2010年3月31日水曜日

統計的分析方法による生活世界の解釈方法

三石博行

人間社会学的仮説証明方法と生活世界の解釈方法 


方法的懐疑の成立背景と近代合理主義

夢や幻覚も含めて生活世界の中で登場する知覚的に認知される世界は、明らかに認知している主体にとって知覚や感覚を伴う意識として存在する世界である。しかし、この意識として存在する(感覚・知覚される)世界が疑いようもなく、現実に存在していることを確認する作業が、近代合理主義精神を確立する上で必要とさていた。

その作業を「方法的懐疑」と呼んでいる。

何故なら、デカルトが個々まで懐疑という方法論をもちいて現実に知覚されている世界を疑わなければならなかった理由は、中世世界では「あの人は魔女だ」とある人が言った(告白)したら、その言動が現実としてその人を魔女にしてしまった世界の仕組みを解体することであった。

つまり、魔女狩り裁判によって生じる悲劇、例えば中世ヨーロッパを震撼させたペストの原因が魔女による仕業(例えば魔女が井戸水に毒を混ぜたとか)であり、その魔女へのヒステリックな排除としての魔女狩り裁判が行われ、多くの女性が謂われもない不条理な裁判によって殺害された悲劇を繰り返さないために、尊敬するモンテーニュが示す懐疑論と呼ばれる批判精神をデカルトは受け継いだのである。

疑いえる全ての意識世界を疑うことによって、疑っている自分の存在を疑い得ないという論理的なトートロジー(同義反復)にたどり着く、そして疑い得ない事実は疑う自分が存在していることであるという帰結に達する。

しかし、よく考えてなくても、疑う行為を成立させているのは実際に疑っている人にとって見えている、聞こえている、感じている世界であるからで、疑っている自分と疑っている対象は同時に存在しているのである。

疑っている自分が疑えない事実であるように、疑っている対象も疑う対象として存在している以上、その事実は否定できない。その意味で、このデカルト的な懐疑は意識的に、無理をしてまでと言ったほうがいいかもしれないが、疑う行為を行っていることになる。この行為を哲学の世界では方法論的懐疑と言った。

それには前記したような歴史的事件を背景にした理由、訳があった。中世社会を形成している思想を変革していくために、モンテーニュが提案し、デカルトが確立したように懐疑(疑う作業)を徹底的に定式化しなければならなかった。つまり、生活世界の意識の存在背景を、知覚や感覚の認識風景の存在背景の在り様を否定する試練(意図した企て)を企画し、自己意識と対象意識を明確に分離する作業を行い、対象世界から独立した自我、主体的に対象世界に立ち向かっていく自我を形成しなければならなかった。

こうして、徹底的に自己の主観的感覚から分離して存在している対象に対する認識を得るために、「疑う自己は疑えない」という徹底して明確に確信できる自己意識を拾い出したのである。

その疑う行為をもってしか成立しない主体を前提にして、はじめて明晰判明な世界が成立することになる。近代合理主義思想はこうして生まれたのである。


実験による理論形成と論理実証主義

方法的懐疑から生まれた明晰判明な事実、疑う行為によって成立している主体確認、疑う行為によって否定される感覚的対象世界、その個人の知覚的現象世界でなく、あらゆる人々に共通に現れる世界(例えば天体や物理運動の世界)の統一的(数学的)表現可能な世界こそ、明らかに疑えない世界の一部となる。

全ての人々が経験可能な世界と同様に、全ての人々に数学的(絶対的に共通する表現様式で登場する)世界こそ、疑う余地のない世界の一つである。

二つの疑う余地のない世界、疑っている自分と数学的に表現され、個々人の経験を超越して存在している世界、もしくは全ての人々に平等に経験可能な世界を認めることによって、そこに明晰判明な主体と対象の基本世界を確立した。その後、物理学の形成から始まる科学的世界観は、その二つの世界の成立条件を前提にして展開する。

そして、物理学を中心とする科学では、仮説(理論)の証明は再現可能な実験によってしか認められていない。つまり、自然科学における提起された理論を証明する唯一の手段は、その理論(仮説)によって説明される再現可能な現象が存在しなければならないのである。

その理論から導かれる自然現象の再現可能性とは、時代、文化や社会の違いを超えて、個人的な生活経験を超えて、すべての人々が平等に経験することの出来る現実であるいえる。その現実をもって、近代合理主義精神の成立以来、確実に存在する世界として認められる条件を満たすことになる。

以上述べたように、再現可能な実験を通じ、自然科学における理論は、その理論的仮説の証明問題が極めて明確な基準をもって形成され続けてきた。また、その二つの関係、再現可能な実験による理論の証明作業によって、強固な科学的経験主義と科学的合理主義の考え方が形成されてきたのである。

そして、物理学に見られるように、すでに確立した理論体系(公理系)の中では、理論から理論への説明が可能になる。それに助けられて発展した数学(数理論理学)のように、公理系内での定義と定義の間に成立する証明問題を通じて、論理実証性が確立して行き、法則式や公理から演繹しながら別の法則式や公理を証明することが可能になる。

そして、ある仮説が論理的に証明される限り、その仮説が正しいということが、論理体系内で成立することになる。演繹的な方法論は、物理学を中心とする実験的に再現可能な仮説から成立した理論的体系の形成を通じ、その理論的体系内で成立している理論的に説明可能な仮説の成立を許す条件を確立するのである。


複雑系での科学的方法、帰納法と統計的方法

物理や化学の自然現象の解明には、物理的要素や化学的要素を抽出にしながら複雑に絡む現象を分析的に解明する作業が前提になっている。つまり、分析的と呼ばれる手段によって、自然現象を構成している無数の物理量や化学成分の中から、ある成分が抽出される。それが一般に科学的方法と呼ばれているのである。

しかし、人間社会科学が対象とする世界は、物理学や化学の機器分析装置の中に入れて、実験することは出来ない。それらは現実にある世界、人間社会現象を直接調査しなければならない。つまり、観測された人間社会的な現象は実験から抽出された系と異なり複雑な要素からなる状態、多分、それらが幾つの要素とそれらの関係によって成立しているか不明な状態としてある。

それらの状態は、我々が日常生活の中で接している世界そのものを意味する。理論的に選択可能な世界でなく、生活世界の中で接し、観察している世界現象が、人間社会科学の対象とする現象である。

こうした世界の分析には統計学が用いられる。

統計学は、まず事象の発生確率が均等にあることを前提にして成立している現象から理論的(数学的)に、分析可能なモデルを仮定する。

実際の人間社会現象では、ある選ばれた事象の発生確率が等しいという理想的な系は存在していない。そこで、測定された現象を、出きり限り理論的に分析しやすいように、数学的にオーソライズあらた分布状態に修正する。すでに確立している統計的方法で分析する作業が選ばれることになる。この作業を標準化と呼んでいる。

標準化されたデータから導かれ仮説(作業仮説)を証明するために、その仮説が間違いであるとする仮説を立てる。それを帰無仮説と呼んでいる。この帰無仮説が否定されないかぎり作業仮説は成立し続けることになる。

再現可能な実験を通じて仮説を証明する可能性のない世界では、作業仮説の証明ではなく、その破棄が成立しなければ、作業仮説は存続すると考える。仮説の証明でなく、仮説の破棄が出来ないことによって、現象している複雑系のあり方を理論的に物語る手段を与えないという考え方なのである。

論理的に証明できない世界では、結果から原因を推察する方法、その推察方法は仮定された理論(仮説)を証明するのでなく、その仮説が成立しないと証明されない限りその仮説は存続し続けると考える方法を取るのである。言い換えると、複雑な系での帰納的推察する方法では、仮説を維持すること、疑い続ける作業を前提にしながら、現象の解明を続けることが要求されているのである。

もし、帰無仮説を否定できない以上作業仮説が成立し続けるというのであれば、その仮説(疑いている行為)を中止することは出来ないという意味になる。つまり、人間社会現象の分析では、間違いであるという仮説を否定できない以上、間違いであるとはいえないという論理が成立しているのである。


実生活での帰無仮説の破棄による思考方法

現実の生活の中で、将来の行動を予測するために推察をしたり仮定を立てたりして生活している。その判断によって、間違いをしてしまうことがしばしば起こる。

例えば、ある事態から次の事態を予測しなければならない場合に、自然に第一番目の事態が生じた原因に関する推察(仮説)を行っている。その推察を検証する作業が必要であるが、現実の生活では、物理や化学の実験のように、仮説を証明するための実験装置は用意されていない。現実生活の中で次から次にと登場する事態を一つ一つ分析しながら、はじめの推察が正しいか否かを検証しなければならない。

つまり、現実生活では常に移り行く事態を観察することが求められているのであるが、その事態からさらに推察される仮定された現実の処理能力や方法が問われているのである。

もし、社会統計の達人であれば、最初に事態(事象)から予測(仮定)されるその事態の説明(理論的説明)を否定する仮説(帰無仮説)を設定することになる。このことは、言い方を変えると、予測される説明(仮説)を疑い続けるということに他ならない。

さらに生じた別の事態(事象)を受けて、はじめに立てた仮説を否定するか肯定するかという作業を常に繰り返している。その中で、最終的結論が作業仮説の選択か破棄の行為となる。しかし、その仮定は、前進的方法で作業仮説を採用するのでなく、逆説的に帰無仮説を破棄することで作業仮説の成立を認めるという方法を取るのである。

この方法に大切な意味が隠されている。それは、帰無仮説を破棄する作業の意味である。その破棄が行われるということは「作業仮説が成立しないことを証明することはできない」という意味である以上、帰無仮説が破棄されても、完全に作業仮説の成立が確立したのでなく、その作業仮説が成立しないことが証明できないということになったに過ぎないのである。

言い方を換えると、絶対的に作業仮説が成立したと断言できたのでなく、ある確率(一般に95パーセント以上の確率)で成立している状態にあると言っているのである。

そうだとすれば、最初の事態(事象)から次の事象を経て、はじめの事態から仮定される何らかの説明(ここでは作業仮説)は、次の事態、その次の事態を経ながら、95パーセントの確率で説明可能であると表現されることになる。その5パーセントの証明が間違いではないかという可能性をつねに持ち続けていることになる。

これが生活世界の現実である。そしてその現実への対応とは、そこで生じる事象の原因の解明作業において、つねに、白か黒かの判断が出来ないという事実を示されていることになる。そのため、我々は仮に5パーセントの疑いのある仮説を維持し続けなければ成らないのである。

生活世界での科学的な判断とは、その5パーセントの帰無仮説の成立条件を前提にした、帰無仮説の否定条件の成立の現実を理解しておくことになる。

ある意見を固定的に断定してしまうことが、生活世界の科学的な合理的な方法でないことが、以上、科学的仮説の成立の歴史的過程の分析から理解できるだろう。


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