2010年5月13日木曜日

自己を罪びとと思っている義人と自己を義人と思っている罪びと

三石博行


何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。


逆説的に成立する人間性のあり方(真実)

▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。

▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。

▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。

▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。

▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。

▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。

▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。

▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。

▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。

▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。

▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。

▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。

▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。


罪びと

▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。

▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。

「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)



「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件

▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。

▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。

▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。

▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。

▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。

▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。

▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
 
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。

「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)


諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界

▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。

▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。

▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。

▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。

▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。

▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。

▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。

「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)


参考文献

1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
 http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32 


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