2010年5月13日木曜日

理性と情念の両方を持つ人間の姿 パスカルから

三石博行


理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)

▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。

▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。

▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。


「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)


快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性

▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。

「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)


▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。

▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。

▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。

▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。


人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している

▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。

▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。

▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。

▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。

▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。

▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。

▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。

▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。


「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)



人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である

▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。

▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。

▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。

▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。

▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。

▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。

▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。

▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。

「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)



道徳とは人間の傲慢さへの戒め

▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。

▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。

▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。

▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。

▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。


人間的行為と呼ばれる狂気

▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。

▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。

▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。

▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。

▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。

▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。

「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)



人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。

▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。

▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。

▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。

▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。

▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。

▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。


「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)


参考文献

1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
 http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32 


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