2010年3月25日木曜日

日常性の点検としてのブログ活動-

三石博行

日常生活の点検活動としての意味

書かざるを得ないがために書く(日記の原点)

私は12歳の時から日記を書き始めた。高校時代や大学時代は日記を書くことが日常生活の大切な一部となっており、日記にタイトルを付けていた。「日常性から思想性」へというのがそのころ日記に付けていたタイトルだった。

生活行為がすべての思想的根拠をものがたるものであり、生活行為を通じて思想的点検や確認が可能になるというのが、その時代の哲学や思想に対する視点であった。生活行為を通じて自らの思想を検証する作業として日記があった。

しかし、その時代の日記はつねに同じ問題をめぐり同じこと(同じ文章)を繰り返し書き続けていた。言い換えると、その時代は、自分を書かなければ生きていけなかった。書くために書いていた。

書くことで自己の生を見出し、その意味付けを自らに要求していた。ただ書かなければならないから書いていた。

思索のために、論理を纏めるために書くよりも、書くことでどうしようもない自分を吐き出し、書かなければ身がもたないから書いていた。苦しむこころを癒すために書いていた。

明日を生きるために、今を苦しむ心にその激しい行き場のないはけ口を、書くという行為に見つけ出し、ただ我武者羅(がむしゃら)に、気持ちを筆に握り締め、文字として吐き出していたのだった。

だから、そこには自分の為に書く、書かざるを得ない自分のために書くという行為以外に、書くことの意味は存在していなかった。


日常的に発生し続ける課題分析のために書く(自己の思想性の点検作業の入り口)

少年時代からの夢であった理論化学の研究をあきらめた私は、20代の後半を勤労者の職場環境の安全衛生問題や公害問題等の社会運動に費やした。

その時代、労働災害職業病を企業や行政に認めさせるために、労働安全や職場改善に関する専門的な知識を活かして、活動していた。職場調査や労働省やその下部組織の労働基準監督署への労災職業病認定のための工学・医学的意見書を専門家と一緒に書いていた。そして、労働基準法、労働衛生法に即した救済措置の法律的根拠を法律家と一緒に書いていた。

当然、社会活動という仕事を成し遂げるために、日記は書かれていくことになる。仕事としての社会運動を思想的に点検する道具として日記は活用されていた。自分の内面を分析する作業ではなく、社会情勢と自分の社会活動との関係やあり方の分析に多くの書く時間が必要とされていた。

そして次第に、20代のように自分の内面を赤裸々に記述する作業から生み出される文字から、社会情勢分析や運動論のような自分の内面の課題とは関係しない文字に日記は埋め尽くされた。「日常性から思想性へ」というタイトルも日記から消えた。

その結末は傲慢で思い込みの激しい生活行為を自己点検できない状態、それを正当化する自分の姿であった。そして共に社会改革を誓い、すべての生活を掛けて社会活動を共にしてきた仲間からの不信、彼らの気持ちを理解できない傲慢な自分と破壊的行為であった。

多くの友を失い傷つけたことが私の社会正義のための運動の結末であった。その基本的原因は、生活活動を日々内面性に向け、自己化し、内省する力を失った私の生き方から生じる生活行為にあった。社会正義のために、労災職業病に苦しむ勤労者を救済するために、貧困を生み出す社会を改革するために、私は何をしても許されるのだと思っていた。

「核戦争(戦争)も結果的に革命のために役立つなら、それは良いことだ」とか「暴力も権力を倒すために必要なのだ」という論理がそのまま登場し、かくてその矛盾(スターリン主義と呼んでいた)を批判したはずの以前の自分が無視され、無し崩しの思想的転向を受入れ、非人道主義、暴力や人権無視を、まことしなやかに受け入れていた。

人々や自分の「痛み」から始まった社会正義への感性はいつのまにか、その痛みを与え、それを正当化する側に立っていた。その矛盾に気付く時、思想的に転向した自分への点検活動を抜きには、今後、生きられない状態になっていた。

20代中期から後期にかけて、生活の全てを賭けて取り組んだ社会運動をやめた。それは当時の私にとって問われた課題を見つめるために残された一つの選択であった。

そして、私は家族を置いてインドへ逃げるようにして旅立った。そこで観たものは貧困が人間にとって最悪の環境であるということだった。その貧困の中で生涯を終える何億の民のために私に何が出来るのか、私の信じていた社会改革の理論で何ができるのかという問いかけであった。その巨大な問題の前に、私はあまりにも無力であった。

私の哲学はそれらの現実から逃げるために選んだ居場所であったのかと問いかけながら、フランスで哲学を始めた。その時、私は30代のはじめであった。

私には、主観的には哲学を研究する意味があった。しかし、それは哲学を研究する理由を自分に言い聞かすことで成立していたその時の自分の姿であったとも言える。固定概念化の意識過程を明らかにすることが私の哲学問題であった。

何故、自分はその前に否定し批判した筈の権力と同質の思想になったのかを理解しなければならなかった。「怪物と戦う者よ、君がその怪物になっていないか注意したまえ」とニーチェは書いている。私はニーチェを読みながら、何一つその意味を理解していなかったのだろうか?

そして、自ら命を断った長瀬君が私に書き送った手紙を何遍となく読み返しながら、「君に答える力を与えてくれ」と思う日々が続いた。そして私の中の怪物(ドグマ)の起源を探す作業が、デカルトの研究を媒介にしながら始まり、フロイトやポスト構造主義にたどり着いた。


思考実験の方法として書く

科学技術文明社会での哲学の意味とは反省的思惟の維持機能であろうと思った。何故なら、西洋哲学の歴史的流れの中で、自然哲学は自然科学に、存在論は存在一般論から意識主体の存在のあり方に限定され、認識論は認識一般論から科学認識の点検へと限定されていた。

哲学の存在意味は、自らの落とし子である近代合理主義や科学啓蒙思想として絶対的に肯定された自然科学や社会科学への点検活動、さらにはそれらの科学技術によって形成された現代社会の社会文化観念形態(イデオロギー)の点検活動に限定されようとしている。

反省学としての哲学の成立の試みはカント以後の西洋哲学の流れのように思える。そのために問われたのが近代合理主義以来成立し君臨してきた主観と客観の二元論的世界観であった。

何故なら、中世世界を支配した物質的存在を語る「質料」に対する情報的存在形態を語る「形相」は、あるがままの一つの世界の姿であって、質料に従属する世界ではなかった。しかし、主観性は客観性と同義語化していく科学的(より真理に近い)見方に対して従属的世界に転落し続けるのである。

その転落を防ぐために、主に新しい人間社会科学の展開とそれを支える哲学、現象学の間主観性や共同主観性の考え方、精神現象学、生の哲学、実存主義、解釈学、構造主義やポスト構造主義が登場してきた。

近代合理主義の形成が果たした大きな役割、問題解決力を持ち、実験的経験則に基づく論理的合理性、つまり未来の現象を予測可能にする力(知識)しか合理的と呼ばれる称号を得られない知の成立条件の厳しさを知的活動に与えたことである。

「経験から知識へ」や「実験から理論へ」という経験論的な考え方は近代合理主義精神の形成の基本である。そして、現実から理論への経験主義思想の延長線に、ここで述べられる「日常性から思想性へ」というキャッチフレーズが登場したに過ぎない。このまったく目新しくもない考え方は、科学技術を駆使しながら社会発展を形成してきた現代人であれば誰でも理解できる目標である。

日常生活で経験したことで何が最も大切な記述事項となるだろうかと考えたとき、予定したこと、企画や計画と実行とのずれ、または予測したことが現実からかけ離れていた事実、失敗経験、反省すべきこと等々が思い浮かぶ。記録する作業は、一種の分析作業である。もしくは、認識と評価作業である。

そのため、問題を抱え、書かなければならない課題を抱え、書きたくて書いている作業である。しかし、その作業にも、技術(知的生産の技術)が必要となる。

また、哲学博士の学位論文に選んだ課題「フロイトのメタ心理学の脱構築と最構築 -システム認識論試論-」を書き進めながら、フロイトの理論の自己組織性のシステム論的解釈展開の論拠となる仮説を検証するために、思考実験を行った。フランス語で書く前に、日本語で何遍となく思考実験を行い、その矛盾点を発見する作業を続けた。

学位論文を終えるまで、1000字詰めのB4形式のノート、数百ページに書かれた思考実験によって、論理的矛盾点を点検する作業を行った。


記述行為を通じての問題分析過程

1、クロッキー

経験した世界を語ることが出来るなら、その経験はすでに身体的な直感から切り離され、外化され非反省的に生きている生身の自我と対自する他者化された(社会化された)経験、つまり共同主観化された経験になっているだろう。

経験されている世界は、殆ど対自化することが出来ないほど自我の根底(無意識的存在形態)に留まっている。
その無意識的存在形態、自我の根底に沈積している非反省的経験、日常性を形作る無反省な行為主体の姿を言語化するためには、その非自覚的行為を意識的行為へと変換しなければならない。
それが当たり前の事実に対してある日襲われる「ショック」の経験である。その「ショック」とは、その経験が、今までの自我を危機に導くものであるに違いない。

言い換えると、自己に日常的に経験され続けている世界を自己として感じる限り、その経験された世界と自己意識を分離することは困難である。その分離をもたらすものが疎外である。
それは自己対するもの「対自化」された世界である。対自化された世界とは、非反省的自己意識としての世界でなく、自己意識の中で登場する他者である。
つまり、疎外やショックとして登場した他者に関する意識である。

