2010年4月29日木曜日

人間と倫理2 「人は天使でもなければ禽獣でもない」(パスカル)

三石博行


1、もっとも単純な人間観、性善説と性悪説

▽ 孟子は人の性(人間の性格)は、本来、善きものである。全ての人は生まれながらにして善き性格を平等に与えられている。しかし、その善き人の性は社会の環境によって汚され、不善(よくないもの)になると主張した。この考え方を性善説と呼んだ。

▽ この性善説を荀子は批判し、それと逆の説である性悪説を主張した。つまり、人の性を悪と考え、その本来悪としてある人間の性格を人々は努力し善へと変えていく。その努力が学習であり反省である。社会は、人々が正しく生きること、善行を行うために制度を作っているのである。

▽ 性善説と性悪説という二つの極端な人間性に関する評価を基にして、それらの説から導かれる社会倫理の姿を想像してみた。二つの説から考えられる「学級崩壊のクラス」と「生産地偽造問題を起こした会社での社員の対応」の二つの具体的な課題を考えた。

▽ 例えば、演習1で取り組んだ「学級崩壊」のクラスと騒いでいる生徒への対応であるが、性悪説に従うなら、学級崩壊を起こしているクラスの生徒たちに対しては、騒いでいる生徒を隔離(クラスに入れない)し、懲罰を与え、授業時間に騒ぐことが「悪」であることを教える方法を取ることになる。その逆に性善説に従うなら、騒いでいる生徒を説得する。それでも騒ぎが収まらないなら、騒いでいる生徒を隔離して別のクラスで授業を受けさせる。つまり、性悪説のように懲罰のために隔離するのでなく、その生徒の本来備わっている善き性格を導くために、外部と遮断する方法を選んだ。

▽ 例えば、演習2で取り組んだ「生産地表示偽造問題を起こしている会社」で働く社員の取るべき姿勢を課題にした。社員は自分の雇用が危機に晒(さら)されても、会社幹部の不正を社内で問題にするべきであるという考え方である。この姿勢は、会社で働く以上、そこで生産される商品への責任の一角を一人の社員として持っている。その責任を果たすことが社会的倫理であるという考え方に支えられている。もし、会社がその不正を隠蔽し、また会社内部の批判、点検活動の呼びかけを抹殺する場合、極端な場合、批判した社員を解雇した場合、社員は会社の不正を内部告白する必要があると考えるだろう。

▽ つまり、この演習2の場合には、会社の不正を批判する社員が、性悪説を信じているなら、会社幹部への社会的懲罰を求めることになる。もし、性善説を信じるなら、会社幹部と話をし、彼らが本来持っている人間性の善の姿を引き出し、会社の不正を反省させる行為に出るかもしれない。

▽ 以上、前回2回に亘って、問題を起こしている人々への対応に関する考え方を検討してみた。


2、「両方(理性と情念)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」パスカル 『パンセ』(412)

▽ 実際の社会問題や人間的問題は、性善説や性悪説の二つの立場から解決できるだろうか。性善説や性悪説は、極端な二つの見解であり、人の性は本来悪でもなければ善でもない。人の悪の起源を欲望とするなら、欲望を持たない人間はいない。そして逆に人の善が理性であるなら、理性だけで生きている人もいない。つまり、人間は理性と欲望を同時にもった存在である。


「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル「パンセ」(412)


「もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)

▽ もし、人が何か(立派な人、お金持ちの人,偉い人や強い人)を夢みてそれに成りたいと思わなければ、人は努力をすることはないだろう。人が努力をするのは、欲望があるからだ。

▽ しかし、欲望を悪とする考え方は、人間本来の姿を無視した、「生きることを欲することなく生きる」「愛することを求めることなく結婚し、家族をつくり、子育てをし、家族や友達と過ごす」という不可能な要求を突きつけることになるだろ。

▽ つまり、「欲望を捨てて生きる」という不可能な目標は、すべての場合、失敗すると思われる行動を要求することになる。極端な禁欲主義は、自然な人間の行為を無視し、拒絶し、批判することになる。

▽ もし、人間の欲望を抑えることに成功した社会があったとすれば、その社会では、人々は働く力も、家族をもつ努力も、立派な家を建てる気持ちも、レストランで美味しい食事をする気持ちも、美術館で美しい絵や彫刻を鑑賞する気持ちも、そして学校で勉強する気持ちも失うだろう。

▽ もし、欲望(情欲)を完全に捨て去ることができれば、人を愛することも、逆に人から愛されたいと思うこともないだろう。家族をつくり、子供を育て、家庭を守り、友人や近所の人々と楽しく過ごす喜びを求めることもないだろう。



「もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)

▽ しかし、もし人が自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するために手段を選ばない行為をしたら、社会に大混乱が生まれるだろう。

▽ 例えば、大学の講義で使うための教材を購入するのにお金が欲しいと思う。教材を手に入れる行為は大学で学ぶために必要な行為であり、社会はその行為を評価している。同じ千円でも、アダルトヴィデオを買うより、「大学の授業で使う教材を買う」ことを社会は評価する。何故なら、「教材を買う」ことで、有意義なお金の使い方をしたという評価が生まれるからである。

▽ しかし、もし、そのためにお金をどこかで盗んできたら、例えば、買い物帰りの主婦のバックの中の財布からお金を盗んだなら、その盗んだお金で「教材を買って」いたら、それは犯罪となる。お金を盗む行為は、仮により豊かな知識を学ぶために必要とする材料(教材)を買うためであろうと、許される行為ではないことは誰でも知っているのである。

▽ 自分の欲望を、仮にそれが高い夢や理想であっても、間違った手段、社会が認めない行為によって、それを実現しようとするなら、それらの行為は非難される。社会は、その行為の目的だけなく、その行為そのものを認めていないのである。自分の欲望を満たすことが悪なのではなく、そのために社会で許されていない行為を選択したことが悪として評価され、非難されるのである。

▽ すべての人は自分の欲望を満たすことが許されている。しかし、その場合には、欲望を満たすための行為が、社会の規則や社会の習慣に違反してはならない。もし、人々は自分の欲望(情欲)を満たすために、社会の規則に従わないなら、その社会は混乱し、日常的に犯罪や殺人が社会の中に蔓延(まんえん)するだろう。

▽ そして、結果的に、人々はそうした無秩序の混乱に巻き込まれ、犠牲になるのである。自分の欲望を満たすために許した行為が、自分の生命を奪い、生活を破壊する結果に繋がるのである。



「だが、両方(理性と情欲)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル 『パンセ』(412)

▽ 情欲を満たすには理性に即して行動しなければならない。欲望を満たすためには社会で認められた手順を踏まなければならない。例えば、お腹がすいた人は、空腹を満たすためには、お金を払って「サンドイッチ」を買わなければならない。もし、コンビ二エンスストアーで「サンドイッチ」を盗んだら、それは犯罪となる。

▽ 自分の理想や夢を実現するために、人々は社会が認めた手段、社会の決まりにそって、行動しなければならない。そうすることによって情欲と理性は共に共存することが出来た。だが、その共存は相互に闘いあいながらのことなる二つのベクトルをもった生命活動の共生である。

▽ その結果、欲望は人間社会を発展させてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、社会的分業が生まれ、専門的職業が発生し、社会制度は高度に発展し、巨大な生産力を社会は備え、科学技術は発展し、合理的な生産ラインを作り、人々は短い労働時間で多くの生産物を生み出すことが出来るようになった。人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。

▽ 社会は、人間達が作り出した人工物の素材によって、石器時代、土器時代、青銅時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。

▽ だが、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。

「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)



3、「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)

「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。」パスカル『パンセ』(358)

▽ 理性と情欲の二つの人間性の二律背反運動(異なる二つの要素が互いに作用しあう運動)によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。

▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。

▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。

▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結した。


「天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル『パンセ』(358)


「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」パスカル『パンセ』(347)


▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。

▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。

▽ だが、同時に人類は人類を滅ぼす核兵器を開発した。偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。


「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)

▽ 天使になろうとして禽獣になる人間の姿。理性と欲望(情欲)の二つの本性をもって存在していている人間。その一方を否定したとき、否定された他の一方から復讐される運命。それが人間の姿なのだ。

▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を殺害することを英雄と呼ぶ。殺戮(さつりつ)行為には、正当な理由と不当な理由が歴史の中では常に付けられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺と呼んできた。


「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)


▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。

▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。

▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。

▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮(さつりく)兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。

▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。

▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。



4、「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)

▽ 理性と情欲の二つの本性からなる人間性、狂気として人間性の理解を前提にするとき、人は、どのようにしてそれを受入れ、それと向き合えばいいのだろうか。

▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。

▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。


「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園になる(実る)全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木(の実)だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ、呪われた存在となった。」(Wikipedia)

▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼んだ。

▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。

▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。

▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。

▽ このパスカルの原罪に関する解釈は極めて興味深い。それは、人が宿命的にその人の狂気や原罪を自覚しつづけるには、つねに休むことなく、思考し続けなけなければならないという結論を導くのである。
 
▽ 休むことなく思考し続けて人はその悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命から救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。


「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)

▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。

▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。

▽ 何故なら、人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成しているからである。

▽ 人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。


参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2010年4月28日水曜日

1980年、パキスタンから激動するイランへ

三石博行

ムジャーヒディーン(mujāhidīn)とエチオピアのエリート船員

▽ その日、私は寝坊してしまった。朝早く立つバスに乗りそこなった。パキスタンの西部にあるクエッタの町は、砂漠の中にあるオアシスの町だ。アフガニスタンに近く、多くの人や物資がアフガニスタンからやってくる。パキスタンの鉄道にのってこの町まで来たが、これからは、バスにのって砂漠を越えて、イランに向かう予定だった。

▽ ホテルの人が、もう一台バスがイランの国境近くの町まで出ると教えてくれた。タクシーに乗って、そのバス停まで急いで行った。パキスタン人以外の旅行者は、英語の話せないスペイン人、二人のエチオピア人(二人とも外国航路の船員でバカンス旅行中)と私の四人だった。バスをまっていると、大きな体格の男達がたくさんやって来た。聞くとアフガニスタンから来たらしい。

▽ これからの予定を確認する。クエッタからバスで約36時間かけてかイランの国境まで行き、そこで別のバスに乗って、イランとパキスタンの国境の町へ向い、その町でさらに一泊してイランに入国する。そこからイランの国境の町ミルジャワに向かう。そのミルジャワからさらにザヘダンに別のバスに乗って行く。ザヘダンからテヘラン行きのバスが出るとのことだった。

