2010年3月31日水曜日

統計的分析方法による生活世界の解釈方法

三石博行

人間社会学的仮説証明方法と生活世界の解釈方法 


方法的懐疑の成立背景と近代合理主義

夢や幻覚も含めて生活世界の中で登場する知覚的に認知される世界は、明らかに認知している主体にとって知覚や感覚を伴う意識として存在する世界である。しかし、この意識として存在する(感覚・知覚される)世界が疑いようもなく、現実に存在していることを確認する作業が、近代合理主義精神を確立する上で必要とさていた。

その作業を「方法的懐疑」と呼んでいる。

何故なら、デカルトが個々まで懐疑という方法論をもちいて現実に知覚されている世界を疑わなければならなかった理由は、中世世界では「あの人は魔女だ」とある人が言った(告白)したら、その言動が現実としてその人を魔女にしてしまった世界の仕組みを解体することであった。

つまり、魔女狩り裁判によって生じる悲劇、例えば中世ヨーロッパを震撼させたペストの原因が魔女による仕業(例えば魔女が井戸水に毒を混ぜたとか)であり、その魔女へのヒステリックな排除としての魔女狩り裁判が行われ、多くの女性が謂われもない不条理な裁判によって殺害された悲劇を繰り返さないために、尊敬するモンテーニュが示す懐疑論と呼ばれる批判精神をデカルトは受け継いだのである。

疑いえる全ての意識世界を疑うことによって、疑っている自分の存在を疑い得ないという論理的なトートロジー(同義反復)にたどり着く、そして疑い得ない事実は疑う自分が存在していることであるという帰結に達する。

しかし、よく考えてなくても、疑う行為を成立させているのは実際に疑っている人にとって見えている、聞こえている、感じている世界であるからで、疑っている自分と疑っている対象は同時に存在しているのである。

疑っている自分が疑えない事実であるように、疑っている対象も疑う対象として存在している以上、その事実は否定できない。その意味で、このデカルト的な懐疑は意識的に、無理をしてまでと言ったほうがいいかもしれないが、疑う行為を行っていることになる。この行為を哲学の世界では方法論的懐疑と言った。

それには前記したような歴史的事件を背景にした理由、訳があった。中世社会を形成している思想を変革していくために、モンテーニュが提案し、デカルトが確立したように懐疑(疑う作業)を徹底的に定式化しなければならなかった。つまり、生活世界の意識の存在背景を、知覚や感覚の認識風景の存在背景の在り様を否定する試練(意図した企て)を企画し、自己意識と対象意識を明確に分離する作業を行い、対象世界から独立した自我、主体的に対象世界に立ち向かっていく自我を形成しなければならなかった。

こうして、徹底的に自己の主観的感覚から分離して存在している対象に対する認識を得るために、「疑う自己は疑えない」という徹底して明確に確信できる自己意識を拾い出したのである。

その疑う行為をもってしか成立しない主体を前提にして、はじめて明晰判明な世界が成立することになる。近代合理主義思想はこうして生まれたのである。


実験による理論形成と論理実証主義

方法的懐疑から生まれた明晰判明な事実、疑う行為によって成立している主体確認、疑う行為によって否定される感覚的対象世界、その個人の知覚的現象世界でなく、あらゆる人々に共通に現れる世界(例えば天体や物理運動の世界)の統一的(数学的)表現可能な世界こそ、明らかに疑えない世界の一部となる。

全ての人々が経験可能な世界と同様に、全ての人々に数学的(絶対的に共通する表現様式で登場する)世界こそ、疑う余地のない世界の一つである。

二つの疑う余地のない世界、疑っている自分と数学的に表現され、個々人の経験を超越して存在している世界、もしくは全ての人々に平等に経験可能な世界を認めることによって、そこに明晰判明な主体と対象の基本世界を確立した。その後、物理学の形成から始まる科学的世界観は、その二つの世界の成立条件を前提にして展開する。

そして、物理学を中心とする科学では、仮説(理論)の証明は再現可能な実験によってしか認められていない。つまり、自然科学における提起された理論を証明する唯一の手段は、その理論(仮説)によって説明される再現可能な現象が存在しなければならないのである。

その理論から導かれる自然現象の再現可能性とは、時代、文化や社会の違いを超えて、個人的な生活経験を超えて、すべての人々が平等に経験することの出来る現実であるいえる。その現実をもって、近代合理主義精神の成立以来、確実に存在する世界として認められる条件を満たすことになる。

以上述べたように、再現可能な実験を通じ、自然科学における理論は、その理論的仮説の証明問題が極めて明確な基準をもって形成され続けてきた。また、その二つの関係、再現可能な実験による理論の証明作業によって、強固な科学的経験主義と科学的合理主義の考え方が形成されてきたのである。

そして、物理学に見られるように、すでに確立した理論体系(公理系)の中では、理論から理論への説明が可能になる。それに助けられて発展した数学(数理論理学)のように、公理系内での定義と定義の間に成立する証明問題を通じて、論理実証性が確立して行き、法則式や公理から演繹しながら別の法則式や公理を証明することが可能になる。

そして、ある仮説が論理的に証明される限り、その仮説が正しいということが、論理体系内で成立することになる。演繹的な方法論は、物理学を中心とする実験的に再現可能な仮説から成立した理論的体系の形成を通じ、その理論的体系内で成立している理論的に説明可能な仮説の成立を許す条件を確立するのである。


複雑系での科学的方法、帰納法と統計的方法

物理や化学の自然現象の解明には、物理的要素や化学的要素を抽出にしながら複雑に絡む現象を分析的に解明する作業が前提になっている。つまり、分析的と呼ばれる手段によって、自然現象を構成している無数の物理量や化学成分の中から、ある成分が抽出される。それが一般に科学的方法と呼ばれているのである。

しかし、人間社会科学が対象とする世界は、物理学や化学の機器分析装置の中に入れて、実験することは出来ない。それらは現実にある世界、人間社会現象を直接調査しなければならない。つまり、観測された人間社会的な現象は実験から抽出された系と異なり複雑な要素からなる状態、多分、それらが幾つの要素とそれらの関係によって成立しているか不明な状態としてある。

それらの状態は、我々が日常生活の中で接している世界そのものを意味する。理論的に選択可能な世界でなく、生活世界の中で接し、観察している世界現象が、人間社会科学の対象とする現象である。

こうした世界の分析には統計学が用いられる。

統計学は、まず事象の発生確率が均等にあることを前提にして成立している現象から理論的(数学的)に、分析可能なモデルを仮定する。

実際の人間社会現象では、ある選ばれた事象の発生確率が等しいという理想的な系は存在していない。そこで、測定された現象を、出きり限り理論的に分析しやすいように、数学的にオーソライズあらた分布状態に修正する。すでに確立している統計的方法で分析する作業が選ばれることになる。この作業を標準化と呼んでいる。

標準化されたデータから導かれ仮説(作業仮説)を証明するために、その仮説が間違いであるとする仮説を立てる。それを帰無仮説と呼んでいる。この帰無仮説が否定されないかぎり作業仮説は成立し続けることになる。

再現可能な実験を通じて仮説を証明する可能性のない世界では、作業仮説の証明ではなく、その破棄が成立しなければ、作業仮説は存続すると考える。仮説の証明でなく、仮説の破棄が出来ないことによって、現象している複雑系のあり方を理論的に物語る手段を与えないという考え方なのである。

論理的に証明できない世界では、結果から原因を推察する方法、その推察方法は仮定された理論(仮説)を証明するのでなく、その仮説が成立しないと証明されない限りその仮説は存続し続けると考える方法を取るのである。言い換えると、複雑な系での帰納的推察する方法では、仮説を維持すること、疑い続ける作業を前提にしながら、現象の解明を続けることが要求されているのである。

もし、帰無仮説を否定できない以上作業仮説が成立し続けるというのであれば、その仮説(疑いている行為)を中止することは出来ないという意味になる。つまり、人間社会現象の分析では、間違いであるという仮説を否定できない以上、間違いであるとはいえないという論理が成立しているのである。


実生活での帰無仮説の破棄による思考方法

現実の生活の中で、将来の行動を予測するために推察をしたり仮定を立てたりして生活している。その判断によって、間違いをしてしまうことがしばしば起こる。

例えば、ある事態から次の事態を予測しなければならない場合に、自然に第一番目の事態が生じた原因に関する推察(仮説)を行っている。その推察を検証する作業が必要であるが、現実の生活では、物理や化学の実験のように、仮説を証明するための実験装置は用意されていない。現実生活の中で次から次にと登場する事態を一つ一つ分析しながら、はじめの推察が正しいか否かを検証しなければならない。

つまり、現実生活では常に移り行く事態を観察することが求められているのであるが、その事態からさらに推察される仮定された現実の処理能力や方法が問われているのである。

もし、社会統計の達人であれば、最初に事態(事象)から予測(仮定)されるその事態の説明(理論的説明)を否定する仮説(帰無仮説)を設定することになる。このことは、言い方を変えると、予測される説明(仮説)を疑い続けるということに他ならない。

さらに生じた別の事態(事象)を受けて、はじめに立てた仮説を否定するか肯定するかという作業を常に繰り返している。その中で、最終的結論が作業仮説の選択か破棄の行為となる。しかし、その仮定は、前進的方法で作業仮説を採用するのでなく、逆説的に帰無仮説を破棄することで作業仮説の成立を認めるという方法を取るのである。

この方法に大切な意味が隠されている。それは、帰無仮説を破棄する作業の意味である。その破棄が行われるということは「作業仮説が成立しないことを証明することはできない」という意味である以上、帰無仮説が破棄されても、完全に作業仮説の成立が確立したのでなく、その作業仮説が成立しないことが証明できないということになったに過ぎないのである。