人が日常性を「書かざるを得ない対象」と考えるのは、無意識的な経験世界からはみ出る疎外された世界として日常性が存在しているからである。

日常性から思想性へということは、その日常性の中に渦巻く疎外形態を何とか解決しなければ生きていけない思いを前提にして語られていることばである。

疎外形態をもって現れた日常性に対する意識は、感性という非反省的世界存在が反省的世界存在に変遷する過程の精神活動を経ながら、経験した生活や社会としての自己意識へと変化する。
感じること、その感じている世界がことば化すること、ことば化した世界を再度受け止めなおすこと、非反省的経験活動(生命活動)はこのようにして対自化され、意識的経験活動へと変化するのである。

感性的にうごめく世界をことばにするとき、その輪郭を描く作業が必要となる。文章化以前のことばを、表象形態化以前の形を求めて、描く作業が「クロッキー」である。

その意味で、日常性から思想性への作業の第一段階にクロッキーは必要となる。クロッキーノートを持ち、自由に思い描く言葉を形に描く作業が「知的生産の活動」の技術として必要となる。



2、スッケッチ

直感的に吐き出したことばや形によって、不安定な自我は少しだけ安定化する。クロッキーに描いた自己の姿とは「気持ち的に納得している自分の姿」に過ぎない。

つまり、思っていること感じていることを表現したと思っている状態がクロッキーとして描かれた世界であり自己である。

文法的構成を持たない表現や全体的な形象を前提にして成立していないイメージ(心象)について理解しておかなければならない。

文法的構成を持たない表現は論理的構造を持たない表現であり、また同様に全体的な形象の部分として成立していない形は、構造的関係を持たない要素表現であると言ってもいいのである。

その意味で、クロッキーの後に一瞬生まれる「解った」「書けた」と思う気持ちは、疎外感から抜け出た安堵感に過ぎない。試しに、クロッキーしたものをスッケッチするとその現実が、何も分かっていない自分の現実が理解できるのである。

スケッチとは直感的に了解した世界を(非反省的経験を)前反省的経験に移行し、さらに反省的経験に導く作業である。

文章化とは文法に即して言語化することであり、それ自体、非反省的意識が社会的規則性(文法)を通じて、社会化する過程を意味している。
その過程を「内的世界の外化」と呼んでいる。非反省的に存在している無意識の体験された世界、自己と他者(対象世界)の区分が生まれる前の外的世界の内化された世界は、再び、それを外化することで、その世界(経験)が対自化され、意識化されるのだろう。
その過程には、ことばや文字が必要なのである。何故なら、それらは自我を作った社会的規則であり社会的形態であるからだ。

クロッキーからスケッチを通じて、ようやく、経験が生まれる。ようやく、他者化された自己意識(対象化された自己存在への理解)が生じる。そして、その経験も同時に対象化され、社会化されるのである。

経験とは社会化された体験であり、言語化された行動であり、共同化された行為である。そのためには、表現、つまり文法的に整理された言語化の過程(スッケッチ)が必要である。

スケッチすることで、経験された事象を整理し問題点や課題を理解することが出来る。つまり、スッケッチは日常生活を描く(スッケッチ)する作業である。その作業の中で、問題点や課題が浮び上がるのである。


3、思考実験

問題を抽出する作業としてのスッケッチから、問題を構成する要素を分析する作業が求められる。その時、クロッキーからスケッチの作業過程だけでは、問題分析は出来ない。問題分析作業では、スッケッチで明らかになった問題点、整理された課題を分析し、その課題や問題を引き起こす要素を取り出さなければならない。

言い換えると、問題分析作業では、スッケッチ過程で生じてきた色々な疑惑(仮説)を一つ一つ拾い出し、それらを外化(文章化)しなければならない。この仮説を設定する作業がスケッチから思考実験への最初の課題となる。

問題の原因、その理由について述べる。その仮定された要素が本当に問題を生み出しているであるかどうかを検証する作業が必要となる。この作業を「思考実験」と呼んでいる。

つまり、問題の原因であると仮定された要素から問題として観測された現象が再現するのかを思考実験するのである。仮定した条件や要素から思考過程(文書化によって)結果を導く作業が思考実験となる。つまり、この思考実験を経ない限り、理論構築作業は不可能である。

統計学は数学的言語における思考実験であるといえる。人間社会学は伝統的に言語活動によって、直感や生活経験と呼ばれる質的経験値の実証や検証を文章化という「思考実験」で行ってきたのである。

それに対して、経済学や経営学では量的データ(数字化された言語)があるために、この思考実験は、さらに厳密に方法論化された。それが統計学である。その背景は事象が生じる確率という数学的現象を前提にして、その統計学的思考実験の論理性が成立、確立しているのである。



4、自分のために表現する実験的表現

クロッキー、スケッチや思考実験の記録は様式の違いあるものの、記述する作業である。記述する作業は思惟を展開する作業にとっては必要である。必要と言うより記述を通じて思惟活動が成立していると言った方がよい。記述は口頭表現に比べると、表現したい気持ちが先行するのを論理的表現の足枷(あしかせ)を着けることで表現活動から主観的な感情的要素に制御を加える。

記述することで、先に述べた経験の文章化(文法に即して言語化する作業)をさらに論理的文章化へと導くことが可能となる。

しかし、記述する作業は多様な形態(表現形態)がある。例えば、研究成果をアブストラクト、報告書、論文等にまとめる。研究者であればだれでも行う記述行為である。
しかし、厳密な表現方法である文献資料、統計分析や論理的展開表現を要請される科学論文以外にも、内省過程を記述するエッセイや評論等もあるし、散文、詩や小説という表現もある。

どの様な形態であれ表現することは、思惟する人々にとって大切な行為である。

また、表現することは対象への表現行為である。例えば、一人で書く日記にしろ、ブログで書く公開日記にしろ、また友人への手紙にしろ、必ず誰かに(自分も誰かの一人である)表現したいと思って生まれた行為であるのだ。

私はこのブログ「生活運動から思想運動へ」を書くのは、気の向くままに、思いつきの考えをまとめ、それを誰でも見られる、つまり不特定多数の傍観者の前で発表しているのである。見られる可能性のある場で、見られることを期待しないで自分の考えを述べているのである。

このブログへの評価、例えば、私の文章が難かしとか、考えが甘いとか、間違っているというような私の文章への評価をまったく気にしないで、思うままに書いてきたのが、このブログである。その意味で、つまりは自分のために書いた文章であると言える。

クロッキー、スケッチ、思考実験の後に、実験的表現作業を必要としている。その実験を積み重ねるとき、できればこの実験を横で見ていて、いろいろと言ってくれる人がいたらいい。しかし、ほとんどの人は自分のことで忙しいので、自分のために書いているものまで見てくれることを頼むことはできないだろうと思う。

そうした期待をもって、誰が見ているか分からないネット上で、不特定多数の人々に文章を公開する。そのブログ文書は、公開された途端に、それは他の人々の世界に一人歩きする。そのことを前提にして書く。それがブログを書く行為なのである。

この作業は、書くことが楽しみであり、書く行為自体が目的化される。こうした楽しみをひとつぐらい持つことで、生活は少し豊かになるかもしれない。



社会的行為としての表現

社会的に必要とされている課題に対する行為を労働(仕事)と呼んでいる。仕事は自分の主観的満足を得るためでなく、社会(具体的には家族や他人)が必要としている行為を請負うことである。その意味で、書く行為は自分のために書くことから、社会的に必要とされている形式や表現で書くということになる。

仕事で書く報告書、教材で配布する資料、学会の論文誌に記載する論文、大衆雑誌に記載する記事、新聞記事等々、他人に読ませるために、仕事として書く文章がある。これらの文章はそれぞれの社会集団の必要に応じて、そのスタイルや様式が決定されている。そのため、文章はその様式を無視することはできない。

現代社会、情報化社会や科学技術社会では、あらゆる仕事にそれなりの仕事としての記述表現様式が存在している。つまり、それらの社会的要請に即した文章(仕事としての記述表現)を身につけることで社会人として資格を得るのである。



ブログを書くという行為

ブログに書いた文章は、学会や紀要等の研究雑誌に記載した論文ではない。それでも、私のブログ文章が論文的になるのは、私の文書の書き方の癖であり、この癖はあまりブログの書き方では評価できない。
ブログの書き方、文体を工夫しなければならない。それが今の問題である。

一般にブログの文章は、思ったことをそのまま書くために、極めて主観的で、言われていることの検証もなく、また書き方も厳密な論証を欠く場合が多い。それでも書くのは、心象をスッケッチし、また論理が成立するか思考実験を行うためである。

また、自分だけで書く日記と違い、ブログは書いた内容が不特定多数の人々に公開される。その文章が誰に読まれているか、また読まれないか、書いた私は知らない。そのことを気にもしない。ただ、読まれることを前提にしながら書いている。

うるさい反論や批判に答える時間はないが、反論や批判を含めて不特定多数の人々からの反応があることを期待していることは確かである。しかし、それだからと言って、人々に解ってもらえるように、書く気はないようだ。

思うまま、難しいと言われながらも、その文体を変える努力を中心に据えていない。書くこと、書く行為が重視される。それは、日記と同じように自分のためである。書きたくて書き、こころの安定を求めて書く、書くことを楽しんで書く、書くために書く、つまり、自分のために書いている。それがブログである。

その意味でブログは中途半端な他者へのメッセージという社会的行為である。

しかし、この公開思考実験を通じて、社会的行為(論文や著作活動)に繋げたいのである。


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