2010年5月13日木曜日

魔女狩り裁判を引き起こす世界観

三石博行


思い込みを生み出す人間と社会の思想的背景

▽ 我々人類が歴史の中で繰り返される虐殺行為、ユダヤ人虐殺、魔女狩り、民族浄化、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々、戦争行為以外に、多くの人々が犠牲になってきた。これらの虐殺を、私達は自分の日常生活と無縁の世界で行われた蛮行(ばんこう)であると考えた。

▽ しかし、現実は私たちの日常生活の中で発生している普通の人々が繰り広げた行為なのである。戦争という極限状態の中で繰り広げられる殺戮と違い、自分達の生活を守るため、それを破壊する者を取り締まり、未然に被害を防ぐために行った(人間的な)行為なのである。それだからこそ、これらの虐殺は過去の歴史や他国の話ではなく、いつでも将来、我々の社会に起こる現実なのである。そのことを理解しなければならない。

▽ 前回、こうした虐殺の背景と日常生活の中で生じる「いじめ」や「排除」が、その被害の規模は違っても、共通する原因によるものであると考えた。つまり、我々が「うわさ」や「他人への間違った思い込み」によって、他人に対して間違った行動を取ることがある。その間違った判断や行動の原因を徹底的に理解し、それを防ぐ対策(生きたかの技術)を身に付けなければならないことが課題となっている。

▽ 今回は、中世社会の世界観に深く関係している「魔女狩り裁判」を引き起こす社会観念(社会全体に共通して存在している意識)について考え、その考え方の何が「魔女狩り」の引き金になったのかを考える。そして、その考え方を批判し、点検するために、西洋社会では何が行われたのか。それは、現代どのように継承されているかを考える。



魔女狩り裁判の起こった中世ヨーロッパ社会の人々の意識(迷信と思い込みの起源)

▽ 「魔女狩り裁判」を引き起こす社会での人々の意識とはどのようなものなのか考えてみよう。「あの人は魔女だ」という「うわさ」を信じるためには、「魔女が存在する」ということと、人のうわさを疑わないという二つの要素が挙げられる。

▽ まず、「ひとのうわさを(簡単に)信じる」意識であるが、その意識は、今の時代でも、今の日本でも、つまり我々が日常的に何の疑いもなくよくやっている行為である。つまり、我々は日常生活の中でいつの間にかそう思い込んでいる。そう思い込んでいる根拠は「誰かがそう言っていた」とか「何となくそう思っていた」という主観と呼ばれる意識である。この思い込みを起こす主観的な意識は何も特別な意識ではなく誰でも持っている。どこの社会でも人々は自然にこの意識を持っている。つまり、そう思っているという主観的な意識は、全ての人々の生活の中に自然に存在している人間的な意識であると言える。

▽ しかし、現代の科学技術の発達している私達の社会で、もしある人が誰を「魔女だ」と言っても、誰もその人の言っていることを信じないだろう。何故なら、「魔女が現実に存在する」とまじめに信じる人は殆どいないからである。「魔術」もそれを使う「魔女」も非現実的な世界の話であり、迷信だと受け止められるだろう。そもそもこの社会では「魔女がいる」とか「魔術をつかって病気を流行らしている」ということはあり得ないこと、成立しない出来事である。私達の社会では、まじめに「魔女」の存在を信じる人がいない以上、「魔女狩り」は起こらないのである。

▽ 魔術を使い、ほうきに乗って空を飛ぶなどというのは「魔女の宅急便」(宮崎駿の漫画、1989年7月に東映で上映された。)や家庭の主婦として優しいご主人を助けるために魔法を使う可愛い奥様の話し「奥様は魔女」(1942年アメリカで上映された映画、1964年から1972年テレビドラマのシリーズでアメリカや日本で上映される。2004年にTBSで日本版のテレビドラマが放送される。)のように漫画や映画の話として存在する。

▽ 現代社会で、魔女が存在しないと我々が確信しているのは、魔女が使う超能力が「科学的な根拠」を持たないからである。つまり、現代人は「魔術」という非科学的な考え方を信じていないことになる。そして、魔女狩りをしていた中世の人々は「魔術」を信じていたことになる。その意味で、ヨーロッパ中世社会で行われた「魔女狩り裁判」は、現代社会では起こりようのない話となる。

▽ 従って、西洋中世社会での「魔女狩り」と同じような誰かを「魔女だと信じて」危害を加える歴史は、さすがに現代社会では起こらないのであるが、もう一つの原因である「うわさを信じてしまう」ことによって起こる虐殺行為は、前回説明したように、ユダヤ人虐殺、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々と、魔女狩り裁判以降も、我々の社会の歴史の中で繰り返される。

▽ しかし、仮に現在、つい60年前に行われたナチスドイツのユダヤ人虐殺と同じような民族浄化がバルカン半島(クロアチア人虐殺)やアフリカ(ツチ族虐殺)で起こるなら、国際社会は「うわさを流し民族浄化をおこなう」蛮行(ばんこう)を許さないだろう。その意味で、21世紀の我々の社会は、魔女狩り裁判を行い多くの無実の人々を殺害した時代、異教徒や異民族を虐殺した時代とは異なるのである。そして、意図されて流れる「うわさ」や悪意をもった「うわさ」に対して、批判的に対応できる社会となっている。