▽ クエッタからのバスが出発した。おおよそ二日間バスに揺られ、砂漠をわたる。バスは木製の車体で、サイドの荷物入れにガソリンをドラム缶を二つ積み、がたがたの山道をすごいスピードで走る。すごいゆれで身体が浮き上がり、そして、そのまま落ちる。長くのっているとお腹がおかしくなる。運転手は、噛みタバコを口に入れ、時より、車の窓から褐色のつばきを吐きながらハンドルを握る。車内はすざましいボリュームの異国情緒のパキスタン音楽が鳴り響く。

▽ バスに同上したアフガニスタンの乗客は「ムジャーヒディーン」(侵略者と戦うイスラム義勇軍)の兵士だった。バスは時間が来ると止まり、男たちは外に出て、一定の方向を向いて座りお祈りをする。
▽ 当時、アフガニスタンのゲリラはソビエト連邦の侵略と戦っていた。それを軍事的にアメリカやヨーロッパの国々が支援していた。バスの中では、若いイスラム教徒のムジャーヒディーンの兵士がたどたどしい、ほとんど理解できない英語で話しかけてくる。

▽ 「日本人は友人だ。ドイツ人も友人だ。しかしソ連人は敵だ。」と言っていた。彼は政治の話を始めた。すると、二人のエチオピア人は社会主義者らしく、ソビエトを批判し社会主義を批判していたムジャーヒディーンの若者に反論しようとした。私は危機感を感じた。反射的に「その議論をすれば、殺されるかもしれないことが解らないのか」と早口の英語で彼らの口を塞いだ。

▽ もし、ソビエトと命を掛けて闘っている若いムジャーヒディーンの兵士が、我々の中の二人がソビエトの手先ではないかと疑ったとき、何がそこで起こるだろうか。そうした心配は、この無邪気なエチオピアの青年達には通じなかったか。それから、一切、政治の話をしなかった。いや、私が彼らにそれをさせなかったのだ。

▽ バスは春に起こる砂漠の嵐の中、雨が降り注ぎ、水が谷から流れる中を、猛スピードで走った。稲妻が横に走る。その壮絶な風景。多分、このバスに当たると、我々は、あのドラム缶に詰めたガソリンもろとも爆発して死ぬのだろうと思った。

▽ イラン国境の手前の小さいパキスタンの町でバスは止まった。その夜は、その町の小さな宿屋で一泊した。


アフガン難民とフランス人の女の子

▽ 朝早く、朝日を見ながらパキスタンの国境からイランの国境の町ミルジャワに向かった。三、四時間してイランの国境の町ミルジャワに着く。もうここはイランだ。インドからはるばる陸路でイランまで来た。イランに入ると立派なバスが待っていた。道路も舗装されていた。イランがバスパキスタンより随分豊かな国であることがすぐに感じられた。

▽ ミルジャワからザヘダン行きのバスに乗り換えることになった。ザヘダン行きのバス停には、すでに20名ぐらいの旅行者がいた。ヨーロッパから来た旅行者、オーストラリア人、ブラジル人と日本人の私だ。テヘラン行きのバスがやって来た。旅行者がバスに乗ろうとしたとき、少年のような体つきをした、そして顔だけが老け込んだバスの車掌が、バスの奥の椅子に座るように外国人の旅行者に命令した。かなり威圧的で一方的な命令だった。

▽ すると、フランスから来ていた女の子が、その命令に反して、自分の好きな席に座った。車掌男は、彼女に命令を繰り返した。その女の子は二人と男の子と一緒に旅行をしていた。連れの二人も、その女の子の行動をやめさせようとしていなかった。

▽ 車掌は激怒し、彼女につかみかかった。そして殴りかかった。二人の男子はそれを止める様子もない。私は反射的に、車掌に向かって行った。危険な場面であった。私が登場したことで、車掌はフランスから来た女の子に手を振り下ろすことはしなかった。しかし、私と彼女に出て行けと叫んでいた。イランのペルシャ語が理解できないので、車掌が正確に何を言ったのか理解できなかったが、出て行けというすごい剣幕の身振りから、これは大変なことになったと理解できた。

▽ 砂漠の町ミルジャワからの町から今出られなければ、多分、明日のバスを待つしかない。一日、旅が長くなる。予定が変更される。これは大変だと思った。そして、とっさに「君は、ここがどこだと思っているのか。ここはフランスではないイランなのだ。そのことが理解できないで、この国を旅行するな!」と大声でフランス人の女の子に怒鳴った。その私の態度を車掌は見ていた。そして、私が女の子を叱ったと思い、私たちを許し、外に追い出さずに、席に戻るように命令した。

▽ 女の子は不満そうな態度だった。彼女は恐怖に慄いていたが、それでもどこか、まだ強気な表情を残していた。私が演技でもフランス人の女の子を怒鳴ることで、車掌は許してくれたのだ。私は、その場を、何とか切り抜け、砂漠の町に置いてきぼりにされる状況から逃れることが出来た。安心した私もフランスの女の子もバスの後ろに座席に大人しく座った。

▽ 「君は何を考えているのだ。ここは一歩誤ると命すら保障されていない情況を抱えた国なのだ。 君はそのことを本当に理解しているのか。」と、もう一度彼女にゆっくりとした口調で話す。しかし、彼女は私に「ありがとう」の一言も言わなかった。ただ不愉快そうな視線を送っていた。そして、また自分の危険な状態を見て見ぬ振りをした二人のフランス人の男達の横に座った。「君達は、本当になんという人々なのだ」と私は彼らにいった。彼らから何もことばは返ってこなかった。それから、私は彼らとは一言も話しをしなかった。そして、「このバスから降りたら、生涯、彼らに会うこともないのだ」と思った。

▽ バスはミルジャワのバス停で少し待った。すると我々のザヘダン行きのバスに三、四十名のチャドルを着た女性と子供がバスに乗り込んできた。うわさによるとアフガニスタンからの難民だと言うことだった。彼女らがバスの前方に座り終わると、バスはザヘダンに向かって出発した。


旅をして異文化を理解すること

▽ 当時(1980年)、イランやアフガニスタンは政治的に非常に緊張していた。アフガニスタンはソビエトと戦争をしていた。国は内戦状態だった。アフガニスタンの周辺国、パキスタンやイランはアメリカの要請を受けて、アフガニスタンのイスラム義勇軍(ムジャーヒディーン)がゲリラ活動をしていた。
▽ イランは16世紀以来続いたイラン王国がイラン・イスラム革命によって1979年に崩壊し、イラン国内も不安定な状況であった。 新しいイラン・イスラム共和国はこれまでの親米路線を変更し、反米的な政治姿勢を打ち出していた。

▽ 一人の旅行者にとって激動する国際政治事件は関心のない出来事であろうが、ひとたび、その現場に居ると、好むと好まざるに係わらず、その政治的な事件から生み出される状況に呑み込まれるのである。その恐ろしい状況は、一人の人間の努力で乗り越えられるものではない。

▽ その時、政治的に不安定な地域をめぐる旅は命がけになる。異国の社会や文化的な状況を正しく理解しなければならない。あのフランスの女の子のように、自分の国の常識や考え方を、旅先の国に当てはめることによって、とんでもない事件に巻き込まれるのである。

引き裂かれた民族と作られた国境

三石博行


▽ 私は、今から30年ほど前、1980年にリックを一つ背負って、インド、バングラディシュ、パキスタン、イランの国々を鉄道やバスを経由しながら陸路で旅行をした。若いからこそできる旅で、その中で多くのものを見た。

▽ インドのデーリーから汽車に乗ってパキスタンへ向かう途中、アムリトサルにあるシーク教の黄金寺院に立ち寄った。アムリサルは、インド北西部にあるパンジャーブ地方のシーク教の聖地であり、1919年アムリットサル事件でも有名である。アムリットサル事件とは、イギリスのインド植民地政府が交付した法律で、テロ組織に参加していると疑われる人を令状なく逮捕し、裁判なくして投獄できる制度であった。この法律に反対するために集まった非武装の市民にインド植民地の軍隊が無差別射撃し多数の市民を射殺した事件である。そのため、アムリットサル事件のあった場所は、インド独立運動を牽引した非暴力抵抗運動の始まりの地として多くの観光客が集まる。

▽ パンジャーブ州(インド北西部)は、公用語としてヒンディー語と共にパンジャーブ語が使われている。しかも、隣接するパキスタンにも同じパンジャーブ州がある。そして同じ言語、パンジャーブ語が話されている。この二つの地方は、宗教上の違いを理由にイギリスからインドとパキスタンがそれぞれ1947年に独立したときに、インドとパキスタンに分離されたのである。その後、1948年にカシミールの領有権をめぐり二つの国は戦争を起こすことになる。インドとパキスタンに分離された一つの民族、パンジャーブ人は、インド人とパキスタン人として争うことになるのである。

▽ 私はインドからインダス川を渡りパキスタンに入った。パキスタンで宿を取った。その日の夕方、安ホテル待合室の椅子に座って夕日を眺めていた時、同じ宿泊者の二人のパキスタンの青年と会った。二人は兄弟だった。弟のほうは二十歳前後だろうか、まだ若かった。彼がたどたどしい英語で私に話しかけてきた。

▽ 「君は、私達の民族の歴史を知っているか。インダス川の向こうに自分たちと同じ民族がいて、同じことばを喋る。しかし、国が違う。それだけでない。我々の文字と彼らの文字が違う。我々はアラビア風になった文字を使い、かれらはヒンディー風の文字なのだ。どうだ、この大変さが理解できるか。どうして、自分達はこんな目にあうのだ。同じ民族が、どうして違う国に所属し、違う文字を使わなければならないのだ。」

▽ 彼の目には怒りが漲(みなぎ)っていた。そして、何もしらない日本人の私に、その怒りの目は突き刺さるように向けられていた。私は困惑し、ことばを失っていた。その青年の気持ちを理解するにも、理解できる土台がないのだ。迷惑そうに彼の質問に答える私を見ていたか、三十歳前後の彼の兄が、心配そうに近づいて来た。私に済まなそうな視線を送りながら、弟に言った。

▽ 「もういい、もういい、彼(日本人)にそんなこと言ったって、解るわけがないだろう。」とやさしく、弟の肩に手を掛けて、弟を自分達の部屋に連れて行った。

▽ 私は、一人の青年の深刻で苦しそうな目を忘れることが出来なかった。彼は、引き裂かれた民族の歴史をそのまま背負っているのだろうか。そんな深刻で、どうしようもない現実を私は経験したことはない。日本が二つの国に分断され、家族に会うにも会えない。そんな経験をしたことのない私に、彼の悩みが解るわけがないのだ。

▽ 同じ民族が二つの国に分断されていると言えば、東アジアの国では韓国と北朝鮮、1940年から1990年まで続いた東西ドイツを思い出すだろう。しかし、それらの国々ばかりではない。世界には、私の知らない多くの民族が、政治的理由によって分断されているかもしれない。そしてどれだけ多くの人々が不条理な民族、家族の分断に苦しんでいるかを私は知らない。


参考 Wikipedia 「パンジャーブ」「パキスタン」「アムリットサル事件」等々

多言語文化社会の生活風景

三石博行

インド社会の成り立ちと多言語文化社会

▽ インドは紀元前2600年から前1600年頃までにインダス川流域に文明(インダス文明)が栄え、紀元前1500年頃にアーリア人がパンジャーブ地方に移住、その後、ガンジス川流域の先住民を支配し、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度(カースト制度)に基づく社会を形成し、今日のインド社会の基礎を創った。その後、長い歴史を経て、1877年から1947年まで続いたイギリス植民地時代から独立し、南アジア最大の国、インド亜大陸の28州からなる連邦共和国(インド憲法に書かれている正式国名はインド社会主義共和国「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic」である)、インド共和国を1947年8月に設立(イギリスから独立)した。

▽ インドの公用語はヒンディー語と英語である。インドで話されている言語は800種類に及び、中央政府とは別に各州に政府があり、それぞれの地方政府別に地方政府の公用語がある。主な言語だけでも15以上あり、インド政府の発行する紙幣には17の言語で印刷されている。インド憲法には22言語が公的に承認された言語と言われている。

▽ インドの人口は、1950年に約3億5千万人、1980年には約6億9千万人、2008年には約12億に達している。インドで最も多くの人々が日常的に話していることばはヒンディー語で、全人口の約40%(約4億人)、11%(約0.9億人)が英語を第一、第二ないし第三の公用語として話している。


カルカッタ(コルカタ)の街での会話風景

▽ 私は1979年の冬から1980年の初夏まで、インドのコルカタ(カルカッタ)に滞在した。コルカタは西ベンガル州の首都で、ベンガル語が地方政府の公用語となっていた。ベンガル人にとってベンガル語は大切なことばであり、ベンガル語を国語とする人々はバングラディシュの人口をあわせると、約2億2千万人で、世界で7番目に多い人口を持つ言語である。ベンガル語はまた文化的に高い歴史を誇り、ベンガル語で書かれた文学は多くある。中でも詩人であり思想家であったタゴールはベンガル語で詩を書きアジアで初めて1913年にノーベル文学賞を受賞した。タゴールの詩は世界的にも有名であり、彼のベンガル語の詩が多くの外国語に翻訳されている。

▽ 当時(1979年)、カルカッタ(現在のコルカタ)には、ベンガル語で講義する大学、カルカッタ大学と英語で講義する大学があった。小学校でもヒンディー語とベンガル語で教育がなされていた。また、英語教育は一般に小学校6年から行われ、高校では英語の授業もなされていた。英語は日常的に使われているため、インド連邦内の企業や公務員は日常的に仕事で英語を使うため、インド社会では、英語を使えない人は大きな会社では働けない。

▽ コルカタ(カルカッタ)の家族の会話は、ベンガル人であれば家庭内でベンガル語を話している。しかし、タミール地方から来た人々は、その現地の言葉を家族内では喋る。しかし、外ではベンガル語を話したり書いたりできない限り、コルカタでの社会生活は不自由であるため、会社や公共施設で働く人々は殆どが、出身地の地方公用語、ベンガル語、ヒンディー語と英語の四ヶ国語を話す。例えば南インドのケララ州から来ている場合にはマラヤラーム語を話し、コルカタの会社ではヒンディー語や英語を話し、街ではベンガル語を話している。

▽ こうしたコルカタの人々の日常生活の庶民の会話風景から、多言語文化社会で成立しているインド社会では、教育を受けていない人々を除いて、国民の多くがバイリンガル(二つのことばを自由に喋る人)やトリリンガル(三つのことばを自由に喋る人)であるといえる。


世界の国々の半分以上が多言語文化社会

▽ 多言語社会はインドに限らない。Wikipedea によると、北米ではアメリカ合衆国では州によって、フランス語やスペイン語が公用語となっている。カナダでは英語とフランス語(ケベック州はフランス語のみ)、中南米では、ニカラグア、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンなどでスペイン語以外に先住民の言語が公用語となっている。

▽ アジアでは、中国、香港、マカオ、シンガポール、台湾、フィリピン、スリランカ、東ティモール、ブルネイ、パラオ、中央アジア諸国など、またヨーロッパでもアイルランド、イギリス、スイス、スペイン、フィンランド、ベルギー、マルタなど二つ以上の言葉が公用語となっている。

▽ アフリカでは多くの国が英語とフランス語の2カ国語を公用語にしているが、多種多様な先住民の言語存在し、民衆は日常生活では、もともと先祖が使っていたことばを喋っている。

▽ 日本の周り、東アジアの国では、ロシア連邦の極東連邦でもロシア語と先住民の言語が公用語として使われている。中国では、公用語は中国語(北京語)であるが、数多くの方言(広東語など)があり、それ以外にも50以上の少数民族の言語が存在している。中国は多民族国家である。多くの少数民族自治州(区)では、中国語が公用語とされているが、その民族独自の言語が公用語として使われている場合もある。台湾では中国語が公用語であるが、先住民(オーストロネシア語族やマレー・インドネシア文化に属する人々)の言語が使われ、国語(中国語)以外に、台湾語(中国語と同じシナ・チベット語)、客家語(中国語の方言)、原住民語(オーストロネシア語)の教育も義務化されている。

▽ 東アジアでも、国民が一つのことばを喋る国は、日本、韓国や北朝鮮である。つまり、世界を見渡すと、一のことばを話す、モノリンガルの言語文化を持つ国が大半を占める分けではない。

▽ 我々は、モノリンガルの言語文化の中で育った。そして、国民は全て日本語を話すのが当然と思ってきた。そのため、南米、特に日系ブラジル人や日系ペルー人が、日本人の姿をし、日本人の名前を持ちながら、日本語が話せない姿をみて、逆にショックを受けているのである。このショックや違和感の中に、実は、モノリンガル言語文化社会から出た経験を持たない私達日本人の大半の人々の異文化理解の姿(本音)が隠されている。


多言語文化社会を土台とした新しい国家建設の実験・EU(ヨーロッパ連合)

▽ ヨーロッパは1914年から1918年の第一次世界大戦で約2千万人の死者と2千2百万人の負傷者を出した。また、1940年から1945年まで第二次世界大戦の戦場となり、約5千万人以上の犠牲者が出た。この二つの悲惨な戦争を繰り返さないために、ヨーロッパは半世紀をかけてEU(ヨーロッパ連合)を形成してきた。

▽ このヨーロッパ連合では、23カ国が公用語とされている。EUは、ヨーロッパが多数の民族による多言語文化圏であることを前提にして、ヨーロッパの文化の多様性に価値を置き、その多様性を維持するために、少数民族の言語文化の保護を、EUの文化政策として実行してきた。そのため、これまで、アイルランド、コルシカ、バスク、アルザスなど境界地方にあった方言や独自の文化の保護が行われ、それらの人々の分離独立運動を抑えることが出来た。

▽ すでに、近代国家としての連邦国家は1776年7月に独立したアメリカ合衆国、1917年3月に成立した(旧)ソビエト連邦や1947年に独立したインド共和国では、多言語文化社会の国家建設がなされてきた。これらの国々は、その国の事情もあり、一つの公用語を選択した国、二つの公用語を設定した国などがある。しかし、いずれにしても、ヨーロッパ連合のように連合に参加した主な国23カ国の言語を公用語としてはいない。EUとそれまでの連邦国家の形成過程が異なる以上、公用語決定に関する政治的見解の相違がある。

▽ しかし、すでにヨーロッパでは多言語文化社会を経験している国々が多くあり、特にEUの中心になっているベルギーでは、フランス語、ドイツ語とオランダ語が公用語として活用されている。また、中立国スイスでも、約4万平方キロメートル(日本の約9分の1より小さい)小さな国土でフランス語、ドイツ語、イタリア語とロマンシュ語の四つの言語が使われ、日本と同じように不自由なく公共サービスや市民生活が営まれている。

▽ 多言語文化社会環境を永年形成した国々の経験が、これから世界が交流し、多くの民族や文化が交差する時代に必要となるのかもしれない。スイスでは4つの言葉が公用語になっている。また、ベルギーでは3つの言葉が公用語となっている。

▽ すでに、これまでヨーロッパ社会に存在していた多言語文化社会の歴史を土台にしながら、EUは新しい政治経済制度の建設のみでなく、多言語文化国家の建設も試みているのである。


参考 Wikipedia 「インド」、「多言語」、「台湾」「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」「アメリカ合衆国」「ソビエト連邦」等々

2010年4月27日火曜日

人間的な感性、思い込みから生まれた歴史の悲劇とその精神構造

三石博行

ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判の歴史

▽ ペスト大流行、疫病大災害によってキリスト教社会でおこるキリスト教義を逸脱した鞭説教(鞭を自分に打ちながら悪魔を追い払う行動を起こすカルト)が民衆の中に広まった。

▽ 町の人口の半数近くの死者を出したペストによる極端な人口減少によって、中世封建領主制の基本である領主と農奴の関係が壊れ、農民の賃労働(賃金をもらって働く)つまり小作農民が生まれる。また、賃金を払えない領主は小作農民へ土地を賃金の変わりに渡した。さらに、中世の医学(ギリシア医学・ピポクラテス主義やガレニズムの医学理論)の権威が失われ、中世大学(学問研究の中心)の人気もなくなった。

▽ 紀元1世紀にローマ帝国に滅ばされたユダヤ人たちが、長い流浪の果てにたどり着く中世ヨーロッパ社会で異教徒に対する弾圧や虐殺を受けることになるのだが、14世紀ヨーロッパでのペスト大流行は、その異教徒ユダヤ人の虐殺を助長し、300以上のユダヤ人社会が消滅したと言われている。

▽ ユダヤ人虐殺の引き金を引く「ユダヤ人が井戸に毒(ペストの原因となったもの)を入れた」という噂とそれを真に受けた告発、そして、その告発を受けて繰り広げられたユダヤ人狩り、拷問、死刑は、今から見れば、考えられない非人道的行為であるが、当時は一般の村民が、しかも良識ある人々が「自分達を悪魔(異教徒)から守るために行った」正義の行為と信じて行ったのである。


歴史の中で繰り返される史実・民族浄化と他民族虐殺

▽ 自称良識ある人々が繰り広げた虐殺の史実にこそ、私達が理解しておかなければならない問題が隠されている。歴史の中で繰り広げられる悲劇は、つねに、悪魔のような人々がいて、善良な人々を殺害するという、善悪の明確な事件ではない。それは、善良な人々が、繰り広げた恐ろしい(結果的には)事件である。この問題の本質を理解することが、この講義「現代社会と人権」の課題の一つである。

▽ つまり、こうした行為は、歴史の中で、何遍となく繰り返し行われてきた。また、これからも行われる可能性を持っている。そのことが重大な問題なのである。

▽ 身近で具体的な史実、例えば日本で起こった最近の出来事を挙げことが出来る。古いヨーロッパ社会でのユダヤ人虐殺と同じ行為が、今から87年前の日本でも起こっていた。1923年9月1日に起こった関東大震災では、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された。この関東大震災時に起こった在日外国人の虐殺も、町内会の人々、いつもは在日外国人達と一緒に住んでいる町の人々、例えば働きに行っている勤め人、職人、お店の主人や町工場の経営者など、一般の庶民、良識ある生活を日常過ごしている人々であった。

▽ いつもは、共に生活している在日外国人が、災害時に危害を加える人々に変貌する妄想に取りつかれ、その恐怖のために、先に攻撃して殺したのである。この日常生活の中に潜む敵意や憎しみ、そして違和感や差別意識はどのようにして生まれたのかということを考えなければならないだろう。

▽ その後、戦争という非常事態の中で、ドイツナチスによるユダヤ人虐殺が起こる。優秀な民族としてのアーリア人(ドイツ民族)を保護し、劣等人種であるユダヤ人を虐殺する民族浄化(みんぞくじょうか)の思想が起こる。

▽ その民族浄化による第二世界大戦時のユダヤ人虐殺が人類史の汚点として批判され、多くの映像や文字として現代史の記録に刻み込まれたにもかかわらず、我々の歴史は、同じような民族大虐殺に終止符を打つことが出来ないまま、今日でもその忌わしい行為を繰り返し続けているのである。

▽ 1990年から起こるユーゴスラビア紛争中のセルビア人勢力によるクロアチア人の大虐殺、ルワンダ紛争中、1994年4月の誤ったラジオ放送によって起こったフツ族によるツチ族の虐殺では、フツ族の一般市民が参加し、ツチ族の女子供まで殺害した。その数なんと100万人と推察されている。

▽ これらの民族浄化と呼ばれる「大虐殺」は、戦争のように兵隊が敵の兵隊を殺害するのでなく、一般市民が「自分たちの生活や命を守るために」、それを脅かす人たちである異教徒や異民族を殺害する行為によって起こったである。

▽ つまり、この殺害は、関東大震災時の在日外国人の虐殺のように、社会がパニックになるとき、その非日常性に引きずられ、どこにでも起こり、だれでも起こす可能性を持っているのである。そして、なによりも重大なことは、簡単に、自分達もその殺害者にも殺害される側にもなりうるのである。つまり、常に我々はその二つの候補者なのである。

▽ 映画で映し出され、ニュースで報道される民族大虐殺の映像や報道は、まるで別の世界の話として、私達は聴いているし、観ている。しかし、どの虐殺も前提として「自分達の生活や命を脅かす人々から自分達の家族を守るために行った行為」であるという自己防衛(虐殺)に参加した人々の声がある。

▽ 実は、この自己防衛のために、殺すという行為を選んだ人々(私たち)の他民族に対する理由なき優越感と差別感、違和感と恐怖心、不寛容さと侮蔑心、どの国民も持っている自国への誇りや愛国心とその反作用とも言うべき他民族排他心、そしてどの人ももっている自我の形成に欠かせない自己確認とその自己確立の意識の反作用とも言うべき他者への差別意識、これらの人間本来のこころのありかたを問わない限り、この民族浄化と呼ばれる恐ろしい虐殺の基本構造は理解できないだろう。そして、なぜ普通の市民が虐殺に走ったのかを説明することも出来ないだろう。

▽ この問題は、「外国人と仲良くしましょう」という楽観的な平和共存主義だけでは解決しない重たい課題がひそんでいるように思える。そして、この重たい課題に、つまり自分の中にひそむ得体のしれない怪物たちと正面から向き合わない限り、これからも、必ずこの恐ろしい事件は起こるだろう。しかも、このおぞましい行為に、私達も参加する可能性を否定できないのである。


その行為のなにが問われているのか

▽ その原因は、実に身近に起こっている。つまり、うわさを聞いて、それを疑いもしないで思い込む。また、ある人の極端な意見をきいても、それを批判的に検証することはしないで、聞き流す。また、自分が受けた感じや感覚をそのまま信じて、疑いもしない。

▽ こうした残虐な行為は、例えば、フツ族の市民が放送を聞いて「ツチ族が殺害に来る」と思い込んだり、東京下町の町内会の人々が「在日朝鮮人が放火に来る」と思い込んだり、また「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」という思い込みや誤解から生じる。

▽ しかも、誤解や思い込みは、私達が日常生活の中で自然に行っている人間的な行為なのだ。この私達の日常的な行為から「大虐殺」が生み出されているとすれば、それを防ぐには、どうしたらいいのだろうか。大変な課題が残される。

▽ 私達は、自分を中心にしてものを考える存在(主観的な存在)である。それだからこそ、自分という人間が生活し、生きることが出来る。そして、そのことが、他人と共存し、また張り合ったり、競争したりする。生きるということは、自分の世界を持つことである。しかし、そのことによって、自分の思いが生まれる。自分の思いを持たない人は居ない。ひとは全て、自分の思いを持っている。

▽ その自分の思い、自分でありたいと願う気持ち、自分で生きようとするこころ、そのこころと「思い込み」との境界はどこにあるのだろうか。思い込む力はひとが生きるために与えられたものではないか。自分の世界を持つ力が「思い込み」として現れる。

▽ 我々は、極めてぎりぎりの自分の主観的な世界、思い込みを起こす世界と、人を傷つける、極端な例として他の民族を虐殺する世界が表裏一体の姿であることに気付かないだろうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2010年4月22日木曜日

魔女狩りは中世社会だけでない現代社会でもある

三石博行


ダヤ人虐殺と魔女狩り裁判

中世ヨーロッパの終焉、異端裁判(審問)と大災害ペスト大流行

▽ 中世ヨーロッパでの異端審問が魔女裁判の原型と言われている。1307年から1313年まで継続されたフランス国王がおこなった騎士たちの異端を裁く宗教裁判が広範囲に行われた。南フランスでは、宗教裁判官たちが、実際には存在しなかった魔術をつかう異端の徒を裁判にかけたと記録されている。

▽ そして、悪魔を追い払うためにみずからの体が血に染まるほど鞭(むち)を打つ「鞭説教」が、民衆の中で起こった。群衆が鞭打ちしながら行進する「鞭説教」はペスト大流行よりも1世紀以上前1260年ぐらいから行われた。彼らはペストが発生した町に押しかけ、またユダヤ人の町に押しかけ、悪魔を追い払うために自らに鞭を打った。

▽ ペストがヨーロッパを襲った1350年前後、世界のペスト(黒死病)による死者数は、「大まかな計算で、約1億という」言われている。この数字から、「全ヨーロッパでの死者数を二千五百万人程度と推定する」ことが出来る。つまり、ヨーロッパの人口の約半数近くの人々が死亡したと推定できるのである。そして、「都市の人口の三分の一から三分の二の人々が死んだ」という記録もある。このように、ヨーロッパにとってペスト流行はこれまでの歴史で経験したこともない大災害であったと言える。


ペストとユダヤ人迫害や魔女狩り裁判

▽ ヨーロッパでの「ユダヤ人迫害の歴史は、紀元後の二0世紀間、絶えることなく続けられ、現在にまで到っている。」それで、ペストがその原因であると言えないが、「キリスト教徒の敵」異教者ユダヤ人への感情を、ペスト病因説に向けるためには、誰かが(キリスト教徒の誰かが)一人が、ユダヤ人かが井戸に毒を投げ込むのを、自分は見たといえば十分であった。

▽ ペスト大流行期の最初のユダヤ人虐殺はスイスのジュネーブで1348年に起こる。この年のペスト大流行の原因に、ユダヤ教徒が「井戸に毒をまいてペストをはやらせた」といううわさが流れ、ユダヤ人はペストを大流行させた疑をかけられ、捕まり、拷問され、女子供まで殺された。この虐殺で300以上の集団(ユダヤ人は集まって住んでいた)が滅亡したと言われている。

▽ 例えば、1349年、「アルザスのストラスブールの近くにある小さな村ペンフェルトではユダヤ人がペスト流行の張本人であるという告発」があって村民の意志を問う会議が開かれた。その場に居た一人の男の発言が決定的な結果を生み出した。彼は「彼ら(ユダヤ人たち)は何ゆえに、あらかじめ自分たちの使う井戸には蓋(ふた)をし、外に出ていた汲み置き水のバケツを、屋内に取り込んだのか」と質問した。この村人は、ユダヤ人が自分たちの井戸に毒を入れないようにあらかじめ蓋をした。そして井戸の水を汲まないようにバケツを屋内に取り込んでいたという推察をして、井戸に水をまいたのはユダヤ人に違いないと結論づけたのだった。そして、村人たちはこぞってユダヤ人狩りを行い、処刑した。このあとすぐに、ストラスブールでも同様の事態が起こり、わずかな子供が同情によって命を救われたが、二千人を超える人々が処刑されたと記録されている。

▽ また、この時期は、魔女狩りの盛んな時代でもあった。しかし、魔女狩り裁判とペストとの関係を明確に裏付ける歴史的資料は乏しいが、黒死病に触発され鞭打教徒の運動があり、それがユダヤ人(異教徒)の虐殺運動に関連したことは否定できない。


ペスト流行の張本人とされたユダヤ人の虐殺と魔女狩り裁判の姿

▽ 中世ヨーロッパで行われたユダヤ人虐殺や魔女狩りや異端裁判(審問)では、誰かが「あの人は魔女である」とか「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」といえば、ユダヤ人や魔女と看做された(みなされた)人々は捕らえられ、厳しい拷問にあい、自白を迫られる。

▽ いずれにしろ、ユダヤ人であることが、処刑の理由となる。また魔女として捕らえられた人々も、自白しなければ「魔女だから自白しない」と逆に判断され、また拷問から逃れるために嘘の自白をすれば「やっぱり魔女なのか」と判断され、いずれも火あぶりの刑に処せられたのである。

▽ この時代、多くの無実な人々が厳しい拷問で苦しみ、また火あぶりの刑で死んでいったのである。こうした歴史的悲劇は、「ユダヤ人は自分達の井戸に蓋をしていた。」という理由で、また「あの人は魔女だ」という一人の人間の証言がそのまま信じられ、その証言を検証する場、つまり、魔女にされた人々に反論の余地を与え、つまり弁護士をつけて、反論させる。また魔女であると告訴する人々にその証拠を提示させ、それが信頼できるものであるかどうかを検証する場としての現代社会の裁判所のようなものはなかったのである。

▽ 一人の人が、ある人(異端者と思われる人、ユダヤ人や異教徒などキリスト教社会からはみ出した人々)を魔女であると訴えることで、またユダヤ人であるという理由で、それらの人々は簡単に捕らえられ、拷問にあい、撲殺され、火あぶりの刑にされるのである。それを支えた社会とその社会の持っていた考え方、制度を分析し、何故、ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判が生まれたのかを理解しなければならない。


ヨーロッパ中世の終焉、農奴制の解体と中世医学の権威失墜

▽ ペストの大流行によってヨーロッパ社会は危機を迎えた。都市の人口の三分の一から三分の二の人々が死んだという記録もある。町や村の半分の人々が病死する事態を引き起こしたペスト大流行は、中世ヨーロッパ社会に大きな衝撃を与え、その社会を大きく変えることになる。

▽ まず、「多くの死亡者の発生によって、14世紀ヨーロッパ社会では農奴が不足した。当時の荘園では、農地に縛られていた農奴と自由農民がいた。農業労働力の不足は、農奴を含め農民の立場を強くした。」自由農民や労賃を受け取り農業に従事する農民層が増えた。そのため、中世社会の土地に縛られた農奴と荘園領主の関係は崩壊し、労賃を払って働く農民が多くなったのである。しかも、人手不足や労働力不足は農民の労賃を高騰(こうとう)させた。その結果、「領主は仕方なく支払えなくなった労賃の代わりに、土地を農民に賃貸しという名で下げ渡す」ことになった。農民達は一揆やストライキを行い、少しずつ土地の権利を獲得していったのである。

▽ 黒死病は中世社会の領主社会を崩壊させ、農奴から、小作農民と労働者という二つの社会階級を生み出したのである。

▽ また、「ヨーロッパ社会では、14世紀半ばに三十の大学のうち四つが消滅している。」その理由はペストによって教育従事者が不足したという現代の社会では想像できない理由によるものである。つまり、中世の大学では、知の伝達は職人的な方法によるもので、長年の修行を前提にして知は伝達可能になる。その中世の知の再生産のあり方が問われたのである。

▽ 勿論(もちろん)、「中世ヨーロッパの医学の理論であるピポクラテス主義やガレニズム(古代ギリシャ時代の医学者ガレノスの学説による医学)がペストの大流行においてまったく無力」であったことが、中世医学を失墜させ、その医学を教える大学の権威を落としたと言える。

▽ こうして古い中世ヨーロッパの社会は解体し、その新しい活路を求めるようにルネッサンスが始まるのである。




参考
(1) クルト・バッツュビッツ著 川端豊彦・坂井洲二訳 『魔女と魔女裁判』 法政大学出版局 りぶらりあ選書 1970年11月20日、504p
(2) 村上陽一郎 『動的世界像としての科学』、新曜社、1980年6月20日、296p
(3) 村上陽一郎 『ペスト大流行 -ヨーロッパ中世の崩壊-』岩波新書225、1983年3月22日、192p



1-2、魔女狩り裁判の思想と現代社会

魔女狩り裁判は中世だけの話だろうか

▽ 前記した魔女狩り裁判を起こす社会、中世の社会では、告発者によって非常に簡単に人々の命や生活が奪われた。今から考えれば不思議だろうが、ある人が別の人を魔女だと告発すれば、告発された人は魔女として捕まえられ、拷問に会い、そして火あぶりにされた。このようなことは現在の社会から考えられないと思われるだろう。

▽ しかし、死者行方不明者が14万2800名、負傷者が10万3800名弱の大災害であった1923年9月1日に起こった関東大震災では、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害されたと言われている。

▽ 今から、90年前の近代国家日本でも、14世紀ヨーロッパ社会と同じような事件が起こったのである。そのことは、魔女狩り裁判は中世社会の古い話であって、現代社会では起こりようもない事件であるということが出来ない事実を突きつけている。



デマや噂を信じる精神構造とは

▽ このようなデマや噂が一人歩きする社会の風潮はどうして生まれたのかということを考えなければならないことが、ここで問題にすべきことである。

▽ 何故人々はうわさやデマを信じるのだろうか。何故、人々は自分の思い込みを点検することが出来ないのだろうか。この疑問に答えなければならない。

▽ なぜ人は、うわさを信じ、デマに踊らされるのだろうか。そしてこうした精神行動は日常的に行われているのではないか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2010年4月15日木曜日

人間と倫理1 「性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方」

三石博行

3、性善説と性悪説から推察できるモラルのあり方を考える

性善説
▽ 性善説からすれば、人は本来、善き存在で、悪(悪い癖)は社会生活の中で受け入れてきたものである。そのため、社会の悪癖(悪い行い)に染まらないように努力する必要がある。もし、悪い友人や集団と交わることで、悪癖を受入、悪に染まってしまったら、その悪友や集団から離れ、自分の良心を取り戻す生活をすればよい。そのことによって、倫理的な生き方を取り戻し、維持することが出来る。

▽ 我々の社会は欲望によって動いている。悪が社会の中で生み出される必然性がそこにある。その社会の中で、自分を善き存在(人)であるように努めるには、出来るだけ悪い集団や習慣に近づかないように努めなければならない。しかし、もし悪い習慣を身につけたなら、その悪い社会環境から離れ、自分ひとりになって、自分に向き合い、自分と会話することで、人本来の姿を取り戻すことが出来る。人は本来善き存在である以上、自分と確り向き合えば、倫理的生き方が維持されるのである。

▽ つまり、人は社会的な影響を受けることで、悪を受け入れてしまう。そのため、そうした社会から出来るだけ離れ、自然の中に身を置き、社会の影響を受けないことで、倫理性は自ずと生まれることになる。

▽ 人間の内面にあるモラルの力を信じ、その内面的な力を引き出すために、出来るだけ一人になり、確りと自分に向き合う時間を持つこと、そうすることで人間は誰でも間違いを見つけ出し、正しい道に戻ることが出来る。


性悪説
▽ 性悪説からすれば、人は本来利己的存在であるため、悪は人間が生まれつきもっている、人間本来の姿であるという考え方である。

▽ 性悪説は人間が本来悪い存在であると述べているのではない。人は、本来、生きるために悪と評価される行為をしなければならないように出来ていると述べているのである。例えば、もし、自分の欲望を満たそうとする力がなければ、人は生きてゆけないだろう。そして、何がなんでも自分の生命や生活を守ることが出来なければ、死んでしまうかもしれないし、大切な人を見殺しにしてしまうかもしれない。

▽ 生きるために行う行為、それは悪と言われようと、善と言われようと、食べるために、命をつなぐために、選ぶ行為がある。

▽ 終戦直後、日本では闇市が禁止されていた。闇市で食料を買わないと生きていけなかった。親は子供に食べさせるために闇市で食料を買いあさった。それは社会的に悪とされている行為である。ある人が、その社会の決まりを守ること、社会が認めない行動をしないことを良心に誓い、闇市で食料を買いあさることをしなかった。その人は餓死したとの事である。

▽ しかし、闇市で商売する人々の弱みにつけこんで、人々から「寺銭」(闇市をするためのお金)を集める人々が生まれる。生きるために闇市をする人々は、社会が認めていない商売をするので、不当なお金を取られることを警察に相談することは出来ない。そこで寺銭を集める人々は、闇市の商売人たちを脅し、半ば強制的にお金を取り上げることができる。

▽ このようにしてヤクザやマフィアは収益を得て、大きく組織を拡大することが出来た。社会の悪は、人が生きるために行う行為によって、さらに拡大し続ける。

▽ 生活物資が不足し、食料が無いときに、人は誰でも自分が生きるために、家族を守るために、それが社会で禁止されていても、それが悪いことだと知っていても、闇市で商売し、闇市で食料を買うのである。貧しい限り、生きるための生活物資が不足している限り、警察が闇市を徹底的に取り締まったにしろ、社会から闇市をなくすることは出来ないのである。

▽ アメリカの禁酒令とマフィアの関係はもう一つの典型的な例である。

▽ 人々が個人の欲望を満たすために争い、殺しあうなら、社会は混乱することになる。食料が欲しければ、スーパーで盗む。カラオケで遊びたかったら、人の金を巻き上げる。こうした行動が日常化している社会がある。この社会では人の命が簡単に奪われる。欲望を満たすために、何をしてもいいわけではない。

▽ そこで、社会の秩序を保つために、社会の平和を維持するために、人々の生活を破壊されないために、人々は決まり(法律)を作った。その決まりを守らすために、警察をつくり、刑務所をつくった。決まりを守らない人は、自分達の社会から排除する制度を作ったのである。

▽ 社会の秩序が維持されるには、個人の欲望を抑制する社会的機能が必要となる。個人の道徳や倫理的規範を支える社会的な制度、法律、警察、裁判所、刑務所、場合によっては死刑台が必要となる。

▽ つまり、「人のものを盗んではいけない」という道徳規範があり、それが有効に働いていなければならない。人のものを盗む行為を取り締まり、裁き、刑罰を与える制度があり、その制度が機能していなければならない。悪を取り締まる厳しい制度や罰則があって、はじめて犯罪の発生を抑えることが出来る。

▽ 人々は、その罰則を受けないために、ひとのものを盗む行為等の犯罪を行わないように、自分の中で自然に生まれる欲望、例えば「人が持っているいいものが欲しい」という欲望を押さえ込むことが出来る。つまり、人がもっているものが欲しいのだけど、それを勝手に取り上げたり、盗んだりしたら、自分はもっと損をすることになると知っている。欲しいものを直接手に入れることの利益から、それをやった後に受ける懲罰の不利益を引くなら、結果的に損をすることを知っているために、人はものを盗まないのである。

▽ 人間が本来利己的であり、自分の欲望を満たそうとする限り、倫理や道徳で述べられたことが自然にできる分けではない。むしろ、個人のモラルを維持し、社会的倫理規範を維持するためには、法的な強制力をもった抑止力が必要である。

▽ 言い換えると、個人のモラルを助けるために、社会は個人が自分の欲望を抑えるために必要な社会的強制力を他方で用意しなければならない。それが人を罰するために刑法があるというのでなく、人が自分の欲望で自滅しないように、犯罪行為を起こさないように、その抑止力として、刑法や刑罰があると考えることも出来る。

▽ 人のモラルや理性はあまりにも弱い。利己的な人間本来の性格や少しでも良く見せたい、楽をしたい、いいものを手に入れたいという欲望によって、理性やモラルは、簡単に、いつでも破棄されてしまう。ついつい、いつのまにか間違いを犯す。それが人の姿である。その間違いが致命的なことにならなければ何とか生きていける。そして、致命的なことにないように、社会に助けてもらわなくてはならない。それが警察であり、刑務所である。

▽ 懲罰を行う社会制度は、人の引き起こす重大な間違いを事前に抑制するために、もしそれが生じたなら厳しく取り締まるために、性悪説を前提にして設定されているのである。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人間と倫理1 「性善説と性悪説」

2、性善説と性悪説

▽ 古代中国の二人の賢人、孟子(もうし)と荀子(じゅんし)は孔子の弟子であったが、人間に関する考え方は真っ向から異なった。孟子は、人間は生まれながらにして善であるという思想であるである性善説を唱え、一方、荀子は孟子の性善説を批判した。

▽ 孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。」 「ウィキペディア(Wikipedia)」

▽ 一方、荀子は性悪説の立場から、孟子の性善説を批判した。「人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべき」だと荀子は主張した。ウィキペディア(Wikipedia)

▽ つまり、荀子は、人間の「性」(本性)は「限度のない欲望」だという前提から、「悪」を「乱」とした。何故なら人々は各自、自分の個人的な欲望を無限に満すために、最終的には奪い合い・殺し合いの騒乱を引き起し、社会は「乱」(=「悪」)に陥ることになる。

▽ 荀子は、そのような欲望を無限に満たそうとするのでなく、それを抑え騒乱を引き起こす行為を治めることを「善」と考えた。つまり、各人の欲望を外的な規範(=「礼」)で規制することによってのみ「治」(=「善」)が実現されるとして、礼を学ぶことの重要性を説いた。

▽ 荀子は、まず人間の性を悪と認めることで、本来人に具わっている悪を自覚し、それを戒める努力が必要であると考えた。従って、人は後天的努力、例えば学問修行、スポーツやボランティア等などによって悪(人の迷惑を顧みず自分のためにだけ行動しても満たしたい自分の欲望)を抑制することが出来る。そして、自分の行動や生活スタイルを他者との共存と対立しない考え方や生き方を工夫し、社会規範を守る行動を心がけ、人々のために働く努力をすることで、人は善へと向かことが出来ると荀子は考えたのである。


参考文献
1、 松尾善弘「性善説と性悪説」鹿児島大学教育学部研究紀要.人文・社会科学編 第47巻(1996) pp11-26



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人間と倫理1 「倫理、道徳と規範の意味」

1、 倫理、道徳、規範の意味

▽ 広辞苑によると倫理は「人倫(じんりん)のみち、実際道徳の規範となる原理、道徳」と書いてある。人倫とは孟子のことばで、人と人との秩序関係、例えば親子、夫婦、上司と部下などの社会で成立している人間関係の秩序を意味する。それが転じて、人として守るべき道や行為と解釈されている。その他にも、人倫は人間や人類という意味にも使われている。

▽ この広辞苑の説明では、倫理と道徳や規範ということばが重なりあう。

▽ 例えば、道徳とは「人のふみ行うべき道」、社会の構成員がその社会にたいする行為の、あるいは構成員相互間の行為の、「善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」、しかし「法律のような外面的強制力を伴うのでなく」、あくまでも「個人の内面的な原理」を意味すると広辞苑では説明されている。

▽ また、規範については、(人の道や社会に)「のっとるべき規則、判断・評価または行為などの拠るべき基準」と広辞苑では説明されている。

▽ 倫理、道徳と規範の意味をまとめると、人の道としての倫理と道徳は非常に近い。つまり、倫理は人と人との秩序関係である人倫のみちと説明されている。そして、道徳は社会的に成立している善悪の判断に関する内面的な原理や基準と説明されている。その意味で、倫理も道徳も同義語(同じ意味のことば)である。

▽ 規範は、判断評価や行為の基準であるから、道徳的規範や倫理的規範という概念が使われている。道徳や倫理的規範は、成文化されていない、つまり法律の条文に記されていないが、社会の構成員全員が守るべき行動の指針を意味する。従って、道徳的規範や倫理的規範は法的規範とは異なる。あくまでも主体の内面的なこころの課題としての規範であり、社会的に強制された義務を負っていない。私達が、仮に道徳的規範や倫理的規範を守らないとしても、だからと言って、社会から法律によって(司法的の手続きをもって)罰されることはない。ただ、社会から批判され、人々から嫌われるかもしれない。

▽ 倫理や道徳の用語のかすかな違いを述べると、まず文献によって、倫理と道徳の微妙な解釈が異なる。ある文献では、倫理は個人としての人の道であり、個人の内面的な課題を重視している。それに比べて道徳は時代性や社会文化性によって多様な形態があり、その意味で、社会的に関連した行為者の個人的義務を意味すると述べている。別の文献では、上記した逆が述べられている。

▽ ここでは、倫理も道徳も、社会的な規範ではなく、つまり法的な強制力をもって個人への義務ではなく、個人が内的に(こころの問題として)自分の行う行為や生活スタイルについて、それらが「人のふみ行うべき道」や「人倫の道」であるのか、そうではないのかを自分の問題として捉える(考える)行為であると理解できる。



にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2010年4月9日金曜日

忠臣蔵神話の終わり

可哀想な赤穂浪士と愚かな浅野内匠頭



元禄赤穂事件とは、1703年1月30日(元禄16年12月14日から15日) に元禄太平の世を驚かした仇討ちである。

この事件は、1701年4月21日(元禄14年3月14日)に江戸城の松之大廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家旗本吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対して遺恨ありとして切りつけ負傷を負わせた事件であるから始まる。この事件によって、浅野内匠頭は切腹、筆頭家老大石内蔵助は、浅野家再興の望みを掛けて赤穂城を開け渡した。

「事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月(1749年1月)には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。」( フリー百科事典『ウィキペディア( Wikipedia )』 )

江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」は大衆娯楽番組として、歌舞伎、映画、テレビドラマと何遍となく演じられてきた。




この事件を現代風に解釈すると、以下のようになる。

つまり、常々嫌がらせを受けていた赤穂会社の浅野社長が、霞ヶ関旗本庁に勤務している吉良上野介事務次官を、国会議事堂の中で襲った。浅野社長はピストルを抜いて一発撃った。弾は吉良事務次官の額をかすめて、軽症で終わった。この事件で、浅野長矩は即逮捕された。

あまりにも衝撃的な事件で、赤穂会社は大騒動となり、経営不振に陥り、倒産した。しかも、浅野長矩は殺人容疑で刑事告訴された。また、吉良事務次官はうその診断書を書いて、重傷を装った。そのため、浅野長矩は殺人容疑事件での刑は重く無期懲役になる。

重役の大石内匠頭は、会社倒産処理、社員の再就職問題などの業務に明け暮れる。それらの業務処理を終えた後で、元社員と共に、不当に罰せられた愛すべき社長、浅野長矩の仇打ちを考えた。

大石らは、裁判の判決から3年後に、吉良事務次官の目白にある自宅を夜襲撃して、彼に重症を負わした。その襲撃のあと、大石ら数人は最寄の警察署に自首した。

大体、現代風に赤穂浪士の結末を語れば、こんな話ではないのか。

この現代風に解釈した話からは、大石は単なるテロリストになる。また浅野は、私憤のために会社を潰し、社員とその家族を路頭に迷わした馬鹿な社長となる。




何故、浅はかな馬鹿社長の破壊的行為から始まる話が、江戸時代から現代まで、日本の大衆市民のお茶の間に毎年登場し続け、また、全国に至る所に赤穂浪士に纏わる(まつわる)イベントが毎年繰り返し行われるのだろうか。

まともに考えれば、浅野長矩の一会社を預かる社長としてはあまりにも無責任な行為が批判されず、むしろ美化され、可哀想な社長になり、その仇を討つ元社員の行為(テロ行為)が美化されることになるのであるから、狂っているとしか言いようのないのである。しかも、それを美化する社会の神経を疑いたくなるだろう。

これが、江戸時代のお話で、現代社会とはまったく関係のない、御伽噺(おとぎ)話のような世界である。実際、仇討ちも、演じられた歌舞伎舞台の上での話しであり、また、映画の場面である。元禄時代の忠臣蔵は、まったく現実社会では起こりようもないという前提をもって登場している。

その意味で、この話は、赤穂事件の真相、現代風に言うと刑事事件ではなく、単に「主君への忠義」の話として、つまり「忠臣蔵」として語られることに意味があるのだ。

日本では、「主君への忠義」の話し、「忠臣蔵」が江戸時代から昭和の終わりまで、殆ど毎年、どこかで演じられている。このことが、むしろ大学の社会学や文化人類学研究者にとって、実に興味深い社会文化現象であったと言えるだろう。




終身雇用制が壊れ、社長が社員の生活を最後まで見なければならないし、また社員は生涯一つの会社に勤務しなければならない時代が終わった時、赤穂浪士の「忠臣蔵」は昔のよき時代の会社の姿、つまり社員が一つの会社へ忠誠精神をもって奉仕していた時代の社会のあり方として語られるだろう。

終身雇用制が壊れた社会では、忠臣蔵はもう上映されない。もし、上映されれば、きっと観客は「馬鹿な社長のために可哀想な社員の話し」かと、上映された劇や映画の感想を語るのではないか。

映画館の中では、仇討ちをとって意気揚々と吉良邸から帰る赤穂浪士に、白けた雰囲気と皮肉な視線が向けられるだろう。映画が終わったら、テロリスト化した浪士たちへの同情の念がわくかもしれない。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

プライド



その年の冬にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に私は着いた。

マザーテレサも 彼女がその年(1979年)にノーベル平和賞を受賞したことも、まったく知らないままで、外人の集まるサマーストリートのホテルで知り合ったオーストリアの青年に誘われ、「死を待つ人々の家」を訪問した。
だった。
一日目のボランティアは、その施設に運び込まれた人々に食事を与えることだった。

その日、十代(多分高校生ぐらいの少女)とそのお母さんがボランティアに来ていた。サリーの良く似合う美しい少女と気品を感じさせる中年の女性、二人は寝たきりの人々の食事を手伝っていた。

一人の老人の前で少女が困惑した様子をしている。その老人は、二人の女性を睨み付けている。彼女がスプーンに注いだ食べ物を頑なに口を閉じて拒絶している。少女は、困惑した顔から悲しそうな表情へと移っていく。

私は、その二人の横に行った。そして、少女の指からスプーンをそっと取って、それを老人の口元に持っていった。

彼は私に微笑みかけながら口を開いた。




「死を待つ人々の家」でのボランティア作業の最中、明らかに病気で苦しんでいる人々を前にして、私は「何か薬はないですか」と近くにいたシスターに聞く。すると、彼女から「私達は、ここに運ばれてくる人々の病気を治そうと思って、この活動をしているのではありません」という答えが返ってきた。

「何故」と聞こうと思った瞬間、「ここに運ばれてくる人々は、生まれてから一回も、人々に大切にされた経験を持っていないのです。自分が生まれてきてよかったと思うことも、生を得たことに感謝することなく、悲惨な人生を送ってきたのです。これらの人々にせめて一回だけでもいいから、他人から親切を施してもらった経験をしてもらいたいのです。死ぬ前に、一回でも、生きているとこんなこと(他人が自分に何を期待することもなく親切にしてくれること)もあるのだという経験をしてもらいたいのです。」と彼女は答えた。

この答えは私にはショックだった。そんな人々が、今、自分の目の前にいる。今まで、これほどにも悲惨な生き方をしてきて、人としての基本的な尊厳の一かけらも受けたことのない人々が、今、私の目の前にいる。
本や映画では奴隷や女工哀史の少女たちを読んだりみたりしてきた。しかし、自分の目の前にいる人々は、明らかに人間でありながら人間としての扱いを受けていなかったのだ。そう思った時、今までの、自分の社会思想が問われ、解体して行くようだった。




コルカッタの町を歩く。当時、コルカッタ市は地下鉄の工事をしていた。市の大通りは深く掘られ、地下の土を多くの労働者が頭の上にのせて、竹や木で造った階段を上がり、トラックに積み込んでいた。その労働者の殆どが不可触(賎)民と呼ばれる人々だった。友人のジャーナリストは、「彼らには、給与は支給されず、その日の食事が与えられるだけで、まるで奴隷と同じだ」と言っていた。

ある日、年取った老人、明らかに不可蝕民が路上電車の線路を渡ろうとしていた。彼は、近づいてくる電車を機敏に避けることが出来なかった。
勿論、電車は人が線路上に居るからといって、事故を避けるために、速度を落とすことはない。そして、老人は電車にはねられた。
電車は止まった。それは線路に倒れた障害物(怪我をした老人)を取り除くためであった。車掌が出てきて、その足を痛めた老人を、ぽいと線路の横に投げ捨てて、電車に乗り込み、そのまま電車は立ち去った。

こうした光景は、コルカタの日常風景だとのことだ。それを観ていた我々は、ショックを隠しきれない。この社会では、不可蝕民は人間としては扱われていないのだという現実を見せ付けられたのだった。




優しく食事を口に運ぶ少女、ボランティアに来た少女、美しいサリーを着た少女、その少女への老人の怒った目つき。
この現象を理解するためには、難解な方程式を解かなければならない。

難解な方程式の解として、コルカッタを歩かなければならない。
不可蝕民の生活に触れなければならない。
地下鉄工事の現場を見なければならない。
路線電車にはねられた老人のその後の経過を知らなければならない。

あの目の奥には、優しく差し出された少女の手や指へ、激しく唸る怨念の嵐が渦巻いている。
あの目の奥には、美しいサリーに象徴された冷酷な人々の行為への憎しみや怒りが焼き付けられている。

そして、悲しそうにした少女もそれを知っていたのだ。
そして、自分の力を超えた世界に対して、救いを求めようとしていたのだ。




インドには古代社会から続くカースト制度に属さない人々が居る。代表的な人々が不可蝕民である。これらの人々の多くはイスラム教化している。
他方、長いイギリスの植民地時代の中で、イギリス人とインド人の間に生まれた子供達、アングロインディアンと呼ばれる人々の多くはキリスト教化している。

キリスト教化した人々の中には、インド南部からくる人々、ポルトガル植民地政策に影響されている人々、カースト制度から抜けた知識人もいる。
あの少女と母親は、多分、キリスト教徒ではなかったか。

その不可蝕民に親切さを与えるべきと思うキリスト教徒もカースト制度からはみ出しイスラム化した不可蝕民も、1947年に独立し、約33年目を迎えた、1980年の若いインドの現実に苦しみ、洪水のように押し寄せてくる問題解決の問いかけに闘っていのだ。

その人々のこころを支える力、それはプライドであった。インド人としての、人間としての、プライドであった。

老人は差別者の服装をした人間を、たとえ死んでも、許さなかった。
少女は、キリストの前で、カースト制度と植民地化によって作り出された歴史の産物である貧困と迫害への罪を、自ら引き受けようとしていた。

コルカタは今日も轟音を発しながら動いている。
生きるために、自らであり続けるために、コルカタの人々は、
歩き、働き、話し、寝るのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

大津の雪桜(自然の造花)

今年の3月末の突然襲った季節はずれの寒波。
大津の山にも雪が降った。
突然の大雪で若葉をつけた木々の枝が雪化粧をした。
満開の桜の花を小枝にプレゼントされた木々に朝日があたる。
白い雪の桜の花びらで化粧された春の樹木の造形。
雪に覆われ若葉は、冬を惜しむ青い空からの贈り物に微笑む。

哲学の道の桜

先日、突風の吹き荒れた日のNHKのニュースから、「桜の花は激しい風にも散りません。何故なら、まだ受粉していないからです。受粉しないと桜は自分の役目を終えていないと思い、散らないのです。」ということばが飛び込んできた。

取材していた記者が受粉前の桜の花びらを引っ張る。
桜の花は小枝を引っ張る。
桜の花は小枝から離れない。
小枝も引っ張れて曲がった。
桜の花はか弱く散りやすいのではないのだ。

散る桜はもう自分の役目を終えたので散っているのだ。

太平洋戦争の時、十代の青少年が片道の燃料を入れた特攻機に乗って、薩摩半島南にある知覧基地から飛び立っていった。そのイメージは常に、映画や話の中で、散る桜として語られてきた。

美しい桜の花、そしてその花は咲いて間もなく散る。その美しい花(青年達)と散る花びら(潔く死を迎えること)のイメージを重ねた話しである。

こんな悲しい話の材料に桜は使われ、国を守るために死んでいく若い命に美しい日本の花、桜のイメージを与えたのだ。

彼らはこれからの生きていく未来を持っていた。
まだ役目を終えていないのだ。
戦争は、その役目を終える前の花びらを散らしてしまった。
彼らは散る桜ではない、散らされた桜ではないか。
なぜなら、桜の花は、台風並みの春の嵐でも散らないのだ。
ちゃんと受粉(子孫を残す)まで散らないのだ。
それなのに、彼らの桜は、恋も経験せず、家族も持たないで、散っていった。

今年も桜に花が咲いた。あれから六十数年を経った今年も桜が咲いた。

あの青年達を、忘れないでほしいと、日本国中の桜は、今年も咲いているのだろう。

山科疎水の桜

昨夜は、友と山科の疎水の桜、哲学の道の桜を、仕事の後で夕日を眺めながら観た。桜の花をみるたびにいつも聞こえてくることばがある。
それは、「今年の桜はみることができないと思っていた。しかし、来年の桜はもうみることができないだろうね。」と、高校時代に教わった小田原洋八郎先生の言ったことばだ。

今年の桜を会えたことに感謝し、その桜の美しさをかみ締める気持ちは、来年の桜にもう会えないという切ない気持ちから来るのだろう。愛おしい桜の花は、そのまま自分の生に重なる存在なのだ。
会えない来年の桜の花は、来年という今の時間をまっすぐ伸ばした延長線上では、会えない自分の姿なのだ。

命あるものが、その命の意味を理解するのは、その命が尽きることを感じ、知ったときなのだろう。

必ず私にも来るその瞬間、今という時間の単純な延長線上に存在し得ない未来への入り口の開く瞬間、その時をイメージしながら生きる。

小学校のころは死が怖かった。自動車が普及しだした時代、1960年、子供の交通事故を防ぐために地元の警察と学校が交通事故写真の展示会を開いた。事故で死んだ人、砕かれた頭、飛び出した脳や眼球、その写真を見た後で、悪夢や闇から忍び寄る恐怖に慄いた。死にたくない。死にたくないと思った。
勿論、勇気ある自分をイメージすることで、闇から忍び寄る影に慄く自分に恥じて、得体の知れない恐怖心は抑制された。

青年になって、死ぬ可能性を考え、それまでに終えたいことを焦って済ませた。飛行機に乗れば落ちるかもしれないという脅迫観念に襲われ、毎日、それまで研究法として考えてきた京大式カードの改良、そのプログラムを数理論理学的表現を、飛行機で出発するまで一ヶ月間も書き続けた。
勿論、飛行機は落ちなかった。

死に程遠い青少年期、生の成長期に死への不安は強烈に襲いかかり、恐怖から逃れるために彼らは必死に人生や未来を考えさせられる。
死が最も近くなった老年期、死ぬことが生活の中で日常的に起こる年齢を迎えて、死への不安は安らぎ、人生への野心や野望も遠のく。
死への恐怖は生への執着であり、また野望の放棄は死との同居である。

多くの人々と同じように、死を受け入れたとき、生きていることの感謝と生きているものへの慈しみや愛おしさを感じることができるのだろう。

春のおと連れ、桜見物、桜と共に住み込んでいる生死観、亡くなった人々への想い、日本人の文化、花見に繰り出す人々の短い桜の花の下での宴会、ひと時を友や家族と過ごす喜びをもつ生活。

なかなかうまく出来ているものだ。

2010年4月8日木曜日

大隈の山々

私の故郷、鹿児島県指宿、山川の港町は伊豆大島の波浮港と同じくマール式火山の爆裂火口が海没して出来た港町である。吹き飛ばされた火口壁が海に開き、港の入り江が狭く奥に火口が広がる。しかも港はほぼ垂直な火口壁で囲まれ、切り立った火口斜面がそのまま海に深く落ちている。天然の良港であり、避難港である。
昔から、東アジアとの貿易の拠点となってきた。