言い方を換えると、絶対的に作業仮説が成立したと断言できたのでなく、ある確率(一般に95パーセント以上の確率)で成立している状態にあると言っているのである。

そうだとすれば、最初の事態(事象)から次の事象を経て、はじめの事態から仮定される何らかの説明(ここでは作業仮説)は、次の事態、その次の事態を経ながら、95パーセントの確率で説明可能であると表現されることになる。その5パーセントの証明が間違いではないかという可能性をつねに持ち続けていることになる。

これが生活世界の現実である。そしてその現実への対応とは、そこで生じる事象の原因の解明作業において、つねに、白か黒かの判断が出来ないという事実を示されていることになる。そのため、我々は仮に5パーセントの疑いのある仮説を維持し続けなければ成らないのである。

生活世界での科学的な判断とは、その5パーセントの帰無仮説の成立条件を前提にした、帰無仮説の否定条件の成立の現実を理解しておくことになる。

ある意見を固定的に断定してしまうことが、生活世界の科学的な合理的な方法でないことが、以上、科学的仮説の成立の歴史的過程の分析から理解できるだろう。


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現在の検討している課題

三石博行

日常生活の中で問われている課題から

今、スケッチしている課題は

1、日常生活の中で確証する方法、帰無仮説の否定と肯定作業、仮説を維持することの意味

2、人的資源を大切にすることの意味とその方法

3、プログラム科学論における「プログラム」の概念(吉田民人先生との議論から)

4、自己組織性という概念について

5、EU形成過程から考える東アジアの国際地域環境問題の解決の糸口について

以上

2010年3月26日金曜日

人工物プログラム科学論的分析による設計科学の成立条件

三石博行

設計科学としての政策学の成立条件とは何か

1、機能構造分析方法としての人工物プログラム科学論

自然科学では法則の証明は、法則から説明される自然現象が再現可能であることが絶対的条件となっている。法則的説明によって説明される自然現象が再現可能性を持たなければ、その前提条件である法則的説明が成立しないのである。

しかし、人間社会科学では、社会規則によって説明可能な社会現象の再現性を前提にして、その規則性の成立条件とすることは殆ど不可能な要求となる。社会文化人間精神現象には法則性は存在しない。そこにはその現象を生み出すための社会的、文化的、人間的、精神的な条件や環境とそれらの複雑な要素間にある関係である。そのためそれらの要素とその要素間の関係、そしてそれによって生み出される諸機能とそれらの諸機能間の関係を総称して「人工物プログラム」と吉田民人は呼んでいる。

社会文化人間精神現象を生成する要素を仮定し、それらの要素間の関係をプログラムと呼ぶことで、これまで人間社会科学の科学分析として活用されてきた機能構造分析の概念をより拡張して展開援用することが出来る。吉田民人のプログラム概念には、こうした歴史的な人間社会学方法論の拡張解釈の企画が込められていたのではないだろうか。

私は吉田民人先生の個人的講義の最中に、「人工物プログラム科学論はこれまでの人間社会科学で述べられてきた機能構造分析のより緻密な分析方法の提案ではないですか」と質問したことがあった。先生は「その通りです」と答えられたことを思い出す。



2、自己組織性の設計科学としての人間社会科学の再構築

人間社会文化現象を構成する人工物プログラムは、その世界の物的資源形態(物理的及び生物的)と言語記号的資源形態からなる。その意味で法則、シグナルプログラムやシンボルプログラムの三つの秩序の複合形態を取っている。

今までの機能構造分析(社会学や文化人類学での)が、人間社会文化現象のシンボルプログラム的要素の分析を行いて来た歴史的過程、つまり機能主義や構造主義の流れの中で、科学技術文明社会時代での法則科学的に機能する人工物(機械等)とシグナルプログラム的に機能する人工物(遺伝子操作による生産物)を抜きにして語れない社会経済システムの解明を課題にした新しい社会科学理論の提案であることは疑えないのである。

人間社会文化現象を構成している人工物プログラムを見つけ出す作業(仮説設定)が、人工物プログラム科学論を前提とした人間社会科学の立場である。

そして、同時に、それらのプログラム要素の検証作業が、設計科学としての政策学や社会文化技術論である。

人間社会科学のあり方、それは社会改革のための、社会文化の問題解決のための、人間の幸福を求めるための明確な目的をもった政策学であることが、人工物プログラム科学論成立条件となり、その実証や検証作業として人工物プログラムの設計科学があることが吉田民人によって提案されている。

その意味で、人間社会文化現象の機能構造分析過程、つまり人間社会科学基礎論としての人工物プログラム科学論的な認識解釈作業、自然法則とシグナル及びシンボルプログラムの三つの秩序の複合体として人間社会文化システムの理解作業を前提にしながら、現実社会が求める社会文化システムや道具の改造や改革を課題にした設計科学としての人間社会科学や人工物科学(工学、農水林産学、医学、薬学や環境学)の構築が課題になる。

問題解決学を前提とした認識科学の理解、より合理的で実践的な設計科学の構築のための基礎理論としてプログラム科学論は存在する。

人間社会科学と人工物科学は自由領域科学としてそれぞれの学問的ディシプリンの境界を意識的に外す。ただ拘らなければならないのは現実の問題解決力である。どのような科学的方法が、問題解決力を発揮する力を持っているかということが、設計科学論の最も注目し、目標にする科学的方法なのである。

以上の課題を展開するために、プログラム概念と設計概念は、要素と関係の概念とそれら全体的な構成(運動をもつ構造・システム、または時間性をもつ構造・システム)といえるのである。

そのことが、プログラム科学論に付随して必然的に展開される設計科学の概念として述べられているのである。



3、設計科学的表現作業について提案

我々は、こうした大学研究室から飛び出そうとする新しい実践的な学問論を吉田民人の設計科学の提案の彼方に感じるのである。

人間社会科学における自己組織性の設計学とは、多様な時代文化の現実に対応する政策学(総合政策学)を意味する。その政策学では、社会は自らの政策を自己組織しながら進化変動していることが理解されている。つまり、人間社会は自らの政策プログラムを自己組織できる系であると理解されている。

人工物として世界を理解することで、物象化した世界の疎外形態を科学的に乗り越えることを提案しているのである。それは改良と呼ばれる作業である。その作業には、化け物のように巨大化し、自然のように立ちふさがる現代社会の巨大な人工物、科学技術によって生産された世界から人間を取り戻す勇気と可能性を示唆することになる。

つまり、人間社会文化現象の中では、人間こそが、すべてのそのプログラムの変更の主権者であり、その変革の実践者であることを理解する理論的機会を与えるのである。

言換えると、プログラム科学論と設計科学は生活主体(生活者や生産者と呼ばれる政策当事者)のための科学理論であり科学哲学なのである。


そのため、以下の課題が吉田民人の提案したプログラム科学論の検証作業として展開されるだろう。それらの提案は設計科学論の前哨段階の理論となる。

生活行為プログラム構造の理解
1、非反省的自我経験の反省的形態作業
2、内的世界の外化過程としての表現化

認知解釈プログラム構造の理解
1、直感的了解事項の検証としての論理的表現、統計的表現

指示プログラム構造の理解
1、理論の実証作業としての具体的生活世界での設計作業への参画
2、その検証を公開する批判精神(社会文化生活運動過程での検証作業)



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2010年3月25日木曜日

自己組織性の設計科学概念

三石博行

設計科学の概念の理解に関して


1、吉田理論の流れの中から、生活社会行動学、情報科学から設計科学への理論的展開の流れの中で理解する。つまり、行為、資源、情報、プログラムの概念形成を通じて、設計概念が確立した。

2、吉田理論の流れから考えれば、設計科学とは「自己組織系の設計科学」と言い換えることができる。

3、汎情報概念に確立によって「情報科学」を生物学のシグナル情報概念から人間社会学のシンボル情報概念へ拡張し、発生、進化論的情報概念を基にしてその実態概念であるパターンの基体概念としての「存在論」を展開、つまり、それが進化論的存在概念として展開発展した。

4、存在論を裏付ける概念がプログラムである。そのプログラム集合によって実体化したものが「設計」概念である。つまり、設計も進化することになり、設計も自己組織性の運動体の中にある。

5、吉田科学哲学、プログラム科学論の背景には、行動学、情報科学、設計科学への吉田民人先生の人間社会学基礎論の長年の研究がある。

プログラム科学論 Programeology(英語)
設計科学 désigniologie(フランス語)


HP「地域イノベーション」への記載文書
http://regional-innovation.cocolog-nifty.com/region/2005/12/post_470f.html

日常性の点検としてのブログ活動-

三石博行

日常生活の点検活動としての意味

書かざるを得ないがために書く(日記の原点)

私は12歳の時から日記を書き始めた。高校時代や大学時代は日記を書くことが日常生活の大切な一部となっており、日記にタイトルを付けていた。「日常性から思想性」へというのがそのころ日記に付けていたタイトルだった。

生活行為がすべての思想的根拠をものがたるものであり、生活行為を通じて思想的点検や確認が可能になるというのが、その時代の哲学や思想に対する視点であった。生活行為を通じて自らの思想を検証する作業として日記があった。

しかし、その時代の日記はつねに同じ問題をめぐり同じこと(同じ文章)を繰り返し書き続けていた。言い換えると、その時代は、自分を書かなければ生きていけなかった。書くために書いていた。

書くことで自己の生を見出し、その意味付けを自らに要求していた。ただ書かなければならないから書いていた。

思索のために、論理を纏めるために書くよりも、書くことでどうしようもない自分を吐き出し、書かなければ身がもたないから書いていた。苦しむこころを癒すために書いていた。

明日を生きるために、今を苦しむ心にその激しい行き場のないはけ口を、書くという行為に見つけ出し、ただ我武者羅(がむしゃら)に、気持ちを筆に握り締め、文字として吐き出していたのだった。

だから、そこには自分の為に書く、書かざるを得ない自分のために書くという行為以外に、書くことの意味は存在していなかった。


日常的に発生し続ける課題分析のために書く(自己の思想性の点検作業の入り口)

少年時代からの夢であった理論化学の研究をあきらめた私は、20代の後半を勤労者の職場環境の安全衛生問題や公害問題等の社会運動に費やした。

その時代、労働災害職業病を企業や行政に認めさせるために、労働安全や職場改善に関する専門的な知識を活かして、活動していた。職場調査や労働省やその下部組織の労働基準監督署への労災職業病認定のための工学・医学的意見書を専門家と一緒に書いていた。そして、労働基準法、労働衛生法に即した救済措置の法律的根拠を法律家と一緒に書いていた。

当然、社会活動という仕事を成し遂げるために、日記は書かれていくことになる。仕事としての社会運動を思想的に点検する道具として日記は活用されていた。自分の内面を分析する作業ではなく、社会情勢と自分の社会活動との関係やあり方の分析に多くの書く時間が必要とされていた。

そして次第に、20代のように自分の内面を赤裸々に記述する作業から生み出される文字から、社会情勢分析や運動論のような自分の内面の課題とは関係しない文字に日記は埋め尽くされた。「日常性から思想性へ」というタイトルも日記から消えた。

その結末は傲慢で思い込みの激しい生活行為を自己点検できない状態、それを正当化する自分の姿であった。そして共に社会改革を誓い、すべての生活を掛けて社会活動を共にしてきた仲間からの不信、彼らの気持ちを理解できない傲慢な自分と破壊的行為であった。

多くの友を失い傷つけたことが私の社会正義のための運動の結末であった。その基本的原因は、生活活動を日々内面性に向け、自己化し、内省する力を失った私の生き方から生じる生活行為にあった。社会正義のために、労災職業病に苦しむ勤労者を救済するために、貧困を生み出す社会を改革するために、私は何をしても許されるのだと思っていた。

「核戦争(戦争)も結果的に革命のために役立つなら、それは良いことだ」とか「暴力も権力を倒すために必要なのだ」という論理がそのまま登場し、かくてその矛盾(スターリン主義と呼んでいた)を批判したはずの以前の自分が無視され、無し崩しの思想的転向を受入れ、非人道主義、暴力や人権無視を、まことしなやかに受け入れていた。

人々や自分の「痛み」から始まった社会正義への感性はいつのまにか、その痛みを与え、それを正当化する側に立っていた。その矛盾に気付く時、思想的に転向した自分への点検活動を抜きには、今後、生きられない状態になっていた。

20代中期から後期にかけて、生活の全てを賭けて取り組んだ社会運動をやめた。それは当時の私にとって問われた課題を見つめるために残された一つの選択であった。

そして、私は家族を置いてインドへ逃げるようにして旅立った。そこで観たものは貧困が人間にとって最悪の環境であるということだった。その貧困の中で生涯を終える何億の民のために私に何が出来るのか、私の信じていた社会改革の理論で何ができるのかという問いかけであった。その巨大な問題の前に、私はあまりにも無力であった。

私の哲学はそれらの現実から逃げるために選んだ居場所であったのかと問いかけながら、フランスで哲学を始めた。その時、私は30代のはじめであった。

私には、主観的には哲学を研究する意味があった。しかし、それは哲学を研究する理由を自分に言い聞かすことで成立していたその時の自分の姿であったとも言える。固定概念化の意識過程を明らかにすることが私の哲学問題であった。

何故、自分はその前に否定し批判した筈の権力と同質の思想になったのかを理解しなければならなかった。「怪物と戦う者よ、君がその怪物になっていないか注意したまえ」とニーチェは書いている。私はニーチェを読みながら、何一つその意味を理解していなかったのだろうか?

そして、自ら命を断った長瀬君が私に書き送った手紙を何遍となく読み返しながら、「君に答える力を与えてくれ」と思う日々が続いた。そして私の中の怪物(ドグマ)の起源を探す作業が、デカルトの研究を媒介にしながら始まり、フロイトやポスト構造主義にたどり着いた。


思考実験の方法として書く

科学技術文明社会での哲学の意味とは反省的思惟の維持機能であろうと思った。何故なら、西洋哲学の歴史的流れの中で、自然哲学は自然科学に、存在論は存在一般論から意識主体の存在のあり方に限定され、認識論は認識一般論から科学認識の点検へと限定されていた。

哲学の存在意味は、自らの落とし子である近代合理主義や科学啓蒙思想として絶対的に肯定された自然科学や社会科学への点検活動、さらにはそれらの科学技術によって形成された現代社会の社会文化観念形態(イデオロギー)の点検活動に限定されようとしている。

反省学としての哲学の成立の試みはカント以後の西洋哲学の流れのように思える。そのために問われたのが近代合理主義以来成立し君臨してきた主観と客観の二元論的世界観であった。

何故なら、中世世界を支配した物質的存在を語る「質料」に対する情報的存在形態を語る「形相」は、あるがままの一つの世界の姿であって、質料に従属する世界ではなかった。しかし、主観性は客観性と同義語化していく科学的(より真理に近い)見方に対して従属的世界に転落し続けるのである。

その転落を防ぐために、主に新しい人間社会科学の展開とそれを支える哲学、現象学の間主観性や共同主観性の考え方、精神現象学、生の哲学、実存主義、解釈学、構造主義やポスト構造主義が登場してきた。

近代合理主義の形成が果たした大きな役割、問題解決力を持ち、実験的経験則に基づく論理的合理性、つまり未来の現象を予測可能にする力(知識)しか合理的と呼ばれる称号を得られない知の成立条件の厳しさを知的活動に与えたことである。

「経験から知識へ」や「実験から理論へ」という経験論的な考え方は近代合理主義精神の形成の基本である。そして、現実から理論への経験主義思想の延長線に、ここで述べられる「日常性から思想性へ」というキャッチフレーズが登場したに過ぎない。このまったく目新しくもない考え方は、科学技術を駆使しながら社会発展を形成してきた現代人であれば誰でも理解できる目標である。

日常生活で経験したことで何が最も大切な記述事項となるだろうかと考えたとき、予定したこと、企画や計画と実行とのずれ、または予測したことが現実からかけ離れていた事実、失敗経験、反省すべきこと等々が思い浮かぶ。記録する作業は、一種の分析作業である。もしくは、認識と評価作業である。

そのため、問題を抱え、書かなければならない課題を抱え、書きたくて書いている作業である。しかし、その作業にも、技術(知的生産の技術)が必要となる。

また、哲学博士の学位論文に選んだ課題「フロイトのメタ心理学の脱構築と最構築 -システム認識論試論-」を書き進めながら、フロイトの理論の自己組織性のシステム論的解釈展開の論拠となる仮説を検証するために、思考実験を行った。フランス語で書く前に、日本語で何遍となく思考実験を行い、その矛盾点を発見する作業を続けた。

学位論文を終えるまで、1000字詰めのB4形式のノート、数百ページに書かれた思考実験によって、論理的矛盾点を点検する作業を行った。


記述行為を通じての問題分析過程

1、クロッキー

経験した世界を語ることが出来るなら、その経験はすでに身体的な直感から切り離され、外化され非反省的に生きている生身の自我と対自する他者化された(社会化された)経験、つまり共同主観化された経験になっているだろう。

経験されている世界は、殆ど対自化することが出来ないほど自我の根底(無意識的存在形態)に留まっている。
その無意識的存在形態、自我の根底に沈積している非反省的経験、日常性を形作る無反省な行為主体の姿を言語化するためには、その非自覚的行為を意識的行為へと変換しなければならない。
それが当たり前の事実に対してある日襲われる「ショック」の経験である。その「ショック」とは、その経験が、今までの自我を危機に導くものであるに違いない。

言い換えると、自己に日常的に経験され続けている世界を自己として感じる限り、その経験された世界と自己意識を分離することは困難である。その分離をもたらすものが疎外である。
それは自己対するもの「対自化」された世界である。対自化された世界とは、非反省的自己意識としての世界でなく、自己意識の中で登場する他者である。
つまり、疎外やショックとして登場した他者に関する意識である。

人が日常性を「書かざるを得ない対象」と考えるのは、無意識的な経験世界からはみ出る疎外された世界として日常性が存在しているからである。

日常性から思想性へということは、その日常性の中に渦巻く疎外形態を何とか解決しなければ生きていけない思いを前提にして語られていることばである。

疎外形態をもって現れた日常性に対する意識は、感性という非反省的世界存在が反省的世界存在に変遷する過程の精神活動を経ながら、経験した生活や社会としての自己意識へと変化する。
感じること、その感じている世界がことば化すること、ことば化した世界を再度受け止めなおすこと、非反省的経験活動(生命活動)はこのようにして対自化され、意識的経験活動へと変化するのである。

感性的にうごめく世界をことばにするとき、その輪郭を描く作業が必要となる。文章化以前のことばを、表象形態化以前の形を求めて、描く作業が「クロッキー」である。

その意味で、日常性から思想性への作業の第一段階にクロッキーは必要となる。クロッキーノートを持ち、自由に思い描く言葉を形に描く作業が「知的生産の活動」の技術として必要となる。



2、スッケッチ

直感的に吐き出したことばや形によって、不安定な自我は少しだけ安定化する。クロッキーに描いた自己の姿とは「気持ち的に納得している自分の姿」に過ぎない。

つまり、思っていること感じていることを表現したと思っている状態がクロッキーとして描かれた世界であり自己である。

文法的構成を持たない表現や全体的な形象を前提にして成立していないイメージ(心象)について理解しておかなければならない。

文法的構成を持たない表現は論理的構造を持たない表現であり、また同様に全体的な形象の部分として成立していない形は、構造的関係を持たない要素表現であると言ってもいいのである。

その意味で、クロッキーの後に一瞬生まれる「解った」「書けた」と思う気持ちは、疎外感から抜け出た安堵感に過ぎない。試しに、クロッキーしたものをスッケッチするとその現実が、何も分かっていない自分の現実が理解できるのである。

スケッチとは直感的に了解した世界を(非反省的経験を)前反省的経験に移行し、さらに反省的経験に導く作業である。

文章化とは文法に即して言語化することであり、それ自体、非反省的意識が社会的規則性(文法)を通じて、社会化する過程を意味している。
その過程を「内的世界の外化」と呼んでいる。非反省的に存在している無意識の体験された世界、自己と他者(対象世界)の区分が生まれる前の外的世界の内化された世界は、再び、それを外化することで、その世界(経験)が対自化され、意識化されるのだろう。
その過程には、ことばや文字が必要なのである。何故なら、それらは自我を作った社会的規則であり社会的形態であるからだ。

クロッキーからスケッチを通じて、ようやく、経験が生まれる。ようやく、他者化された自己意識(対象化された自己存在への理解)が生じる。そして、その経験も同時に対象化され、社会化されるのである。

経験とは社会化された体験であり、言語化された行動であり、共同化された行為である。そのためには、表現、つまり文法的に整理された言語化の過程(スッケッチ)が必要である。

スケッチすることで、経験された事象を整理し問題点や課題を理解することが出来る。つまり、スッケッチは日常生活を描く(スッケッチ)する作業である。その作業の中で、問題点や課題が浮び上がるのである。


3、思考実験

問題を抽出する作業としてのスッケッチから、問題を構成する要素を分析する作業が求められる。その時、クロッキーからスケッチの作業過程だけでは、問題分析は出来ない。問題分析作業では、スッケッチで明らかになった問題点、整理された課題を分析し、その課題や問題を引き起こす要素を取り出さなければならない。

言い換えると、問題分析作業では、スッケッチ過程で生じてきた色々な疑惑(仮説)を一つ一つ拾い出し、それらを外化(文章化)しなければならない。この仮説を設定する作業がスケッチから思考実験への最初の課題となる。

問題の原因、その理由について述べる。その仮定された要素が本当に問題を生み出しているであるかどうかを検証する作業が必要となる。この作業を「思考実験」と呼んでいる。

つまり、問題の原因であると仮定された要素から問題として観測された現象が再現するのかを思考実験するのである。仮定した条件や要素から思考過程(文書化によって)結果を導く作業が思考実験となる。つまり、この思考実験を経ない限り、理論構築作業は不可能である。

統計学は数学的言語における思考実験であるといえる。人間社会学は伝統的に言語活動によって、直感や生活経験と呼ばれる質的経験値の実証や検証を文章化という「思考実験」で行ってきたのである。

それに対して、経済学や経営学では量的データ(数字化された言語)があるために、この思考実験は、さらに厳密に方法論化された。それが統計学である。その背景は事象が生じる確率という数学的現象を前提にして、その統計学的思考実験の論理性が成立、確立しているのである。



4、自分のために表現する実験的表現

クロッキー、スケッチや思考実験の記録は様式の違いあるものの、記述する作業である。記述する作業は思惟を展開する作業にとっては必要である。必要と言うより記述を通じて思惟活動が成立していると言った方がよい。記述は口頭表現に比べると、表現したい気持ちが先行するのを論理的表現の足枷(あしかせ)を着けることで表現活動から主観的な感情的要素に制御を加える。

記述することで、先に述べた経験の文章化(文法に即して言語化する作業)をさらに論理的文章化へと導くことが可能となる。

しかし、記述する作業は多様な形態(表現形態)がある。例えば、研究成果をアブストラクト、報告書、論文等にまとめる。研究者であればだれでも行う記述行為である。
しかし、厳密な表現方法である文献資料、統計分析や論理的展開表現を要請される科学論文以外にも、内省過程を記述するエッセイや評論等もあるし、散文、詩や小説という表現もある。

どの様な形態であれ表現することは、思惟する人々にとって大切な行為である。

また、表現することは対象への表現行為である。例えば、一人で書く日記にしろ、ブログで書く公開日記にしろ、また友人への手紙にしろ、必ず誰かに(自分も誰かの一人である)表現したいと思って生まれた行為であるのだ。

私はこのブログ「生活運動から思想運動へ」を書くのは、気の向くままに、思いつきの考えをまとめ、それを誰でも見られる、つまり不特定多数の傍観者の前で発表しているのである。見られる可能性のある場で、見られることを期待しないで自分の考えを述べているのである。

このブログへの評価、例えば、私の文章が難かしとか、考えが甘いとか、間違っているというような私の文章への評価をまったく気にしないで、思うままに書いてきたのが、このブログである。その意味で、つまりは自分のために書いた文章であると言える。

クロッキー、スケッチ、思考実験の後に、実験的表現作業を必要としている。その実験を積み重ねるとき、できればこの実験を横で見ていて、いろいろと言ってくれる人がいたらいい。しかし、ほとんどの人は自分のことで忙しいので、自分のために書いているものまで見てくれることを頼むことはできないだろうと思う。

そうした期待をもって、誰が見ているか分からないネット上で、不特定多数の人々に文章を公開する。そのブログ文書は、公開された途端に、それは他の人々の世界に一人歩きする。そのことを前提にして書く。それがブログを書く行為なのである。

この作業は、書くことが楽しみであり、書く行為自体が目的化される。こうした楽しみをひとつぐらい持つことで、生活は少し豊かになるかもしれない。



社会的行為としての表現

社会的に必要とされている課題に対する行為を労働(仕事)と呼んでいる。仕事は自分の主観的満足を得るためでなく、社会(具体的には家族や他人)が必要としている行為を請負うことである。その意味で、書く行為は自分のために書くことから、社会的に必要とされている形式や表現で書くということになる。

仕事で書く報告書、教材で配布する資料、学会の論文誌に記載する論文、大衆雑誌に記載する記事、新聞記事等々、他人に読ませるために、仕事として書く文章がある。これらの文章はそれぞれの社会集団の必要に応じて、そのスタイルや様式が決定されている。そのため、文章はその様式を無視することはできない。

現代社会、情報化社会や科学技術社会では、あらゆる仕事にそれなりの仕事としての記述表現様式が存在している。つまり、それらの社会的要請に即した文章(仕事としての記述表現)を身につけることで社会人として資格を得るのである。



ブログを書くという行為

ブログに書いた文章は、学会や紀要等の研究雑誌に記載した論文ではない。それでも、私のブログ文章が論文的になるのは、私の文書の書き方の癖であり、この癖はあまりブログの書き方では評価できない。
ブログの書き方、文体を工夫しなければならない。それが今の問題である。

一般にブログの文章は、思ったことをそのまま書くために、極めて主観的で、言われていることの検証もなく、また書き方も厳密な論証を欠く場合が多い。それでも書くのは、心象をスッケッチし、また論理が成立するか思考実験を行うためである。

また、自分だけで書く日記と違い、ブログは書いた内容が不特定多数の人々に公開される。その文章が誰に読まれているか、また読まれないか、書いた私は知らない。そのことを気にもしない。ただ、読まれることを前提にしながら書いている。

うるさい反論や批判に答える時間はないが、反論や批判を含めて不特定多数の人々からの反応があることを期待していることは確かである。しかし、それだからと言って、人々に解ってもらえるように、書く気はないようだ。

思うまま、難しいと言われながらも、その文体を変える努力を中心に据えていない。書くこと、書く行為が重視される。それは、日記と同じように自分のためである。書きたくて書き、こころの安定を求めて書く、書くことを楽しんで書く、書くために書く、つまり、自分のために書いている。それがブログである。

その意味でブログは中途半端な他者へのメッセージという社会的行為である。

しかし、この公開思考実験を通じて、社会的行為(論文や著作活動)に繋げたいのである。


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2010年3月24日水曜日

自己組織性の設計科学とは

三石博行

綿引研究室の吉田ゼミナールでの議論

1、自己組織性の設計科学という概念について

いれまで技術論と呼ばれた概念は、一般に自然科学的側面でしか定義されてこなかった。
そこでこの技術概念をプログラム科学論の立場で考え直してみる。

人工物プログラム論からみた技術概念は3つに分類される。
a,応用法則科学としての技術論とは工学系技術学
b,応用シグナル系プログラム科学としての技術論は農学、医学系の技術学
c,応用シンボル系プログラム科学としての技術論は法学、政治学、経済経営学の技術学

つまり、それらの三つのうちaを代表するのが工業である。そしてbを代表するのが農業や医療となる。勿論、aとbの融合系が薬品工業となる。cを代表するものとして福祉、政治、経済、家族、文化等々の政策がある。それらのすべてが技術である。つまり、応用科学的な技術と応用人間社会学的な政策は共にプログラム科学論的な技術論として共通している。

問題はそれらの技術が融合的で総合的な形態を持っている。これが科学技術文明社会での技術の社会的姿であることを理解しなければならない。


プログラム科学論的な技術論とは、その技術性の科学理論的背景とそれらの融合状態を理解するための知識である。問題は、現実の社会現象としての技術が上記したa,b,cの三つの科学理論上の形態を全て持つ融合型技術であることであり、それらの理解、つまり、科学技術と政治社会経済政策の不可分の形態の理解とそれらの分析を進めるために、吉田民人流に呼べば「プログラム科学論」が必要となる。

そして科学技術不可分の形態である政治社会経済政策を提案するために「設計科学」の概念が必要とされるのである。

しかし現実の政策論は個別社会の特殊性を前提にし、それが設計概念の初期条件を決定している。そのことは政策を企画する場合に、教科書的な一般論からはじめることはない。その政策(技術)の経験的方法には、それなりの根拠がある。その経験的合理性の根拠を説明するのが設計科学の理論である。

地域社会の現実や歴史的背景をもった個別形態(初期条件)を前提にして展開される地域政策学と、それらの地域社会の個別的形態の体系的理解を進めるあめに、プログラム科学論の示す進化論的存在形態の理論が必要となる。一般に社会学ではこれらを経済制度や生産様式による社会制度の歴史的形態と呼んできたが、プログラム科学論では、それを進化論的存在形態と呼ぶことになる。

多様な社会経済的形態の統一的な理解の背景に、設計科学論がプログラム科学論が援用されることになる。
そして、その多様性を生み出す生きたプログラムのあり方を「自己組織性」と呼び、それによって出来上がっている現実の社会経済の動態的なあり方を表現するために「自己組織性の設計科学」という概念が用いられることになる。

地域社会の現実を前提にして研究される政策学は「自己組織性の設計科学論」によって、理論経済学や理論社会学の正統派社会経済学の威圧から、現実の社会問題解決型学問としての科学的存在理由を述べることが出来る。

技術が科学の下に置かれた古い時代と同じように、問題解決型地域社会政策論が理論社会科学の従属学として理解されるのは、そこに古い技術論の理解があるからである。プログラム科学論的、設計科学論的な理解を前提にすることによって、技術や政策は、科学を展開発展した実験として、設計科学の中心的方法と位置づけあれるのである。

今、我々は、問題解決のための科学、つまり技術と科学の融合、自由領域総合科学技術的展開をしなければならない。それらの総合的知識の提案によって、問題解決力を強化する技術と政策を展開しなければならない。
それが設計科学のあり方である。

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吉田民人先生のプログラム科学論「自己組織性の設計科学」に出会って

吉田民人先生を語る会に投稿した文書に誤字がありました。

ブログで再度、修正文章を載せます。


先生のプログラム科学論「自己組織性の設計科学」に出会って


三石博行 (千里金蘭大学 共通教育機構 教授 ストラスブール大学哲学博士)

1995年の阪神淡路大震災での震災時の生活情報について調査、生活情報の構造分析を行っていた私は吉田先生の「生活空間の構造-機能分析」に出会った。

吉田先生と同様、パーソンズの行為論に批判的であった私は、先生の生活空間の行動学的理論を援用しながら、快感原則に即した行為を三次生活行為の一つに含め、そのパターンを三次生活情報と定義し、生活情報論を展開した。

その後、2000年の社会・経済システム論学会の『システム論を問う』シンポジュームで先生と共に基調報告を行う機会があり、先生のプログラム科学論や設計科学の概念に出会った。

私は生活情報論から生活資源論への展開を行う時、フロイトの「欲慟」の概念に影響されていので、内的生活様式(例えば生活技法等)と内的生活素材(例えば被服文化的身体等)も生活資源の要素として位置付けていた。その基本形態を吉田先生の「プログラム」概念に求めることで「生活資源論」は「自己組織性の設計科学」であると考えていた。

先生に一方的に連絡を取り、東京まで押し駆けて、問題提起をし、先生の無償の講義を一日中、数時間も録音しながら何回か聴いた。

その度ごとに渡された難解な論文を読み、それらが新たな科学哲学の提起だと知るや、当時、先生が高等研や関西大学へ研究会や講義に来られていたので、私の自宅で一日中講義を何回もして頂き、私は吉田先生から新たな存在論(進化論的)、行動科学から情報科学、設計科学への吉田理論の科学哲学的意味、21世紀の科学技術文明社会の中での人文社会科学の役割(方法論としての自由領域科学と問題解決学、科学論としての設計科学概念とプログラム科学論)を学んだ。

そして今、先生の論文をEddy VAN DROM氏と共にフランス語や英語に翻訳する作業をしている。フランス語に訳すために先生の理論を理解しなければならない。先生が私に一つの概念を何遍も例を取りながら解釈説明していたしょうに、今、私もその作業に挑戦している。


参考 三石博行ホームページに「吉田民人論文リスト」のページを作ってあります。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf


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プログラム科学論・自己組織性の設計科学に関する文書はブログ文書集を見てください。

ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」目次と文書リンク
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html


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吉田民人先生を語る会に参加して

三石博行


3月22日、東京の学士会館で「吉田民人先生を語る会」が開催された。多くの方々が、吉田先生を尊敬し愛し、また先生から大きな影響を受けていたのだと感じた。


1、研究者吉田民人が問いかけていたもの

参加された人々からの話から、吉田民人先生が研究者と接せられ時の姿が理解できた。

先生は、研究課題を持った人が誰であれ、どのような経歴であれ、それらの人の取り上げている課題、理論、論理的展開、実証的作業過程、検証過程を問題にされ、評価されていた。先生に投げかけた問いに対して、つねに、熱意をもって答えられていた。

私の場合も、先生の個人講義の中で、多くの質問をした。

例えば
1、プログラムの概念とは何か
2、存在論の歴史的な展開の中で「進化論的存在論」をどのように位置付けるのか
3、法則概念と秩序概念の用語上の説明
4、理論人間社会科学や科学哲学が、具体的な科学技術理論の援用し理論展開する場合に生じる人間社会科学や科学哲学側の援用する理論に対する援用上の権利問題
5、情報概念と資源概念
等々、多くの質問を投げかけた。その度毎に、先生は何時間もその説明をして下さった。

現代の免疫遺伝学の先端の理論を持ち出して、先生が援用し「シグナルプログラム概念」を構築した時代の分子生物学や遺伝子学の理論との比較をしながら、過去の援用が十分であったと言えるかという問題に対しては、先生は非常に真剣だった。
そして、その答えは、今の自分でなく、これからの研究者に任すしかないと言われた。

私は、その先生の謙虚な姿に、いつまでの現役の研究者の姿と自分の理論を後世の研究活動の中に委ね、より有効な理論の構築を目指している情熱をみる事が出来た。

先生が問題にされていたことは、先生が提案した理論の所有問題ではなく、その理論の有効性、つまり、問われている現実の社会であり、その問題解決のための理論であった。


2、吉田民人先生は「吉田民人研究」を喜ばれないだろう

「吉田民人先生を語る」の中で吉川弘之先生が、プログラム科学論や設計科学論の目指していたものは「21世紀社会の中での持続可能な科学」のあり方ではないかということを述べられた。

この言葉に私は共感した。何故なら、吉田先生のプログラム科学論は、明らかに21世紀社会の、つまり科学技術(現代の知の形態)が社会イデオロギーの中核となり生活世界を支配する社会の、社会観念形態の中心を担うも時代の、人間社会科学のあり方や哲学のあり方を示しているからである。

プログラム科学論は、21世紀の科学哲学であり、それによって、科学技術文明社会での科学技術と融合して成立する発展する新しい人間社会科学の基礎理論を提案するものである。

科学技術文明社会の中での人間社会科学のあり方は、科学方法論として自由領域科学と問題解決学を、科学方法論とし、自己組織性のプログラム科学論と設計科学を科学思想とする科学技術運動を推進するものでなければならないだろう。

科学技術文明社会での人間的幸福や平和、共存、安全を求めた生活運動を支える学問論としてプログラム科学論と設計科学論が必要となっているのだろう。だから、吉田民人先生の理論、「自己組織性のプログラム科学論と設計科学」は、具体的な生活世界、生産世界、政策課題、改良課題の中で展開し、検証される理論であるように思われる。

吉田民人先生の膨大で難関な論文を読むことは、単にその入り口にすぎない。吉田先生は先生の論文を読んでその解釈と評価をめぐる論文が量産されることを願ってはいないだろう。むしろ、先生が提案した理論の先にあるものを提案する研究を願っているのではなかろうか。

仮に、その研究の展開過程で、吉田理論が批判的に乗り越えられるとしても、むしろそのことを願っておられるのではないだろうか。

私は、先生と共に研究し、そして具体的な生活世界の課題に取り組んでいる多くの直接に指導を受けた研究者(先生からすると同志)を観て、そう感じた。そして、私もその一人でありたいと願った。


「吉田民人先生を語る会」を企画し、組織された吉田民人先生の教え子の方々に感謝。


参考
三石博行ホームページに「吉田民人論文リスト」のページを作ってあります。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf



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自己組織性の設計科学の研究

三石博行


綿引宣道先生が「吉田ゼミナール」を開いています。

私も参加することになりました。テーマは「自己組織性の設計科学としての環境学」です。このテーマを展開するために、設計科学の成立するための学問的条件について書いてみました。


吉田民人先生の提案したプログラム科学論(科学技術文明社会での科学技術哲学)から必然的に導き出された実践的な科学技術の一つが「設計科学」だと思います。しかし、この学問は構想として提案されたもので、完成したものではありません。

A,自己組織性の設計科学の科学的方法論

1、自由領域科学の立場、つまり、問題解決のために理工医農社会経済人間精神分野の規範科学の理論の全てを援用し、またそれらの学問領域に解決の糸口を限定することをやめ、すべてを学際的道具主義(プログラム科学論的理論道具主義、吉田民人流の科学的プラグマチィズム)の立場

2、問題解決型科学の立場、1の科学的方法論を逆に延べたものであるが、あえて、1の自由領域科学の立場に対して別に述べるのは設計科学の成立条件の第一公理として問題解決力を科学理論の存在理由に置くからである。この考えは近代から現代科学の成立思想である「実践的思惟と理性的思惟」の同義性を背景にしていることは言うまでもない。

3、自己組織性の設計科学は、その意味で、あらゆる21世紀社会現場の中から発生展開していくのである。その場(生活の場)のあらゆる課題、それが今まで、理工系、医学系、農学系、社会経済学系、人間学系、精神学系、言語学系、哲学系の中で個別に課題になっていたとしても、それら「問題解決型」の研究とするために、他の分野の科学技術的援用のための学問的コミュニケーションを取ることで発展成立する総合科学技術の研究となる。


B、自己組織性の設計科学の学問成立のための課題21世紀社会の抱える問題をテーマにする。

1、大学教育論の必要性
2、環境学の展開
3、生活学の展開
4、地域社会学の展開
5、イノベーション学の展開
6、農工学の展開7、持続可能な社会経済文化システムのための研究課題

等々限りなく具体的な課題を挙げることが出来ます。

これらの課題を課題別に研究することと、その研究方法をめぐる学問的議論が必要となる。それが「設計科学」論と「プログラム科学論」の今後の姿だと思います。


参考 三石博行ホームページに「吉田民人論文リスト」のページを作ってあります。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_01_03/cYoshida_ronbunlist.pdf




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2010年3月9日火曜日

近代科学史の中の自己組織性の設計科学の位置

三石博行


自己組織性の設計科学論・慾慟の社会構築主義


人間の欲望を極力抑制することに成功していた中世的世界では、個人による多様な自己意識は発達せず、個人はある集団や社会の共同主観性を共有し合い、そのため個人の意識は集団的表象に大きく依存することで成立していた。

そこで、現代社会での自己意識を中世社会のそれに置き換えて、当時の人々の生活行為や生活意識を理解することは難しい。例えば当時の自己意識は必然的に村や部落での生活を営む上で必要とされる意識、生活作法、習慣や生活様式で成立していたと思われる。

近代になって、欲望をばねに社会的活力を生み出す社会になって、多様な生活様式・生産様式(分業)・多様な商品・多様な生活要求が生まれた。それらの多様性が、中世社会から、近代を経て現代社会へと生活様式を変遷させてきた。

その社会経済規則(制度)を資本主義と呼び、その社会経済思想を民主主義と呼んでいる。民主主義を構成する自由と平等の世界観によって、現代社会の生活世界・観念形態は生産し再生産し続けている。

現代の社会科学の調査対象は、これまで社会学が扱っていた個人の社会制度やその社会的役割から、変化していると思われる。

多様な社会集合、同じ生活目標に対して社会には多様な生活行為が存在する。それらの多様な社会的行為の背景は、その社会集団のあり方やそれを構成する人々の集団表象(ある社会集団では同じような社会観、生活感覚、ものの見方が存在している)の形態の違いを意味することになる。

現代社会は、人々は生まれながらにして所属階級(つまり労働者階級と資本家階級)の制約から生涯束縛されていた19世紀型の階級社会から、義務教育と教育の自由によって、教育の機会を均等に得ることが出来ことによって生み出される新しい格差社会を生み出そうとしている。それは、科学技術文明社会による知的生産能力の所有・非所有者の格差社会である。知識(情報とスキル)の所有が社会生産力を生み出し、生産性を高める資源になる社会が、出現している。

それらの社会現象を分析する有効な人間社会科学理論の構築が必要となっている。20世紀になって、社会科学に新しい方法が持ち込まれた。

例えば、その代表的なものに、20世紀社会学の主流である社会の機能構造分析と行動主義が挙げられる。機能主義の基本には有機体としての社会の理解が前提となっている。また、構造主義の基本には文化記号とその関係式によって成立している自我や言語体系と同じ観念形態としての社会構造の理解がある。行為論は個人的行為を社会行動の基本要素とし、それらの集合関係を述べることになる。その基本には個体の生命を維持する生理的行動、衣食住を確保する行為などがある。

近代科学としての社会科学は、その形成期から生物学に影響されてきた。リンネの形態学やダーウインの進化論に影響を受けたスペンサーの社会学、免疫学に影響されたモランなど1970年代のフランス社会学、そして分子遺伝学に影響された1990年代からの吉田民人の提案する人工物システム科学、設計科学や人工物プログラム科学論などがある。

労働時間に代表される社会的物理時間を前提して社会学が展開した古典派経済主義社会学が終わりを告げると、社会的制度や役割の空間分析を展開した機能構造分析が登場した。勿論、時間概念は喪失したままである。それに対して機械的時間から社会要素の記号的時間を導入することで、社会システム論が展開し、またそれに精神言語的時間を持ち込むことでポスト構造主義が登場する。

そして、欲望や生命のシステムを対象とすることで、自己組織性のシステム論が形成される。つまり、吉田民人の自己組織性の情報学の原点は欲望や慾慟を行為の原点とした「生活空間の機能-構造分析」が前提となっている。

この理論的展開の延長上に、吉田民人の「自己組織性の設計科学」がある。それは、慾慟によって運動し機能する社会構築を意味する。そのことを社会構築主義は理解しる必要があるだろう。



参考
三石博行のホームページ 「人間社会科学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html

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人工物プログラム科学論の役割

三石博行


科学性の検証作業としての科学哲学(人工物プログラム科学論)の役割

人間社会科学は科学である以上、それを研究する時代性や文化社会性をもつ研究者の行為(研究と呼ばれる生活行為)によって成立している。換言するば、人間社会科学研究も、時代性に限定された主体と対象、それを構成している様相と実在の時代的社会的文化的要素に関する調査研究である。

すなわち、生活者である人間の行為から時代性社会的文化性を分離することが出来ない以上、知的生産行為を担う人間社会科学行為も、同じように時代性や文化性に規定されていることになる。しかし、人間社会科学の研究者にとって、自己の社会的文化的、そして時代的な精神構造の分析が研究課題ではない限り、研究主体のその制約条件を理解することは難しいことである。

人間社会科学、知的生産活動を日々行う人々、それらの研究とよばれる生活活動の中で、その研究対象である人間社会や文化の中に含まれている研究者の世界観、または研究者が観察している世界の認識評価のあり方が、その観察している世界を構成している要素、時代精神に依拠することを、その生活活動としての研究の中で、対自化することができるだろうか。それは、鏡のない空間で、自分の顔が見えますかと質問していることと同じように、無理な認識を要求していることに似ている。

そもそも、科学行為・知的生産行為の最中に、その生産主体の精神構造を分析するように要求しているのである。一般に精神分析家は、患者のために精神分析しているので、精神分析をしている自分の精神分析までは気は回らないだろう。

人間社会科学の時代性や文化性を理解認識するために「人間社会科学に関する科学認識論や科学哲学」がある。その学問は科学哲学と呼び、その学問は人間社会科学の科学性に関する哲学的研究の方法論によって成立する。今日、それらの学問分野を人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論と呼んでいる。

そのため、人間社会科学はそれらの時代性や文化社会性を、人間社会科学哲学(基礎論)や人工物プログラム科学論の研究に委ねる。時代性や文化社会性に束縛された研究者がその束縛条件を前提にして成立している人間社会科学の理論研究の自己限界性を了解する上で、それらの研究者は、その人間社会科学の科学性点検作業の必要性を認めるのである。

例えば、ある時代の歴史的事件を研究する歴史学では、過去の文献や資料収集とそれに基づいた分析が行われる。科学である以上、事実を裏付ける物的証拠を根拠にしなければ歴史分析も解釈作業も不可能である。厳密な科学として歴史学はこれまで築かれてきた。

しかし、歴史研究を行っている時代からそれよりも過去を了解する研究者の、その時代性(精神)を、その歴史研究の最中に対自化することは困難である。彼が文献や考古学的研究から調査した過去の世界が「客観的」であると主観的に了解するのは当然であるが、しかし、その了解を彼の(研究者の)時代性や社会文化性に相対化することは、彼の研究途上作業である歴史学の課題ではない。

それらの課題は、つまり歴史学に対する科学哲学の役割であるといえる。しかし、歴史学研究が歴史学に関する科学哲学を必要としているのだろうかという課題がある。例えば歴史学が用いる歴史解釈、歴史学方法論、歴史的遺跡や文献調査の方法、それらの解釈の仕方等々を批判的に検討する課題は、歴史学から要求されているだろうかということである。もし、そのような要求がなければ、哲学が勝手に、科学に対して、科学哲学の必要を説いているだけであると言えよう。

人間社会科学は、人間的行為とその産物によって形成された世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)に関して調査分析研究する学問(これまた知識化という人間的行為とその産物)である。これらの課題は時代とともに変化してきた。今、人間社会科学が対象とする世界は「科学技術文明社会」である。これまでの人間社会科学の対象であった世界(社会文化構造や機能、制度や役割、文字や言語、価値や美意識等々)が科学技術文明社会という様相の中で、今までと異なる。

例えば、現在の社会が、今までと異なる社会機能によって運営展開されている。例えば、技術革新、知的労働、研究開発商品、研究研究者集団、科学ジャーナリズム、高等教育の大衆化等々。それらの新しい社会文化的現象に対して、社会学は単にこれまでの科学技術社会学を導入することで、この新しい社会文化を認識評価し、その社会が必要としている問題に答えを出すことができるだろうか。これまでの社会学で培われた理論、社会行為、制度や役割に関する蓄積は、科学技術社会学にどのように継承されるのだろうか。

こうした疑問に答えるには、一つ一つの社会学分野をそれぞれの具体的研究活動の最中で見つめることでなく、問われる社会的文化的課題から、俯瞰的に見つめる視点が必要となる。それを、吉田民人は人工物プログラム科学論と呼んでいた。人間社会科学の科学哲学の必要性は、科学技術文明社会での伝統的、つまりこれまでの人間社会科学の有効性が問題になっていることが前提となる。

参考
三石博行のホームページ 「人間社会科学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html


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人間社会科学の目的(時代性、文化性社会性)

三石博行


時代的文化社会的な問題解決学としての人間社会科学の存在理由


人間社会科学は、生活者とその環境を構成する形相(情報性、例えば言語、価値、表象などの様式要素)と質料(実在性、身体とその生産物の素材的要素)に関する認識と理解を得るための知的生産活動であり、その目的は、それらの生活者とその環境をより改善し改革し、生活者と呼ばれる人間の個体保存(自我安定)と種族保存(社会的安定)を得るためのものである。

人間社会科学は、対象の認識、つまり人間社会のあり方(機能性や構造性)の認識、と同時にその評価、言換えると生活主体との関係を課題にしている。そして、その認識や評価は生活環境の改善のために活用されることを目的としている。
すなわち、人間社会の認識と評価から推定される生活世界の改善のための実践的な行動指針となるのである。

人間社会科学の合理性はその実現可能な知の力によって了解されるという意味で人間社会科学も明らかに近代科学の伝統を受け継いでいるのである。すなわち、近代科学精神の上に立つ人間社会科学は実践的な「問題解決学」の思想を持っている。

解決しなければならない社会的文化的問題に対して実践的な解決能力、知的生産性を持つことによって人間社会科学の理論の検証は可能になっている。

もし、人間社会科学研究が、時代的社会的要求と呼ばれる時代性や社会性文化性に対して感受性を失うなら、それらの研究は、同時にその科学性、つまり知的生産能力の評価機能から離脱することになるだろう。

しかし、同時に政治、経済、社会文化政策と呼ばれる生活環境に直接影響する行為に直結するそれらの関与は、無条件の問題解決学の成立を許すわけには行かないことに気付く。

人間社会科学が調査分析する対象は何か、その了解の方法はどのようにして選択されたのか、その選択の基準は何か、そしてその方法論によって何が解釈可能なのか、その可能性の中で何を重視したのか、等々、人間社会科学の行為を一つひとつ点検すれば、人間社会科学を探求する(学習する)人々の生活基盤と生活課題が前提になっていることに気付く。それらの人々の知的生産力の土台や背景は、それらの人々の生活世界の現実にある。

換言すると、客観的科学としての人間社会科学は存在しない。歴史や文化的環境に規定された社会的行為としての人間社会科学は予め仮定した問題解決方向に対するある志向性をもった組み立て(企画)を持ち込む思惟であることも理解しなければならない。

問題解決学の成立する条件、つまりその解決への志向性、時代性や社会文化性に規定され、また解決の方向性を持つ生活主体がその解決学探求者であることを前提として成立する科学として人間社会科学を了解しておかなければならない。
その了解とは、人間社会科学が、それを研究する生活者の生活思想によって形成される学問であることの理解である。問題解決学とは、そこに生きる人々のための生活改善にほかならない。その志向性が、科学性として登場することになる。

生活改善のための問題解決学としての人間社会科学の知的生産能力は、それを支える、そしてそれに依拠した人々、階層、集団のために用意された技術、政策、時代思想、実践的方法、合理性として、彼らの期待する新たな時代的社会的地平に向かって進むための武器なのである。

その武器は、決して客観的に成立している問題解決方法ではない。また、その解決による評価も、全ての人々にとって平等に成立するものでもない。
極論すれば、知的生産行為を担う階層、集団の利益、その時代性、文化性社会性を前提にして人間社会科学は成立している。それらの集団、階層の時代性や社会文化性を代表し、擁護し、それらの人々のための問題解決策として、知的生産技術として、その知的体系は機能することになる。



参考
三石博行のホームページ 「ブログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html

「人間社会学」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02.html



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生活世界の設計科学の成立条件

三石博行


生活世界の姿 生活主体と生活環境の相補依存性


自己(生活主体)とその環境(生活対象)は相互相補的、相互束縛的な関係にある。自己は生活環境を具体的に構成する生活対象によって造られ、生活対象は生活主体によって造られる。生活主体と生活環境の機能や構造を生活世界と言う。生活者の社会生活的役割(内的要素)や制度(外的要素)や生活意識(内的要素)や生活行為(外的要素)等々、生活主体と生活対象は不可分の関係にある。

例えば、社会(生活)的役割は、社会(生活)制度によって生活者に要求、期待された社会的観念であり生活者個人の生活意識である。しかし、生活者個人でなくある生活者の集団的行為の繰り返し、つまりある生活行為の社会化によって、社会(生活)制度は確立する。

その社会生活制度の成立によって、生活者の生活役割意識が生活者を規定し、その個人の生活環境と生活意識を形成する。生活役割に関する意識を根拠とする生活行為によって、社会制度は運営され維持される。

生活世界が成立しているのは、生活意識によって生み出される生活行為とその生産物(生活環境、生活対象)とそれによって形成される生活意識(役割やモラル等)の、限りない生活主体と生活対象の相互循環型の再生産、構築と脱構築、維持と改良の運動によるものである。


人工物化の過程、社会化、労働と生産過程

また、社会(生活)的生産行為によって生み出される生産物は、すでに、その目的を生産物の物質的形態の中に取り込んでいる。採石の例に取ってみよう。石は、特定の目的で採掘され活用されている。活用目的によって石の種類や採石の仕方は変わる。例えば、鉄道線路や舗装道路のバラスは、岩石の種類もバラスの大きさも異なるのである。

採掘時に、石はすでにその利用目的(役割を与えられ)で採掘加工される。バラスの役割(利用目的)によって採掘の方法や技術’生産過程の決まりやシステム)が異なる。同じ、「バラス」と呼ばれる人工物(生産物)も、その利用目的によって、バラスの大きさ、硬さが異なるのである。

つまり、その自然の石は、採掘という生産行為を通じて、バラスという人間生活や生産活動など社会的機能を担う人工物になる。

勿論、抽象名詞と呼ばれる素材的背景を持たない情報世界がある。しかし、例えば「論理」と呼ばれる抽象名詞ですら「数式」「論理式」「論理的記述」と少なくとも文字や数字、つまりは紙やデスクトップの電子素材を通じて物理的に現れる素材的世界(実在)を背景にしなければ、表現不可能である。

また、「愛」も恋人や家族というある個人の具体的な行為やその結果生じる生活世界の具体的事象を背景にしているのである。神への愛と呼ばれる最も抽象的な世界があるとしても、それは生きている個人の生命や生活との関係で語られるだろう。

その意味で、我々の観ている世界、関わり生活している世界は、その世界の名称性(名目性)とその世界の実在性(物質性)を前提にしているといえる。


生活世界のプログラム構造

生活主体と生活環境によって構成された世界を生活世界と言う。その世界は、生活主体の意識と生活環境の表象など生活情報と生活主体や環境の物質的、生物的、社会文化的、精神的様式や素材によって構成されている生活資源からなる。生活情報とは生活資源のパターン、つまり形相(情報)を意味する。

また、生活資源とは、生活主体や生活環境を構成する要素、それらの要素の関係、その関係の関係等々を総合的に表現したものである。要素の物質・エネルギー的側面を生活素材と考える。また、要素の情報的側面を生活様式と考える。

生活主体の身体や精神も生活世界を構成する要素である。それを生活世界の内的要素と考える。生活環境は生活主体を取り巻く要素であるので、それを生活世界の外的要素と呼ぶ。


自己組織性の設計科学としての生活(科)学の成立条件

吉田民人の人工物システム科学やプログラム科学論から、生活世界を構成している機能-構造を生活世界のシステムと呼ぶことが出来る。

また、その生活世界のシステムは、生活主体と生活環境を構成する生活素材と生活様式によって構成されており、それらの構成要素とその関係式を総称して生活世界のプログラムと考える。生活学は生活世界の認識科学として生活システム科学であり、生活世界の改良科学として生活設計科学であると言える。

それらの生活世界(人工物)の認識/設計科学を展開するために、物質的法則、生物学的(シグナル性プログラム秩序)、人間社会科学的(シンボル性プログラム秩序)の三つの拡大ディスプリンからの総合的(俯瞰的)解釈が要求されるのである。

人間社会科学の対象とする世界(人工物に関する様相と実在の世界)は、それらの存在の情報性と物質性、様式と素材、形相と質料が相補的に成立している世界である。その世界解釈の理論として「人工物システム論」「設計科学論」「人工物プログラム科学論」がある。


font size="4" color=#00008b">設計科学としての生活学の課題

人工物プログラム科学論的視点
生活資源論
生活情報論
生活改善の政策科学的視点
生活学教育論
科学技術文明社会の中の生活空間の機能構造分析
生活改良の構造分析



参考
三石博行のホームページ 「プログラム科学論」
hhttp://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html


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2010年3月6日土曜日

春風社

三石博行


研究室に「春風社」の営業担当、大木さんが訪れた。
夕方6時過ぎに研究室の明かりがついていたのが理由らしい。

春風社という出版社は始めて聞いた。
出版物を見ると、売れそうにも無い思想や哲学、学術書が多い。

どんな人物が、売れそうも無い本ばっかしを出版しているのかと興味を持った。

それから1週間も経ったなある日、三浦衛著『出版は風まかせ』春風社 2009年 がO木さんから送ってきた。

この人が、この売れそうに無い本ばっかりを出版している社長らしい。

短くまとまった実に上手な文体。

彼は、本が三度も飯よりも、素敵な女性よりも好きで、好きで、生きてきたのだと、感激。

こんな人間がまだ生きているのだ。

まんざら、日本の出版界も捨てたものでない。

しかし、電子化するこれからの出版界で、この春風社は、春嵐に吹き飛ばされはしないか。

少し、気になるのである。


春風社 サイト http://shumpu.com/

2010年3月2日火曜日

失敗は成功の母(中国の言葉らしい)

三石博行


失敗学の成立条件


人は不完全な存在である。常に過ちを犯すものである。そのことを認めなければ、人が失敗を犯すことを許すことはできない。自分の経験を振り返っても、失敗のなかった毎日もなく、失敗の連続であったとも言える。失敗をすることを認めないということはとうていできない。

では、なぜ人は失敗を責めるのだろうか。つまり、不可避的な人間的行為を責めるのは、その結果によって多くの被害が生じているからだろう。他人に迷惑が掛からない自分だけの失敗であれば、おおらかに失敗したことを笑って済ませられるだろう。しかし、多くの場合、失敗とは少なくとも自分以外の誰かに迷惑を掛ける結果と結びつくのである。

失敗を責める心を持つことで、他者との関係を維持することができる。失敗を責める心の一つを倫理と呼んでいる。その基本は他者に迷惑を掛けないというこころである。しかし、失敗することが避けがたい人間的行為であるなら、倫理とは実現不可能な生き方の目標であるといえるだろう。

換言すれば、この実現不可能な目標を持つことで、人は現実の自分に立ち向かっていくことになる。失敗する人間性と失敗を許さない倫理性の狭間で、その矛盾の中で、つねにその問題を抱えながら、人は現実の自己と理想の自己に鍛えられながら「豊かに生きる」ことができる。それらの葛藤は、「生活の質」を向上するための生活運動として、その倫理観として、点検とよばれる人間的行為として、存在する。