▽ 例えば、前回説明した今から87年前の1923年9月1日におこった関東大震災時の在日朝鮮人(韓国人)虐殺事件、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された事件のような在日外国人への迫害事件は、1995年1月14日の阪神淡路大震災時では起こらなかった。確かに、阪神淡路大震災直後に「在日外国人が反倒壊した家に侵入して窃盗を働いている」といううわさが立った。しかし、そのうわさを新聞は批判した。1923年から72年を経て、民主主義国家に成長した日本社会の良識ある市民が得た人権思想がその蛮行(ばんこう)を食い止めることが出来たのである。

▽ 「迷信を信じない科学的精神」と「噂などのような不確かな情報を簡単に信じないで、それを検証する批判精神」の二つが、魔女狩りとそれに類する悲惨な歴史を繰り返さないための力となっていることを理解できる。


中世社会の人々の意識 感覚中心の世界と魔女の存在

▽ 中世社会の世界観、古代社会から自然災害に対する恐怖、その対応を祈祷によって行っていた時代、占いや祈祷が政務として存在した時代、日本でも古代社会は祈祷師である卑弥呼が国を治め、また平安時代にも陰陽師(おんみょうじ)が政務(古代日本の律令制の下で中務省に陰陽寮(おんみょうりょう)という国の業務を司る官職)が大きな役割を果たしていた。

▽ 科学技術の進歩した現代社会から見れば、自然災害、例えば地震の原因もプレートの移動によって生じる現象であると理解され、その予知も研究されている。また台風の原因もその到来の予知も気象衛星によって正確に可能になっている。

▽ つまり、科学技術が進歩した社会では、ペストの原因はペスト菌であり、その感染経路はねずみと蚤であることや、旱魃(かんばつ)やエルニーニョ現象(南方振動とも呼ばれ、インドネシア付近と南太平洋東部では大気圧が異なることによって、赤道太平洋の海面水温や海流が変動しそれが気象へ影響を与える現象、日本では梅雨が長引き冷夏(れいか)と暖冬(だんとう)傾向になる気象現象で異常気象ではない)も科学的に解明されている。

▽ しかし、「現在でもアジア・アフリカ・南北アメリカの近代化の遅れた社会、例えばインディオやインディアンやニューギニアの原住民社会では祈祷や占いが重要な社会的役割を持ち、部族長や酋長と呼ばれる人々の多くは祈祷師である場合も多い。日本を始め先進国でも、伝統行事として五穀豊穣(ごこくほうじょう)や大漁追福(たいりょうついふく 大漁を願って仏事を営むこと)から天候や個人の吉凶(きっきょう)を占う事や、「払い清め」や呪術(じゅじゅつ)が社会に残っている。」(Wikipedia) これらの神事、占いや祈祷は古代社会からの名残であり、科学技術の進歩した社会でも、市民は縁起を担ぐために活用している。しかし、古代や中世社会では、この行事が国の政務として執(と)り行われていた。

▽ 祈祷や占いが社会で大きな影響力をもっていた社会では、魔術が信じられ、恐れられていた。そのため、「あの女は夜に魔女と話をしていた」という噂もありえる事実となる。「その女が、魔女から渡された毒を井戸に入れた」ので「ペストが流行った」という話もその時代の人々の意識からは決してあり得ない話ではなかった。

▽ 魔術や占いを信じる世界は、一言で言えば、科学的な考え方や理論がないのであるが、そもそも、我々の語る科学的な考え方も17世紀に西洋社会で芽生え、18世紀にヨーロッパで発展し、19世紀に生産制度に応用され社会化し、20世紀に巨大な産業システムを作ることで社会制度の中心となったのである。つまり、科学的な考え方がこの人類の歴史に登場したのは、精々(せいぜい)400年間未満なのである。それまでの社会は占いや祈祷によって社会が動いていたのであった。

▽ 近代・現代社会以前の社会での人々の意識では、世界の理解は、現在のように科学的機器があったわけでなく、直接人が観たもの、感じたものが世界であった。その意味で天動説が成立していた。現在のように、X線解析で物質の構造を調べ、スペクトル分析で分子構造を調べ、またクロマトグラフィーで分子を判明することもできないのである。

▽ 人間の直接見えるものが世界であった。見えるもの(形相)をもとにしてものの本質(存在)を理解する、謂わば(いわば)直接観察が中世までの科学(神学や哲学)の世界を知る方法であった。そのために中世では天体観測用の望遠鏡や占星術(せんせいじゅつ)用の道具が開発された。

▽ 世界を見ている感覚を前提にして成立している自然学が中世までの自然科学の姿であった。そのため、感覚を疑うことはなかった。つまり、感覚を疑うことは、自然観測を唯一の手段を疑うことになるのである。

▽ 感覚した世界を絶対条件に成立している世界、中世までの世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、その存在を否定することは出来ない。つまり、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、その本人にとってはリアルな出来事(妄想の多くがリアルである)である以上、現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」ことが現実の話になっていくのである。

▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべきして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえた。

▽ 例えば、皆さんが子供のころ、闇が怖くなかったかを考えてみよう。あの闇の中から登場する恐ろしい化け物や幽霊(ゆうれい)は、自分の持っているイメージであるにもかかわらず、子供はそれを怖がっていた。彼らの意識は、中世社会の人々の意識と同じなのかもしれない。



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

0 件のコメント: