作業によってブログは出来る。
しかし、ホームページは、あらかじめ書く内容の構成(フレーム)を決めなければならない。

B ブログとホームページ そして、日記と小説

ブログは日記のように書ける。しかし、ホームページは著書のように編集能力、全体とそれを構成する各章を構成する企画力が必要となる。

つまり、ホームページは小説を書くように、あらかじめ物語を作り、その物語に即して、それぞれのホームページの内容を編集する必要が生れる。

勿論、小説ほどホームページは「物語性」を要求されないが、ブログは、日々、日常的に沸き起こる考えや日常生活の経験、課題を書き留めるための様式である。その点、日記と類似しているといえたのである。

私がブログを書くことに困難を感じなかったのは、もともと日記を書くことが好きだったからかもしれない。中学1年のはじめから書き始めた日記を50歳ぐらいまで続けていた。

日記と違って小説を書くためには、物語を作る力が必要である。
日記は、結果として物語になりえる。それは、あらかじめ構成され企画された物語でなく、日常生活のドラマチィクな流れが日記を物語的な内容に変えてしまうからである。それはある日常生活に生じる偶然結果として予期せぬ出来事の記録の結果として日記が物語り的になる。

しかし、小説は、その内容が日常的な生活風景を題材にしたとしても、あらかじめ企画され計算された出来事の連鎖や事件とよばれる物語によって構成されている。

小説は現実の日常生活に秘められた潜在的なドラマ性を引き出すことで、面白みを増すように思える。

また、まったく違う社会や時代の話を通じて、日常的な空間から読者を想像の世界に引き込むことが出来る。しかし、それらの異生活空間には必ず日常生活空間で共有されている感性や価値観が存在している。

つまり、小説は、一こま一こまの人間生活の場面の中で繰り広げられる物語性を、繋ぎ止め、関連させ、大きな流れの中で、それはブログの世界と異なる小説的時間の流れの中で、著者の主張の材料に構成されてゆく。その構成スキルを編集力と呼ぶのである。


C ブログとホームページ そして、論文と著書


それと異なる編集力を必要とする書き方として論文がある。論文の書き方では、与えられた課題を学術的・論理的に記述しながら、ある一定の結論を導く、もしくは提案する仮説や命題をこれまで認められてきた手法(論理や方法論)で証明することが一般的に取られている。研究活動の記録のようにして論文は出来る。

しかし、論文の集合が本になることはなかなか難しい。著書には課題を展開する物語性が必要である。この物語性は、個人の研究活動によって導かれるというよりも、それを含めて、研究者は著者の中心課題から他の領域への境界領域も含めなければならない。つまり、自分の専門的範疇のみで著書が出来るとすれば、それは研究専門書と呼ばれる部類の本となる。

しかし、大学の教科書のような本では、自分の専門領域との境界領域を含めて、専門領域の課題に大きな物語性をつける必要がある。

私の場合を例に取ると、長年研究生活を続けながら、論文は幾つか書いたが、単独で著書を出すことはなかった。単独で著書を書いたのは、フランスの大学で書いた博士論文を著書にした以外は、なかった。

そう考えると、私はフランスでの学位論文の時、苦労した事を思い出した。

つまり、学位論文や著書の企画をした場合、非常に理想主義的な方針を出すことによって、企画上はすごい話になるのだが、現実にそれらの企画を実現することが困難な場面に毎回出会い、ついには、中途でやめることになる経験をしてきた。

私が自覚しなければならないのは、自分にはそれほどの編集能力がないということだ。

論文を書くための構想と本を書くための構想とは、共通する部分とそうでない部分がある。
そうでない部分に関する理解が非常に不足しているのではないだろうか。


D、ホームページ作成に含まれて訓練


私の弱点、物語性の構築能力の不足、編集力の不足、酷評するなら想像力の不足(これは物書きとして致命的問題)を克服するために、ホームページを作りに挑もうと思う。

少し、大げさな挑戦状を、書いてしまったようである。

私のホームページのタイトルを「生活運動と思想運動の相補性」をした。
ブログのタイトルが「生活運動から思想運動へ」であるから、ホームページのタイトルもブログと殆ど同じであるといえる。

ホームページ「生活運動と思想運動の相補性」は5つの章によって構成されている。

ホームページ
序文 トップページ
第1章は研究で、この第1章は哲学、人間社会科学、政策論と研究会・学会活動の4つの節からなる。
第2章は教育で、この章は哲学系、人間社会学系とその他の3つの節からなる。
第3章の社会活動は国際交流活動、エコロジー運動と政策提案運動の三つの節からなる。
第4章は自己紹介でプロフィール、趣味、ブログなどの節からなる。
第5章のリンクは自分の研究、教育、社会活動や趣味などに関連するサイトの紹介を行う予定である。

以上が「生活運動と思想運動の相補性」という物語を示す私のホームページの構成である。


三石博行のホームページ
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2010年8月24日火曜日

庭の話をはじめよう

2011年5月5日の庭


三石博行






私の住んでいる区画は、建蔽率が40パーセントで、敷地の半分が庭になる。2004年から、この地区に移ってきて、少し余った土地を近所の人々に見習って、庭を造った。

私が庭をつくるとなると、どうしても、実用的な庭になる。
木は花と実のなるもの。植えるとすると食べられるもの、野菜かな。
妻とまったく見解が食い違う。そこで二人の領土を決めた。

私は野菜を植え、彼女は花を植え。
私は実のなる木を植え、彼女は花の咲く木を植える。



しかし、二人が同意したことは
畑らしくない畑、花壇らしくない花壇であった。

フランスやヨーロッパでたくさんの庭を観て来たので、
少しそのまねをしてみた。

雑草に悩まされないように、
庭仕事で転ばないように、
作業通路をレンガで覆った。



友人の会社、エコハウスを専門に造って来たライフプロジェクトにたのんで
難しい要求をして
彼らの工夫と苦労で
気に入った庭となった。

この小さな庭でエコライフの実験をしている。つまり、家庭生活で生じるすべての生ごみや枯葉や庭のごみをリサイクルし有機肥料を作り、それを使って野菜を作る。近所の人から、枯葉や庭からでたごみをもらいそれも有機肥料にする。さらに、近くの市営農場から牛糞を運ぶ、それを堆肥舎(縦4m、幅3m 深さ1.5)に入れて、すべての有機物と一緒に発酵させる。冬でも、湯気が出る。暖かいので、猫が堆肥舎のカバーの上で寝ている。

一年間にどれくらいの有機物が必要か、それらの有機物を入れることで、連作障害を防ぐ野菜作りは可能か、エコライフの多くの課題を考えながら、庭仕事をやる。果たして、我々は、最低どれくらいの庭と有機物があれば、野菜を自給できるのだろうか。これは、実に面白い課題である。

グーグル地図の衛星写真からも、我が家の庭の形が見える。

参考資料

株式会社 ライフプロジェクト
http://www.lococom.jp/tt/20830269394/


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大衆的な国際化社会のための大学教育の課題

A 高等教育の国際化の三つの段階

教育機能の中で、最も社会経済システムの国際化の影響を受けるのが高等教育である。何故なら、高等教育機能は、専門性の高い社会文化や産業事業に直接的に人的資源を提供し、また知的資源の開発を共同で行う等の社会発展のための機能を担っているため、国際化に必要な人的資源や知的資源を高等教育が提供しなければ、社会経済機能の国際化の振興は不可能だからである。

日本社会の国際化に大学は大きな役割を果たしてきた。国際化する企業活動を担うために専門教育、外国語教育、国際理解等々の、国際化社会のための人材教育を行ってきた。

グローバリゼーションに必要な知識の提供を行ってきた戦後の日本の高等教育を第一期の国際化のための高等教育の時代と考える。大学での外国語学部や経済学部なのでの国際経済専攻分野の設置が行われ、海外で活動する企業に人材を提供してきた。

世界経済の進展、1980年代以降、大企業のみでなく中企業も国際競争を前提にして経営戦略を立てる時代になって、大学での国際化社会に対応するための教育は、これまでの国際社会で活躍するエリート育成から、一般学生に対して国際社会で仕事をするための教育へと変化していく。多くの大学に国際の名のつく学部や学科が新設され、また国際と名のつく新設大学が全国津々浦々に創られる。
この時代を第二期の国際化のための高等教育の時代と呼ぶことができる。

今、国際化のための高等教育の新たな時代が到来しようとしている。それは、日本の国際化が市民生活にまで浸透し、国際化という文化がどの地方都市にも、またどの市町村にも行き通り、国際化の日常化が行われている時代を意味する。
国際化のための社会機能はどの市町村でも必要とされている。国際化のために活動する人々はエリートでなく一般の市民となる。大学では国際教育がどの学部でもおこわなれ、例えば英語での一般教養や専門教養科目の講義が行われるようになる。
この時代を第三期の国際化のための高等教育の時代と呼ぶ。現在の大学教育はこの第三期を迎えているといえる。


B 国際化のための教育課題

国際化社会で働くためには英語などの外国語教育は必要である。第三期の国際化のための高等教育の課題としえ、英語を学ぶのでなく英語で学ぶ教育が取り組まれる。しかし、語学能力は海外で働くための能力の入り口である。それ以上に、異文化理解能力、コミュニケーション能力、問題解決能力を身に付ける必要がある。

こうした能力は、これまでの講義形式の学習では身に付けることが出来ない。ゼミや実習での参加型の授業形式を取り入れて、学生が授業を運営しながら学ぶ方法が必要となる。

問題解決能力を身に付ける学習方法として、すでに欧米で取り入られているPBL(Problem basic learning )などを用いることが出来る。それ以外にも、多くの先進的な教育方法が検討され、また開発される時代を迎えているといえる。

第三期の国際化のための高等教育に関する研究が現代の大学教育法の課題となっているといえる。



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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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2010年8月23日月曜日

大学改革の新しい局面

三石博行


A 中小大学法人の大倒産時代をむかえて

JCASTニュースで、「大学全入時代を迎え、大学の“倒産”が現実のものになった。私大の定員割れは全体の47.1%に達し過去最悪の事態。国の教育方針を決める文部科学大臣の諮問機関、中央教育審議会(中教審)は大学の統合再編も視野に入れて本格的な議論に入った」(1)ことが報道された。

日本私立学校振興・共済事業団(私学事業団)2008年1月にまとめた私大の経営状況調査では、「521の大学法人のうち64法人が「経営困難状態」と判定され、9法人は「いつ、つぶれてもおかしくない状態」というショッキングな結果が」(1)報告されている。

2005年には同世代の約73%の人口が高等学校を卒業した後に大学短大や専門学校などの高等教育機関に入学している。つまり、日本では高等教育の大衆化が起こってる。

この日本の大衆化した高等教育を推し進めたのが国の政策、私立大学への補助金であり、それに援助された私立大学学校法人である。90年代の初めに国は大学設置基準を緩和し、その結果、大学、学部を簡単に設立できるようになり、高等教育機関は益々増え続けた。大学数は90年の507校から現在、227校増えて734校。少子化にもかかわらず大学を増やし続けてきた。

当時国は、大学間の競争を「市場経済原理」の即して促すために、これまで文部省の規制に縛られていた大学設置基準を緩和し、民間企業ですら大学設定が可能な状態にまで持ってきたのである。

その結果、大学は厳しい生存競争に晒される。つまり、潰れる大学と生き残れる大学が生れたのである。それが、国の方針であったともいえる。

つまり、中小大学では、「現実に、私大の経営状況は厳しくなっている。私学事業団が、08年1月にまとめた私大の経営状況調査では、521の大学法人のうち64法人が「経営困難状態」と判定され、9法人は「いつ、つぶれてもおかしくない状態」というショッキングな結果が出た。」(1)


B 大学間競争を生み出す市場原理のプラスとマイナスの側面

国際社会での日本の大学の競争力を付けるために国が持ち出した政策、市場原理で大学を淘汰する政策の結果を検証しなければならない段階に来ている。

大学間の競争に市場原理を取り入れたことのプラスの側面とは、日本の大学が国家の指導でなく、自らの力で世界の大学との競争を前提にして発展する機会を作ったことである。

日本の官製型の文部省指導型の大きな大学、例えば東京大学や京都大学など旧帝国大学や慶応早稲田なのの超有名私学など日本でトップクラスの大学が、大学法人の責任で大学内の制度改革を進めることが出来るようになった。そして、それらの改革の評価も自ら取らなければならない事態をつくった。
そのことによって、積極的に、大学独自の改革を進めれれるようになったともいえる。

当然、国の政策によって、日本の大学では大きく二極化が生じてきた。つまり、大学間の国際競争力に磨きを掛けて発展する大学と少子化の傾向以上に定員割れを起こす中小の大学が生れる。

市場原理に基づく国の大学淘汰を前提とした高等教育政策のマイナス面とは、この二極化の負の側面であるといえる。つまり、多くの倒産寸前の中小大学法人の出現である。

国際競争力のない大学つまり海外から留学生や研究委託の来ない大学、それどころか国内的にも存続の意味を持たない大学つまり入学者定員割れを起こしている大学、それらの大学は、確かに市場原理からすれば、その大学の存在意味を問われているのである。

そして、国が倒産寸前の大学法人の問題を考えないなら、それらの競争に負けた大学、企業であれば倒産は当然の結末であると言える学校法人の現在の姿に対して、当然倒産すべきであると国はおおぴらは主張しないが、同じことを言っていることになる。

大学の倒産によって引き起こる問題
1、在学生の教育の権利の保障
2、卒業生の卒業大学の保障
3、国が私立大学法人へ投入したこれまでの税金、その結果として私学法人が所有する財産の散財化

大まかに以上の問題が生じるのである。

株式会社と言えども銀行の場合にも、その社会的機能において公共性が高かった。ましては、つい10年前まで、税金を投入し私学補助金を支払ってきた国にとって、私学法人の財産が学校法人のものであると帰結するのは無責任な結果を生み出すことにならないろうか。


C 国は、負の側面をカバーする対策を持っているのか

国は、これまで進めてきた市場原理による大学改革に対して、その政策の検証段階をむかえている。

つまり、市場原理によって大学改革を進めることによって、より国際競争力を持つ大学が生れるかという検証が必要である。

言ってしまえば、大学の統廃合を行い、もっと国際競争力をもつ大学を日本にう来る必要はないかということを検討しなければならない。

旧帝国大学を中心とした大学、超有名私学などが、少なくともアジアにおいて高等教育機能として中心となっるために、個々の大学で、さらに競争力を獲得するためにもっとも必要な法律や政策を提案しなければならないだろう。勿論、それは、古い亡霊、つまり文部省、文部科学省の官僚指導という方法でない方法、大学法人、民間、地域社会を入れた方法を検討すべきである。

さらに、忘れてならない課題として、ニ極化の負の部分、つまり、日本の大学を淘汰の荒波に敗北していく大学法人への対策である。多数の倒産寸前の大学法人への対策とは何かと考えなければならない。

これらの中小大学法人の倒産とそれに対する国の対策への問題提起に類似する話は、すでに、1990年代に日本の金融機関の国際競争力を獲得するために、中小市中銀行の統廃合を経験している。その経験が、今回の中小弱小大学法人の倒産の時代に応用可能であるとも言える。

当然、倒産寸前の学校法人としては、国の援助を求めるであろうが、競争力を持たない中小銀行の救済によって失った血税投入の失敗の歴史を思い起こせば、それらの大学法人へ血税と投入して救済するという方法を取ることはできない。

D 今後の検討課題

小さな政府を目指す時代の流れの中で、これまでのように文部科学省の支援や国家指導型の対策を待つことはできない。
むしろ、地方分権化の流れにあった大学再編の道を模索する必要がある。

例えば

1、資金ショートを起こす危険性のある学校法人の経営に対して、民間の「破産管財人」的な制度を考える。
2、学校法人法を見直し、資金ショート寸前(エーローゾーン)の大学法人理事会に対して、その理事会に対して法的に強制的に理事会運営へ介入する制度を創る。
3、地方分権を前提にしながら、中小大学法人の地域ごとの再編を行う。その場合、競争力のある大学法人の指導を前提とする。また、地域ごとの大学コンソーシアムの指導を前提とする。


E 呼びかけ

この課題を、現実に破産寸前の中小大学法人に身を寄せる私個人の問題でなく、国際化する日本の高等教育の将来を考える多くの大学教職員に対して問題を投掛けたいと思う。
ここでは、問題解決のための、コミュニケーションを提案したい。

1、高等教育研究会での「大学法人倒産の時代への対策研究部会」の設定を呼びかける。
2、この問題はそこを職場にしている大学教職員の問題だけではない。教育は百年の計であり、国家の問題である。そのため、この議論を広く社会に呼びかける。将来の日本社会の持続可能な制度を模索し続けてきた「構想日本」に、問題提起する。



参考資料

(1) JCASTニュース 「私大の定員割れ5割弱 大学の「倒産」現実に」 2008年10月9日
http://www.j-cast.com/2008/10/09028154.html?p=all




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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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第三期国際交流運動を展開した歴史

A 仲井秀昭氏の試み・1990年代の奈良での「フランス語クラブ」

仲井氏が奈良でフランス語で喋る交流会・フランス語クラブを作ったのは今から20年ぐらい前のことである。そのフランス語クラブが奈良日仏協会を創る母体となり、奈良日仏協会は結成された。

私は1993年にフランスから帰国し、京都大学で短い期間の仕事を見つけた。そして仲井氏とお会いする機会があった。はじめて奈良日仏協会の集まりに参加したのが、フランス語クラブであった。約30名近い人々がフランス語で自己紹介し、一人ずつ何か喋ることになっていた。フランス語の得意な人、そうでない人、それぞれのレベルで話をした。確か、フランス人も参加していて、集まりは盛り上がっていた。

その集まりの中で、すごくよくフランス語の喋りたい人々が集まって、私の新しい職場、金蘭会学園で、めちゃくちゃレベルの高いフランス語での討論会をやった。


B 第三期国際交流運動のプロモーターとしての奈良日仏協会の活動(1990年代から2007年まで)

仲井氏が事務局長を勤めたいた奈良日仏協会では、新しい国際交流活動が起こっていた。それは国際交流活動が市民生活の中で日常化していく第三期の国際交流活動の始まりであるといえる。

彼は、フランス語、フランス文化への接点を奈良の市民生活の中に持ち込み、フランス映画や音楽を単にフランスを紹介するレベルから奈良での映画文化活動や奈良を紹介する(発信する)活動へと展開していた。
つまり、これまでの日仏協会の活動から一歩出た、奈良という地域性を同時にフランスに発信する活動であった。

その一つに「奈良の代表文化の一つ、仏像美術文化をフランスに紹介する活動」が取り組まれ、奈良日仏協会の国際交流のレベルの高さを国内は勿論国外にも示した。

C 引き継がれる市民生活運動としての国際交流活動 京都奈良EU協会

仲井氏は、奈良日仏協会をNPOにして、任意団体としての国際交流運動から一歩出た、新しい運動体にしたいと望んでいた。その希望は、当時の奈良日仏協会の理事会では理解不可能であったと思える。彼の考えは、当時の理事会の中では余りにも先を歩んでいたように思えた。

仲井氏と私は、そうして京都奈良EU協会を立ち上げることになった。その目的は、21世紀の益々国際化する市民社会での、国際交流活動を模索することであった。
今でも、私たちにその答えはないのであるが、なぜか、その方向に対する確信がある。

それは、市民生活活動の一つに融合化した国際交流運動のスタイルである。

そのスタイルは、すでに、若い人々に、市民の中に、存在しているように思える。

それを、私たちNPOは吸収し、その力を集める努力をしているのだと思う。


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2010年8月21日土曜日

街に生れるイングリシュカフェ文化の意味

生活空間でのグローバリゼーションとは

社会の国際化を推し進めた原動力は市場経済である。その具体的な現れが、工業国としてのわが国の場合、国内生産物の輸出と工業生産に必要な原料であった。
その結果が、日本製品、例えば日本製の電気器具や自動車が世界中の国々で使われ、また日本国内では海外から輸入したエネルギー、鉱物や食料資源に依存する社会や生活空間が登場してきた。
日本の国際化は、戦後、日本が高度経済成長期を迎えた時代から始まり今日に至っている。

社会経済活動が国際社会との関係、つまり海外からの輸入や輸出を抜きには成立しえない社会を国際化した社会と呼ぶことができる。一国経済体制では国家運営が成り立ったない社会がグローバリゼーションの進んだ社会である。その意味で、世界のほとんどの国々が、今やグローバリゼーションの影響を抜きに存立しないとといえる。例えば、経済鎖国状態の北朝鮮ですら、実際には経済の国際化の流れから孤立して、国家が存続している状態ではない。

経済活動の国際化が生じる状態を第一期の国際化社会と考えれば、その次に生じる国際化は社会現象の国際化である。つまり、第二期の国際化社会では国際政治情勢、社会文化等々に関する社会情報が豊富に提供される。例えば国際政治経済に関するニュース、番組が多く報道され、また海外のドラマや文化紹介がテレビを通じて頻繁になされる。

明治維新以来、欧米社会を見本としながら国家の体制を構築してきた時代、近代化の過程では、多くの欧米文化が紹介されることになる。しかし、これらの欧米文化化が伝統文化とぶつかり合った時代も生れた。そして、近代化への反動として国粋主義や反西洋文明主義を生んだ。これらのプラスマイナスのすべての社会文化の反応も国際化社会で自然に生じる社会文化現象である。

さらに、経済的にアジアとの交流が主流を占める中で、必然的に生み出されるアジアへ文化との交流も、例えば韓流ドラマの国民的人気や中国映画の流行を通じて生じる。これらの社会文化現象も、大きく第二期の国際化社会の一こまの現実である。

第二期の国際化社会では、交通機能、IT技術の爆発的進歩によって、物資のみんでなく人々や情報(社会文化情報)の流れも爆発的に流動化、交流化するようになった。

以上の国際化社会の発展によって、日常的に人々は海外の文化に接することができ、また海外へ旅行することも日常化し、海外から日本に来日する人々も増え、それまで第二期初期の時代の欧米からの指導的立場の人々とアジアや発展途上国からの低賃金労働者の入国ではなく、欧米から日本への留学生やアジアから知的エリート達の日本企業での就労も行われるようになる。

日本での国際関係が、欧米志向性からアジアや発展途上国との対等な国際交流関係へと変化する時代を迎えてきた。

日本では、21世紀を向かえ、新しい国際化社会が生まれ発展してきた。これを第三期の国際化社会と呼ぶことにする。
その特徴は、
1、生活空間で日常化する国際化
2、人々の生活意識の中で距離を失う海外文化 
3、多文化共存社会と呼ばれる地域社会の文化が生れる
以上を挙げることが出来る。


第三期の国際化社会での国際交流活動とは

第一期の国際化社会では、それ以前の先進国、つまり欧米社会文化の啓蒙活動として国際交流活動の流れを汲んだ活動、例えば米、英、仏、独、伊なのの欧米先進文化の紹介を通じて、ある意味の啓蒙活動としての国際交流運動が存続していた。そのため、国際交流では、それらの文化紹介活動となる。

第二期の国際化社会では、日本の国際交流運動に多様性が生じる。つまり、主流である欧米文化先進国との国際交流活動のみでなく、アジア、中南米、アフリカとの政治的視点でなく文化的視点からの交流活動が盛んに行われる。欧米中心の国際交流運動が相対的に小さくなる時代を意味する。

第三期の国際化社会の現象が今進行している。それは、日常生活の中で、国際交流が生み出されるという現象である。
その代表的な例として、町の喫茶店で自然発生的に生れるイングリシュカフェを挙げたい。
勿論、今まで、英語喫茶はあった。それは交流と言うよりも英会話の機会を喫茶店がつくり、その英会話チャンスを喫茶店の付加価値にしていた時代、70年代後半の次回の英語喫茶の姿である。しかし、現在では、英会話の勉強という教育的側面よりも、英語でシャベラナイト的な英語は交流のツールとなり、カフェの目的は日常的で人的な交流を目指している。

その点が、大きな違いを生み出すことは間違いないだろう。


2010年8月20日金曜日

書くという行為

私は、誰に伝えたくてブログを書いているのだろう。

いつも、書く行為の背景に存在している私の欲望、伝えたいという私の気持ちの対象が、抽象的な人物ではないように思える。

文章を書くごとに、誰かに、日常生活の中で出会った、そして関心を持った、または心に残った誰かに、書いているように思える。

私にとって書くという行為は、自分の心情を伝えたいという行為である。

伝えたいと思う人がいて、私は書くのだ。

それは、一方的な行為であり、ある意味で、片思いのようなものだ。


Aさんへ

今日も異常なくらい暑い。

友人たちのホームページをながめる。

私は今まで自分のホームページを作りかけては失敗してきた。
その理由は、勿論、私が怠慢であることに過ぎないのだが、
しかし、いつもそれなりの言い訳が用意されている。

「何のために書くのか」
「何のために自分を公開するのか」
「公開しなければならないものは何か」
と、その理由は続く。

人は、はたして抽象的な誰かに書いているのだろうか。
人は、自己の考え方を匿名の誰かに述べることが出来るのか。

そうした疑問というより、その行為への情念が湧かない。

私は、つねに、誰かへ話しかけたいと思う。
それは、具体的な誰かだと思う。

今日も異常に暑い。


三石博行のホームページ
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2010年8月12日木曜日

第一期吉田民人社会学理論 社会・生活空間の構造-機能分析

三石博行


第Ⅰ期吉田民人社会学理論とは

吉田民人は、『情報と自己組織性の理論』(東京大学出版会 1990年7月)のはしがきで1950年代から60年代の自らの研究生活を「第Ⅰ期」と分類している。吉田民人30代の研究、つまり1967年に吉田が人間社会科学としての「情報科学の構想」を提案し展開していくのであるが、自己組織性情報科学の前段階の吉田民人の人間社会学の問題関心によって構成されている研究を第Ⅰ期の吉田民人の人間社会学研究課題と呼ぶことにする。

これらの研究課題は、その後吉田民人の弟子達の協力を得て編纂された『情報と自己組織性の理論』と『主体性と所有構造の理論』」(東京大学出版会 1991年12月初版)に収録されている論文に代表されている。

この第Ⅰ期の研究課題の一つに、主体的実存者としての人間とその人間が構築し続ける社会に関する理論的解明を挙げることができる。

この研究課題を進めるために、まず社会構造機能分析に関する先行研究を調査し、それらの理論的課題を検討した論考が、以下の論文としてまとめられたと考えられる。

1、「A・G・I・L修正理論(その1)」
2、「動機の社会学的理論」
3、「力関係とモラール -組織動因の問題-」
4、「集団系のモデル構成 -機能的系理論の骨子 」
5、「社会関係の構造-機能分析 -伝統的テーマの再検討 」
6、「機能集団の一般理論 -その基本的骨子-」
7、「行動科学における〈機能)関連のモデル」

吉田民人にとって、アメリカ行動主義とその社会学的展開であるパーソンズ社会学は、社会学先行研究の中でも乗り越えなければならない大きな壁(課題)であった。

それらの理論的考察を経て、主体的実存者としての人間とその人間が構築し続ける社会に関する理論的解明を課題にした。「A・G・I・L修正理論(その1)」に中で、「パーソンズ教授への提言」いう副タイトルを付ているように、吉田は新しい構造機能分析を提案するにあったって、当時、日本の社会学研究に絶大な影響を与えたアメリカ機能主義・パーソンズとの対決を避けて通ることは出来なかったのであろう。
そして、吉田民人がたどり着いた機能-構造分析は、当時、日本には紹介もされなかった(ようやくヨーロッパで生れようとしていた)ポスト構造主義の展開に近い理論であった。

その新しい吉田社会学の理論が
8、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」 
にまとめられることになる。

記号のもつ通時性の時間変化、それに影響されるシステムの自己組織性、確かに、吉田民人はポスト構造主義と同じ方向で、記号=情報概念を展開したが、ポスト構造主義のアンチ歴史主義でなく、むしろ汎進化論を持ち込むことで、記号の進化形態としての社会情報を問題にしていった。

つまり、言語や社会情報は情報概念の特殊形態として理解できる情報科学の概念の検討を始めることになる。その意味で、第Ⅰ期は、第Ⅱ期の吉田情報科学論の前哨段階でもあったといえる。