失敗という経験を基にしながら、もっと豊かな生き方を見つけ出すことはできないか。「失敗は成功の母である」(知り合いの中国のお医者さんから聞いたのだが)という命題を成立させるために、「失敗学」という学問がある


失敗はみんなの財産、失敗点検という仕事

失敗を貴重な体験として位置づけ、その経験を個人の能力や技能の点検のみでなく、共に働く仲間と失敗の原因追求を共有しようとする試みである。

失敗学の問いかける思想は、企業利益を先行する現代社会の在り方を点検し、人が社会生産の資源であることを教え、それを実現する方法を教えるだろう。その第一命題が、個人の失敗経験を仲間で共有するという考え方である。

何故なら、自分の「生活の質」の向上(生きがいや生活経済の安定)と他者の生活の質を向上するための仕事(サービスの質)は同次元に存在している。そのことを理解する作業が労働である。労働の質を向上させるために存在しているのが失敗学である。不可避的失敗行為を前提にして、失敗頻度を最小限に食い止める努力は、失敗の反省を個人的行為からより社会化することによって可能になる。

つまり、失敗を労働と同次元に引き上げて、労働という社会的行為の地平で問題化することで、より効果的な解決を見つけ出すことが可能になる。

全ての仕事は、結果的には他人の生活や生命にかかわることになる。その仕事への責任を、個人の問題でなく、共に働き生活する全ての人々と分かち合うことで、失敗の反省が個人的モラル活動から社会生活運動に変化する機会を得るのである。そして、失敗の反省という仕事が成立する。それが失敗学の目指す課題である。


失敗を記録する生活・企業文化

失敗学は現実主義の人間観を前提にして成立している。失敗学は、同時に具体的な技術学である。失敗学が進歩するためには、色々な技術開発が必要となる。

その一つの例として、医療機関で取り組まれている失敗記録「ヒヤリハット」がある。この「ヒヤリハット」に関する理解が、失敗に対する始末書と理解されているなら、まさしく、事業主や経営執行部の失敗である。まず、「ヒヤリハット」を書くにあたって、上司は彼らの部下に対して、その意味を説明しなければならない。上司がその意味を理解していない限り、「ヒヤリハット」は「始末書」となる。

さらに、「ヒヤリハット」を書くために企業は従業員に対して、少なくともその意味を説明するだけでなく、「ヒヤリハット」を企業が悪用しないこと、書いた結果で不利を従業員が受けないことを契約しなければならないだろう。つまり、「ヒヤリハット」を書くことは従業員の信頼の上に成り立つのである。

「ヒヤリハット」は失敗学を現実に適用するための技術の一つである。「ヒヤリハット」には書き方の基準はなく、自分なりの失敗に対する姿勢が問題になるが、それを育てるのは組織である。失敗に対する姿勢を涵養することが企業の課題となり、企業モラルの形成に展開していく。

企業がそのことを事業の一つとして受取り、企業モラルを形成する活動を行うこと、その社風(企業文化)形成に投資することが、結果的に企業利益となることを理解しなければならないだろう。

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労働の質を高めることの意味

三石博行


人を育てられない企業は社会的評価を受けない


仕事は、自分が生き、家族を養うために賃金を得る手段である。と同時に、社会と自分との関係を作り出す手段である。前者は仕事の成立条件である。後者は仕事の達成条件である。

仕事と呼ばれる以上、社会的必要性が前提になって成立している。すべての仕事も社会的需要があって成立している。そうでなければ、作った製品やサービスを売ることはできない。社会的評価はお金で示される。その評価が高い製品とは、よく売れる、高く売れることを意味する。
  
これを市場原理と呼んでいる。仕事は市場原理によって社会的につねに評価され続ける。それが仕事の宿命である。その評価を前提にして、前者の手段(生活の手段)を得ることができる。
                      
社会的需要が少なくともあることが、後者の成立している条件である。それは沢山売れたということよりも、社会で必要とされている質を問題にして成立している。その意味で、仕事を通じて人は社会的存在となることができる。

企業は商品やサービスを社会に提供する事業を行っている。企業の評価はそこで働く人々の仕事の評価の総集合である。社会に評価される仕事をしている企業とは社会的評価を多く集める仕事人を多く抱えている企業であるといえる。

企業内で日常的に行われる一つ一つの作業の質、例えば医療受付業務、看護業務、レントゲン技師の技術、医師のスキル等々、一つの医療機関を例に取っても、それを構成している一人ひとりの仕事の質が、その医療機関の社会的評価となる。命を預ける患者の立場に立ち、精一杯の努力、質の高い医療サービスを日々目指す医療機関に対する評価が、その医療機関を活用する患者数となる。

どのような仕事でも、市場の原理が働き、社会的評価が日々に下されている。

つまり、企業は、職員に対して、社会が自分の仕事を必要とする関係を作り出すことが、自分が生きるため、家族を育てるために賃金を得る手段を成立させる条件であることを教育しなければならないだろう。

働いた結果の社会評価によって自分たちは生きることができるという企業教育が、利己性と利他性との矛盾関係を解消し、人々は労働によって社会化されるという企業の本来のあり方を教えるのである。


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科学技術文明社会での企業の危機管理

三石博行


科学技術文明社会と消費者意識


科学技術社会では「科学の大衆化」や「大学・高等教育の大衆化」が起こる。市民は、極めて高度な科学技術的知識にTVや雑誌、新聞等で日常的に触れる機会に恵まれており、先端科学技術の知識を理解することができる。

そのことによって、企業が開発した先端科学技術の知識も、また先端医療の発展で開発されてきた治療法に関しても、その原理から理解することができる。インターネット上ではそれらの技術に関する解説が数多く紹介されている。

こうした科学技術文明社会では、1960年代水俣で発生した公害病のように「感染するかもしれない奇病」とか「原因不明の祟り」とかいう中世的魔女狩り的な流言は通用しなくなる。公害と呼ばれた環境破壊による健康障害の原因の解明も専門家の公式見解を待つまでもなく、市民の力でその原因を分析調査することができる。そうなれば、チッソ水俣の企業のように、環境と健康破壊の責任を20年近く認めないという行動は不可能になる。

1990年代後半から2000年のはじめに、日本の経営者は三菱自動車、雪印、ミートボール等々、クレーム問題の解決方法を誤り、真摯に問題解決に努力しなかった企業は、社会から葬り去られることになる。この厳しい消費者の対応、消費者をごまかすことの恐ろしさを日本の企業は学んだ。


企業の危機管理としてのクレーム対策

現在の企業の危機管理の中に、クレーム対策が入っていなければ、その企業や経営体は存続条件を満たしていないと言われても仕方がないのである。

クレーム対策が経営にとって重大な経営戦略を意味する時代、それはそのクレームに学ぶという経営学的視点がなければならない。今回のトヨタの対応も、クレームを[アメリカのバッシング」だと言って済まされない状況を知ったと思う。企業内でのクレーム対応の点検やクレーム対策を企業文化とし得ない組織は、存続できない。

クレーム対応の仕方、それは原因を科学技術的な説明で明確に答え、それに対する対応、その解決策も専門的な視点から説明しなければならない。素人に専門的な問題を話して無駄だという企業は、その場で、淘汰されるかもしれない。

なぜ効果があるのか、なぜ価値があるのか、それらの科学的説明がなされなければならない。その情報公開を前提にしなければ、商品評価は得られない。そして、公開した説明に即した効果がない場合には、当然、消費者からクレームが掛かる。

これが現代の消費者社会の姿である。その消費者の要求を理解しない企業は、今後、存続できないだろう。それが、企業の問われる危機管理の一つとなるのである。


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経済性とは

三石博行


経済的であることは現実的であり、現実的であることが経済的である


持ち合わせの資金も資源も、しかも時間もない困難な状況の中で、問題を解決し、状況を切り開くためには、現状の力や資源を十分に活用する発想が必要である。

事業を成功させるためのマネージメント力とそれを実現するために必要な人的資源に関する、常に現実的な自己自身の理解に立ち、最も現実的な手段を選択することからはじめなければならない。

つまり、最小限の投資力で最大限の効果を生み出す戦略を持ち、現実の社会的文化的な状況を調査し、それに基づき具体的な対策や方針を考え、企画し、組織内部の人々の力を集める努力が必要となるだろう。

集団の中で常に自然に発生する異なる勢力、意見をプラスに活用する指導力がなければ、事業を成功させることは出来ない。

リーダーは、異なる意見を集め、異なる勢力のオープンな話し合いを組織し、それらの勢力が将来プランで大きく合意し合うために努力しなければならないだろう。

現実的な運営によって経済的な効果が生み出される。

その現実的な解決策を最後まで貫徹する強い意志と熱意を指導者は持たなければならない。

それによって、ようやくこの恐ろしく困難な事態の戸口に向かって、勇気と確信をもって進むことが出来るかも知れない。

困難な状況こそ合理的精神や経済的機能を生み出す環境となる。

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問題解決の思想

三石博行


実践的なものは理論的であり、理論的なものは実践的である


問題解決には、常に現実的な視点、目の前の状況や課題に対する問題解決力が必要となる。

と同時に、今後予測される現実に対する対応策を検討し準備する能力が一方で問われる。言換えると、最も現実的な回答を得るために、理念や思想と呼ばれる問題解決の方向や問題分析の視点が求められる。

現実的問題解決力は理念的課題分析力によって支えられ、社会や歴史の大きな流れを理解することで目の前の具体的な問題解決力の鍵を得る。

それは、あたかも険しい道を猛スピードで走るレーサーのように、命取りになる目の前の障害物を一つ一つ見逃さずにキャッチしながらも、少し遠くを眺め、道の流れを理解しておかねばならない運転と似ている。

一見異なる二つの理解力、極めて具体的な問題解決力と大きな時代や社会の流れを理解する俯瞰的な問題了解力、それらの二つの情報処理能力が、何をするにしても常に問われることになる。


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