切り立った岩山に囲まれた山川の港町は、地理的にも閉鎖空間を作っていた。200メートル近くの断崖の下を、細い道路が指宿市から続き、その横をJR指宿枕崎線がしがみ付くようにはしっている。

山川港の町で育った我々の世代は、5歳の保育所から15歳の中学まで一緒に遊び学ぶことになる。少ない転校生以外に、隣町から港町の小中学校に入ってくる子供はいなかった。そのため、多分に閉鎖的で緊密な関係が我々の中にあった。

そんな同郷の人々が「みんなの広場」という掲示板を立ち上げていた。
http://6927.teacup.com/ijohs/bbs/

懐かしい気持ちで、メールを送った。川畑義法さんからお返事を頂いた。多分、お会いすれば、幼いころの顔を重ねながら、どこどこのだれだれだったと思い出すことも出来るだろう。

故郷の想い出の一つに「大隈の山」がある。

小学校のころ私が何となくみていた向え大隈半島南端に向かう木場岳を頂く山地は太平洋プレートの造山運動から出来た地形で、急激に隆起した山地は険しいV字谷に刻まれている。そうした雄雄しい山々の風景に、小学6年のある日、突然(友達と遊んでいる時に)、激しい感銘を受けたことがあった。

それまでは、ただ向え(錦江湾の向う)にある大隈の山だった。その大隈の山が、ある瞬間から、こころを揺り動かす美しい山々に変貌したのである。それは、私の自我の形成、理想の自我への芽生えを意味したのだろう。まるで、無二の親友のように山に語りかけ、恋人のように山を眺め、山をスッケッチしていたことを思い出す。

中学1年が終わって春休みだったと思う。母と兄弟姉妹で大隈半島の最南端の佐多岬に出かけたことがあった。フェリーに乗って、山川港から錦江湾の沖に出ると、こんどは薩摩半島が見える。山川港の後ろに美しい開聞岳(薩摩富士)が見えてくる。さらに沖にでると、薩摩半島最南端の山々が東シナ海の広い海面にへばり付いているように見えてくる。殆どが低い山と低いシラス台地の穏やかな地形である。

ふと、大隈半島の人々は、こんなのっぺりとした向かい(薩摩半島の南端)の地形を見て、何を感じているのだろうか。私のように自然の風景に感銘するだろうかと考えていた。

私の大隈の山々への感銘は、女性的なやさしくのっぺりとした地形で育った人間の「自分にない世界」への憧れではないのか。逆に、険しい大隈の山々の村で育った若者は、自分を育てた厳しい山々の自然に、私のように感銘するだろうか。感銘でなく、その厳しさとの闘いの日々をおくっているかもしれない。

私の大隈の山々への感銘は、厳しい世界への憧れから生まれたものである。しかし、彼らの現実は険しい大隈の山地の麓での厳し生活から生まれたものである。

私は、大隈の山々の雄雄しさに憧れ、逞しく生きることを価値とし、育てられた。
彼らは、その雄雄しい山の麓で、毎日険しい坂道と這い蹲るように通う山道を歩きながら、その苦境から出ること、その苦境を耐えることを、大隈の山々に言い聞かされた。

そんな思いをしながら、私の乗っていたフェリーは根占港についた。

2010年4月7日水曜日

Eddyさんの悪夢(プログラム科学論研究会の始まり)

三石博行

今日、いつものようにEddy Van Dromさんと「プログラム科学論研究会」を私の研究室で行った。
彼が、研究室に入るなり、「Hiro 大変な夢をみたんだ」と話し出す。

H.「なんだい、その大変な夢とは」

E.「寝る前に、吉田先生の論文を読んだんだ。そして、寝たら、大変な夢をみた。吉田先生の難解な文章(日本語)におぼれて、助けてくれと悲鳴をあげて、目が覚めた。夜中の2時だった。夢の中で、私は困難な文章に溺れていたんだよ。悲鳴を上げながら起きただよ。」
とEddyさんが話す。

H.「それは大変な悪夢(cauchemar)だったね。あんな文章に溺れたらどれほど怖いか。」
と私はおもしろ半分に彼をからかいながら話す。

Eddyさんは、私の言葉をききながら、面白半分に、自分の体験をまた説明しなおす。

H.「吉田先生が、君にさ、眠らないで勉強しろと言ったんじゃないか」
と私がさらに面白半分に答えると、それはないようねという表情で、彼は私をみた。

そして、彼と私は、いつものように、二人の研究会を始めた。

「これは 吉田理論で云うシンボルプログラムの一例である」というのが、二人の結論であった。

2010年4月1日木曜日

人的資源の確保と育成のために

三石博行

はじめに

何故、組織はその運営において人を育てなければならないのだろうか。それは組織とは人によって作られ、人によって運営され、人を形成するからである。人は組織にとって人的資源である。資源という表現によって人が物化するように思われるだろう。しかし、資源ということばによって、人という労働の質が具体的な企業経営の要素となる。人を活用し、また育てることの出来る組織のリーダのあり方について述べてみる。


人が資源でることを理解している人をリーダと呼ぶ

組織にとって人的資源は最も大切である。人材を集め、人材を活用し、人材を育てることの出来ない限り組織は発展しないだろう。何故なら、価値を生み出す力は人の働きにあるからだ。能力のある人が集まり、その能力が発揮され、また人の能力を育てる企業が経営的にうまくいっているといえるだろう。

その意味で、組織運営を行う人々は、組織の資源である人材について知らなければならない。もし、経営者が雇用している人々の能力に関する資料を持っていないなら、その経営者達は会社の資産管理のデータを持っていないのに等しい。

あるベンチャー企業の話であるが、一般にベンチャーといえば知的生産の拠点を意味する。知的生産力が高いことがその企業の命なのである。しかし、その企業の社長は、そこに勤務する職員の履歴を管理していない。そのため、折角雇っていても、部署に配属された状態の職員の姿しか見えない。

多くの人々がそうであるように、年齢を経ることに人々は色々なキャリア経験を重ねてきている。しかし、仮に企業の管理者が、職員の業績を管理していないなら、資産管理をやらない経営陣に等しい行為をすることになる。新しい事業企画を立ち上げるために必要な企業内の人材の活用は出来ないだろう。その度ごとに、新しい人を採用しなければならない。結果的に経費の無駄遣いをすることになる。

また、組織の人的資源を管理することによって、職員の適材適所の配置、能力開発、企業教育やバランスある人的資源日常的活用が可能になる。

よく企業で中間管理職になった職員が途方もない残業をしていたり、いつまでも派遣やパートで仕事をしている非常勤の職員が職場の大多数を占めていたりする場合がある。安く労働力を確保することで、質の高い労働力を確保すること機会を失っている場合もある。

このような事態は、多くの場合、企業の執行部が、人が組織の財産であるとう企業思想を持ってないことによって発生している。

人をうまく使うということは、人の積極性や能力を引き出すことであって、人を機会の一部のように消耗品として使い尽くすということではない。例え単純な作業であっても、仕事にはその仕事の質、言い換えると労働のスキル、顧客を大切にするサービス精神、仕事への思い(こころの入った仕事と呼ばれる)ものがある。それは、企業の執行部が働くひとを尊重することから生まれるだろう。

そのことがよく理解できた人をリーダと呼ぶ。それが理解できていない執行部は、多分、仕事の能率を上げることも、仕事の質を上げることも、仕事のなかで人を育てることも出来ないだろう。これは組織を運営する人々が身につけなければならない最低限の考え方だと思う。


人を育てる評価制度が職場を変える 

人的資源を管理するために必要な手段として評価がある。職員の仕事ぶりと仕事内容を評価する基準を持たない限り、職場での人材育成、質の高い労働力の管理は不可のである。

労働の評価ということばは常に否定的な意味で使われてきた。勤務評定がその一例である。職員が納得でないし、それどころか反対している評価の仕方や評価内容を持ち込むことで、評価という集団はむしろ職場の労働の質を悪くする材料になってしまう。

長年、小学生から大学生まで、テストで苦しめられたトラウマが評機構の存在意味、つまり評価する作業の社会的機能を正しく理解することができないようにしている。そのため、評価とかテストと聞いただけで嫌な気持ちになる。これは仕方がないことだ。

人の能力開発に役立つテストのやり方を纏めると以下のようになる。

1、評価の目的を明確にすること。評価は問題解決のための一つの手段と考え、評価されることのメリットを常に考えること。

2、評価の基準を明確にしておくこと。レッスン1の英語を理解したかという目標に対して、レッスン1に関するテストが準備されているように、評価とは何かある目標に向かって努力したことへの評価である。従って、評価の基準や評価内容を具体的にし、公開すること。そのことによって、評価を受ける側が、その評価を受ける行為を通じて獲得したい目標を明らかにすることが出来る。

3、評価とは評価を受ける人々にとって「自分の能力開発にとって必要な方法」として理解される形式や内容を検討すること。

4、例えば、テストをより理解を深めるための作業である。その考えに基づいているテスト形式が公文式のテストである。自分の理解度を自分が試し、評価し、能力開発の計画を自分で立てることが出来る形式を公文式のテストは与えている。公文式テストが最も理想的なスタイルをしているといえる。

5、評価する方とされる方が常に入れ替わること、つまり相互評価をする。


評価の仕方を考えることで、職員自ら、積極的に職場の仕事質や職員のスキルを向上させることが出来るだろう。


仕事を前に進めるための名言発案者

名言というものがある。ブログ村の哲学ブログの仲間が書いている「悩んだときには名言を」というブログがある。
http://ootanmax.blog45.fc2.com/


そのブログで選ばれ記載されている名言を読むと、なるほどと思う。名言とは、ものごとの本質を短い言葉で言い表し、現実の世界の姿や真摯な生き方、前を向いて生きようとするこころ、何かを希望する力や生命力を励ますことが出来直感的なことばである。


リーダとは現場の困難に立ち向かい、自分を向上させ続ける職員を勇気付けるために、職場に必要な名言を言い続ける人々である。名言集を暗記しているから名言が言えるのではないだろう。気持ちに響くことばを言うことは、具体的な現実とその中で働く人々の感性と解決したい問題の本質を理解しなければならないだろう。


職場のリーダはそうした仕事に立ち向かう人々のこころ、その内面性を理解しなければならないだろう。

参考
同ブログ文章 「労働に質を高めることの意味」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/03/blog-post_9095.html


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