さらに、この第Ⅰ期の主体性に関する考察は、若い吉田民人の世代の呪縛であるマルクス主義からの脱却を試み展開であったともいえる。この世代、つまり1950年代から60年代のインテリにとってマルクス主義とソビエト社会主義や中華人民共和国は、特に人間社会学を研究する人々にとって大きな壁であったに違いない。

フランスで状況派が生れるように、日本で主体論が形成されていくのであった。その大きな流れの中に、つまり当時の社会運動や思想運動に影響受けながら、独自の人間社会学の地平を構築する闘いが、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」の論文から始まる『主体性と所有構造の理論』」に収録されているのは偶然ではない。



三石博行のホームページ
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/


2010年8月4日水曜日

吉田民人社会学理論第一期前半の研究に関する検討

三石博行


第1回吉田ゼミナールの開催

2010年7月31日から8月3日の間、長岡科学技術大学工学部 経営情報系社会経済システム講座 綿引研究室で開催。

テーマは吉田民人著『情報と自己組織性の理論』 東京大学出版会 の第1章から第2章まで、「吉田民人社会学理論の第一期前半部分に関する検討」


吉田民人社会学理論の第一期とは

30代前半の吉田民人の研究資料
1、「生活空間の構造-機能分析 -人間的生の行動学的理論- 」 
2、「動機の社会学的理論」
3、「社会関係の構造-機能分析 -伝統的テーマの再検討 」
4、「A・G・I・L修正理論(その1)」
5、「集団系のモデル構成 -機能的系理論の骨子 」 
6、「行動科学における〈機能)関連のモデル」
7、「力関係とモラール -組織動因の問題-」
8、「機能集団の一般理論 -その基本的骨子-」

吉田民人論文リスト
http://sites.google.com/site/mitsuishihiroyukihomupeji/yoshida-min-jin-ronbun-risuto


以上

 
吉田民人の社会学理論第一期とは、30代前半の吉田民人が、これまでの(1960年代前期までの)社会学理論、特に行動主義から展開されてきた行為論を土台にしたパーソンズによって集約されるアメリカ社会学の潮流とドイツ(ヨーロッパ)社会学の流れ、関係論による機能-構造主義的展開を統一的に解釈し直し、吉田民人独自のミクロ社会学理論、つまり動態的機能-構造分析モデルを提案し、行為、関係、集団の伝統的な社か学の課題を一貫した理論的地平で解釈展開した時期であるといえる。

この理論的作業は、その後の吉田民人社会学、つまり自己組織系の情報科学としての社会学理論の黎明期をなし、また、その理論の前哨段階を構築したといえるだろう。


今回、第1回吉田ゼミナールでは、資料2と3に関して、会読を行い、それらの内容を理解、検討解釈した。つまり、「行為論」と「関係論」に関する学習会となった。


第1回学習会での議論内容

学習の方法

1、困難な文脈の理解の方法として、具体的な事例をもって説明する。特に、自分たちの研究活動のフィールドでの課題に当てはめ、吉田民人の述べている記述の内容を点検し、検証した。

2、吉田民人独自の用語、「吉田民人用語」の定義を明確にし、その定義に即して、吉田民人が展開する論理を検証した。まるで物理学のテキストを読むように作業を進めた。

3、理解不可能な文章に関しては、検討課題として置いた。つまり限られた研究時間の都合上、その解明に全力を注ぐことをやめた。


吉田民人社会学理論の第一期前半についての簡単な要約

1、吉田民人の社会学理論第一期は、その後の吉田民人社会学の理論である。つまり、この理論作業は、その後の吉田社会学の自己組織系の情報科学の前哨段階に当たるものである。

2、30代前半の若き吉田民人は、パーソンズの系(システム)理論の非ダイナミズムを乗り越えるために、独自の方法で、動態的構造-機能モデルを模索していた。その思考過程が、吉田理論第一期の理論作業の目的である。

3、これらの自己組織系情報科学(これまでの資源論的偏向性を乗り越え、情報概念をもつ社会学の構築を試みた吉田理論第二期の吉田民人独自の社会学の地平の構築をこの吉田理論第一期の分析から理解することが出来るだろう。

以上、簡単に、第1回吉田ゼミナールの私の感想を述べておく。